錢形平次捕物控

母娘巡禮

野村胡堂





「八、あれに氣が付いたか」
 兩國橋の夕景、東から渡りかけて平次はピタリと足をめました。
 陽が落ちると春の夕風が身にみて、四方の景色も何んとなく寒々となりますが、橋の上の往來は次第に繁くなつて、平次と八五郎が、欄干にもたれて水肌を見入つてゐるのを、うさんな眼で見る人が多くなりました。
雪駄せつた直しでせう。先刻さつきから三足目の註文ですが、良い働きですね」
「お前も一つやつて見る氣になつたか」
「有難いことに、これでも檀那だんな寺に人別はありますよ」
「雪駄直しぢや不足だといふのか、罰の當つた野郎だ。見て居ると、雪駄直しの合間々々に、往來の人から手紙を受取つたり、ふところから手紙を出したりしてゐるだらう、雪駄直しの片手間に、使ひ屋にも頼めねえふみを預かつて居るんだね、細くねえ商法ぢやないか」
 兩國の橋のたもとの雪駄直しが、お店者たなものや水茶屋の姐さん連の文の受け渡しをして、飛んだ甘い汁を吸つてゐようとは、錢形平次も思ひ及ばなかつたのです。
 雪駄直しといふのは、編笠あみがさを冠つた爺々ぢゞむさい男が多いのですが、これは若くて小意氣で、何かのはずみに顏を擧げるのを見ると、編笠の下の顏は二十七八、にがみ走つた良い男でさへあります。
「聲をかけて見ませうか」
 八五郎は相變らず好奇心でハチ切れさうです。
「待ちなよ、脅かすと鳥が立つ」
「へエ」
「錢の外に膝の下に、眞鍮しんちうの花形になつた變なものを持つて居るだらう」
「もう暗くなるから、店を仕舞ふに違えねえ、お前はそつと後をつけて行つて見るが宜い」
「やつて見ませう」
 橋の袂に隱れて、雪駄直しが店を片付けるのを待つて、八五郎がその後をけて行つたことは言ふ迄もありません。
 その頃になるともう、橋の上にも橋の外にも、さすがに陣立ひろげて居る者もなく、うたひを歌つてゐた浪人者も、齒磨を賣つて居た居合拔きも、法螺ほらの貝を吹き立てゝゐた修驗者しゆげんじやも姿を隱して、橋は暮色のうちに、靜かに暮れて行きます。
 その晩亥刻よつ(十時)少し前、八五郎は世にも哀れな姿で、明神下の平次の家へ飛込んで來ました。
「わツ、面目次第もねえが――親分」
 などと濡れ鼠になつた姿を上りがまちに這ひ上つて少し醉つてゐるやうでもあります。
「どうした、八、二つ三つ背中をどやしつけてやらうか」
 平次は障子を押しあけて、そのていたらくを灯にすかし乍ら、ひどく不機嫌さうです。
「いやもう、それには及びませんよ」
「それとも井戸端へ連れて行つて、釣瓶つるべで二三杯御馳走しようか」
「もういけません、水も酒もお斷りだ。お藏前で散々呑んだが、大井の水はあまり結構ぢやねえ」
「あんな野郎だ、――折角けさした、雪駄直しはどうしたんだ」
「その事ですよ、親分、兩國を渡つて、お藏前までつけて行くと、あの野郎いきなり足を留めて、ちよいと親分――と聲を掛けるぢやありませんか」
「フーム」
「どうせ感付かれたものなら仕樣がねえ、と、性根を据ゑて、何んだ若けえの――とやり返すと」
「――」
「十手のガン首が、懷中ふところからみ出してゐるのはイキで良い、――同じつけて下さるなら、話し乍ら行かうぢやありませんか。退屈しなくつて飛んだ助かる――てやがる」
「人を喰つた野郎だな」
「それから、あの雪駄直しの言ふ事には、――駒形樣の門前に、馴染のどぜう汁があるから、つき合つちやくれませんか。腹を減らして、誰も待つて居てくれないお屋敷へ歸るなんざ智慧が無さ過ぎるし、親分の方にお調べがあるなら、かう一杯キユーツとやり乍ら承はらうぢやありませんか。あつしと一緒に呑むのが嫌だと仰しやるなら、膳だけ別にして背中合せでやることにしませう、お役人に粕臭かすくせえ酒をおごつちや、あつしも仲間に濟まないし、親分だつて、十手のガン首に相濟まねえことになるでせう――とかうだ」
「行屆いたことだな」
「それから、二人で始めましたよ。下地は好きなり御意ぎよいはよしと來ましたね、あの野郎と背中合せになつて、てんでの銚子から、呑むほどに浴びる程に、どぜう汁が來た時は、もう大ヘベレケ」
「頼りない野郎だな」
「それでも役目の方は忘れませんや。根ほり葉ほり訊くと、あの野郎、山の宿の三軒長屋で、留吉と言へば知らない者の無い男ですつてね。――お調べの筋は何んですか知らないが、雪駄を直す外には藝當の無い男でござんす、家へ歸つたつて女房も子供もなく、連れ添ふのは自分の膝つ小僧ばかり、毎日儲けただけづゝ呑んでしまつて、明日の事は考へないことにして居るし、かうですよ」
「あの手紙の取次と、手紙と一緒に見せた眞鍮しんちゆうの札は何んだつたか、訊かなかつたのか」
きましたよ、恐ろしく念入りに。すると、雪駄直し丈けぢや暮しの足しにも、飮代のみしろにもならないから、頼まれて人樣の手紙を取次いでゐるが、數多いことで、一々顏を覺えちやゐない。そこで飾り屋に頼んで眞鍮の迷子札のやうなものを打たせ、番號をつけて、それを一緒に見せて貰ふことにして居る。番號を合せて手紙を渡さないと、八兵衞さんの勘定書が六兵衞さんへ行つたり、お光坊の戀文がお花坊のところへ間違つて行かないものでもない――とね」
「成程、それで一應はわかつたが、それからどうしたんだ」
「其處まで聞けば、山の宿しゆくの家へ行つて見るまでもあるまいと、黒船町で別れて、ブラリ/\と引返すと、後ろからやつて來た人間が、れ違ひ樣、あつしの襟髮に手を掛けて、阿身陀樣に背負はれたと思つたら、あつといふ間もなく、頭の上で二つ三つもんどり打たせられ、氣のついた時は、大川の水の中に抛り込まれて居ました。岸から一間も先へ飛込んだから、冷やりとしただけで、幸ひ怪我は無かつたが――」
「馬鹿野郎、誰がお前の怪我なんか氣にして居るんだ」
「へエ」
「呆れ返つてモノが言へねえ。第一あの雪駄直しは、山の宿の留吉なんかぢや無いぜ」
「へエ? 親分はそれを知つて居たんですか、隨分、人が惡い」
「お前に後をけさせてから、橋番始め近所の衆に訊いたんだよ」
「なーアる」
「あの雪駄直しは、山谷の巳之松みのまつといふ男さ。わけがあつて自分から身を落してあんなことをして居るんだとよ、わけても柔術やはらは名人ださうで、お前のやうな間延まのびのした人間を、二人や三人大川へ抛り込むのは屁でもない」
「よーしツ、明日は兩國へ行つて、あの野郎をヒドい目に逢はせなきや」
「無駄だよ、當分兩國橋の側へも寄りつくものか」
「へエ」
 八五郎は如何にも口惜しさうですが、この一夜の冒險は、思ひくところなき大失敗です。


 翌日は平次と八五郎は、山谷の田圃に鼠の巣のやうな巳之松の家を訪ねましたが、留守をしてゐるので、十六七の可愛らしい娘が一人、何を訊ねても、一向に要領を得ません。
「巳之松はどうしたんだ」
 と訊くと、
「昨日から歸つて來ませんよ」
 と應へるだけ。
「お前は巳之の身寄の者か」
「いえ」
 娘は激しく頭を振ります。
「一人で留守番をしてゐるのか」
「お母さんはかせぎに出ました」
「稼ぎ?」
 問ひ詰められて、娘はハツと顏を赤らめました。
「巡禮に出るんです」
「お前も出るんだらう」
「――」
「近頃評判になつてゐる母娘おやこ巡禮といふのは、お前達のことだつたのか」
「――」
 評判と言はれたのがひどくきまり惡かつたのでせう。娘は又顏を赤らめました。この娘が手甲脚絆きやはん負摺おひづるを背負つて、饅頭笠まんぢゆうがさに顏を隱したとしても、その楚々そゝたる姿や青春の美しさが沁み出るやうな御詠歌ごえいかの聲や、ほのかに見える下半部の顏――わけても白くふくよかな顎の魅力が、江戸つ兒の美の探求眼を免れる筈もなく、一部の間に早くもうはさをバラいてゐたのも無理のないことでした。
「巡禮にもいろ/\お宗旨があるといふことだ、お前のところのお宗旨は何んだえ」
「觀音さま」
 娘の答は素直で手輕でさへありました。尤も山谷の田圃長屋に住む母娘の巡禮では、明かに世過ぎの稼ぎで、御宗旨などは大した重要なものでは無かつたでせう。
「ところで、お前達と巳之松は、どういふ引つ掛りになつて居るんだ」
 平次は立ち入つたことを訊ねました。これがなか/\に厄介やくかいな問題を含んで居さうです。
「遠州相良さがらの者で、同國といふだけでございます。私と母が江戸へ出て、頼るところも無くて困つて居るのを、引取つてくれました」
「雪駄直しを承知で、お前達は一緒に住んで居るのか」
「それが、どうして惡いでせう。田舍に居る時、巳之松さんは、村でも指折りの家柄の若旦那でした」
「成程」
 平次は默つてしまひました。それが良い事か、惡いことか、お信の顏には自信と誇りが充ちて、平次に文句も言はせない嚴しさがあつたのです。
「親分、歸りませうか」
 八五郎は此娘の品位に蹴壓されたものか、妙に尻ごみをして居ります。
「一つだけ言つて置くが、巳之松が歸つたら、忘れずに近所の番所へ屆けて置くんだぜ、宜いか――少し調べ度いことがあるから」
「ハイ」
「さア、歸らうか、八、おや、待つてくれ」
 平次は小戻りして門口に立停りました。見ると入口のガタピシした板戸の上、ひさしの陰になつて、容易に見えないところに異樣なものが打ちつけてあるのです。
 それは徑一寸二三分の眞鍮板で、形は四つべんの梅の花、しべのところの模樣は、まん字になつて居るといふ、世にも變つた品でした。
「これは何んだえ」
 まだ入口に立つてゐるお信に、平次は訊ねました。
「觀音樣の講中こうぢゆうの印ですよ」
「おツ、さう言へば」
 八五郎も思ひ當りました。昨日兩國橋で、巳之松に手紙を渡したのも、巳之松から手紙を受取つた者も、これと同じ眞鍮の手形を持つて居たことを思ひ出したのです。


 この厄介な事件は、ひどく平次の神經を惱ませました。別に盜まれた金も無く、殺された者も無いばかりでなく、この事件のために災難を受けたものは、大川に抛り込まれた八五郎位のもので、何んの變哲へんてつもない事件なのですが、その底に妙に煮え切らないものがあつて、平次をすつかり手古摺てこずらせてしまつたのです。
「親分、山谷に三日張り込みましたよ。巳之松はまだ姿を見せませんが、お茂とお信の母娘おやこは、よく巡禮に出かけますよ」
いて行つて見たかえ」
「念入りに後を跟けましたよ。一日は山谷から根岸へ出て、山下から池の端へ出ると、何を考へたか急に歸つてしまひましたよ。その時は母親一人でしたが」
「御詠歌は、上手な方か」
「恐ろしく下手つ糞で、何んかかう愚痴ぐちを言つて居るやうでしたよ。節なんざありやしません」
「文句は?」
「それもちんぷんかんぷんで」
「お前は顏を見られなかつたのか」
「見られたかも知れませんね。池の端の捨石の上で、晝の支度をしてゐるのを、私はうつかり見てゐたんです」
「すると?」
「お茂は自分の額と胸と兩方の肩を指で押へて變な身振りをしましたが、少し離れて默つて見てゐる私の顏を見ると、あわてゝ立上つて、さつさと山谷へ戻つてしまひましたよ」
「晝飯は食はずにか」
「食はなかつたやうです」
「娘は?」
「二日目に母親と二人で出かけましたが、あの巡禮姿の可愛らしさと言ふものは――」
「宜い加減にしろよ、馬鹿々々しい」
「お信の方の御詠歌は聽きものでしたよ、――此邊へも時々年寄の婆さんが、鐘を叩いて、浮陀落ふだらくを歌つてやつて來ますが、あれとは大變な違ひですね」
「文句は」
「そいつはわかりやしません」
「今度は、その文句を覺えて來てくれ。それから巡禮は一軒々々歩くのか」
「飛び/\ですよ、一町内に二軒あつたり三軒あつたり」
「店作りの立派な家をるとか何んとか」
「大違ひで、あまり金のありさうな家へは寄らなかつたやうで」
 八五郎の報告はこれでザツと終りました。
「俺の方は、一向つまらなかつたよ」
 平次はひどくがつかりして居ります。
「何處へ行つたんです親分は?」
「八丁堀の組屋敷から、お南の書き役まで一と廻りやつて來たが」
「へエ?」
「近頃何んかかううるさい泥棒が無かつたか、妙な人寄せは無かつたか、謀反むほんの匂ひでもなかつたか――そんな事を念入に調べて貰つたんだ」
「?」
「が、天下靜謐せいひつだな、今年になつてからは、ろくな巾着切きんちやくきりも出て來ないよ。謀反なんかあるわけは無いし」
「お上の目をかすめて、妙なものを興行してゐる野郎はありやしませんか。江戸は廣いし、物好きな人間の數が多いから、山の手のタチの惡い旗本屋敷には、どうかすると飛んでも無え見世物なんか興行してゐるさうですよ」
 財政的にも人格的にも破産はさんしてしまつた旗本には、自分の屋敷を博奕宿ばくちやどに貸したり、妙な女を多勢引入れて、公然密會場所に提供したり、いかさまな藝當を見せたりして、小遣を稼いでゐる者もポツ/\現はれて來て居るのでした。
「そんなものはあつたところで、詮索せんさくするほどのことではあるまいよ」
「すると、あの巳之松の企らんでゐるのは何んでせう」
「そいつがわからないから困るのだ。兎も角、山谷のあの家から眼を離すな」
「へエ」
「それから、もう一つ、巳之松のところは、滅多に人が出入しないが、妙な者が少し出入して居るやうだ、その名前を聽込んで置け」
「へエ」
「こいつは六つかしい事かも知れないが、お茂お信母娘が、ふだらくを歌つて門に立つた家を、お前は一軒殘らず知つて居るだらうな」
「さア――大概、覺えてる積りですが――」
 八五郎は覺束おぼつかない首をひねるのでした。


 巡禮母娘の後を追つて歩いてゐる八五郎は、それつきり行方不明になつてしまつたことは、平次に取つても思ひ及ばぬ大異變でした。
 それから三日目の晩、平次はいつに無いムシヤクシヤした心持で、一人では滅多にやらない晩酌などつけさせ、丁度半分程やらかして、八五郎を待つともなく、あとの半分を心長く絞つて居る時です。
「錢形の親分さんのお家はこちらで?」
 いきなり格子に身體をり寄せて、こんな事を言ふのは、まだ二十一二と言つた、凄いほどの美い女でした。
 白粉の厚さ、口紅の濃さ、闇を染めるやうな甘つたるい言葉、背がスラリとして、身のこなしの線がなよ/\として、世にも惱ましき存在ですが、野狐が化けたのではないことは、五いんの調子にも明かです。
「どなた樣でせう」
 平次があごをしやくると、女房のお靜は、いそ/\と飛出して、この亥刻よつ過ぎの客を迎へ入れました。
「これを讀んで下さいな、八五郎親分が――」
 女は格子にからまつたまゝ、何やら紙片を差出すのです。
「八五郎さんが何うかしたんでせうか、ちよいと、中へ通つて下さいませんか」
「いえ、そんな事をして居ちや、――大急ぎなんですから」
 女にせき立てられて、お靜はその紙片を、平次の膳まで、轉げるやうに運びました。
「何んだ八の手紙だ、馬を曳いて來るよりは、この方がまだしも體裁ていさいは宜いが――」
 少し醉つてゐた平次は、お靜が女から受取つて來た皺くちやの手紙を、それでも心せく樣子で膝の上に押しひろげました。
「――何、大急ぎ申入れ候――か、相變らず下手な字だぜ。だからたまには手習もして置けつて言ふんだ、男の恥になるぜ」
「早く讀んで上げて下さいな、八さんがどうかしたんぢやありませんか」
「――何、何――あつしは何處かに閉ぢこめられ、手足も縛られて、身動きもならぬ有樣に候――場所は何處ともわからず異樣な念佛の聲が近々と聞え申候、漸く人の情にて右手の繩をゆるめて貰ひ、紙と筆を手に入れて、此手紙を書き申候、何卒々々一刻も早く、親分のお助けを――」
 八五郎の手紙は其處でプツリと切れて居ります。恐らく其後へ詳しく場所の見當でも書いたのを、むしり取られてしまつた樣子です。
「八さんがどうかしましたか」
「命が危ないかも知れないとよ。此手紙を持つて來た人は何處だ」
「外で待つて居ますよ」
「よし、直ぐ出かけるから、暫らく待つてもらつてくれ」
 平次は晩酌の醉もさめてしまつて、手早く仕度をしました。――と言つたところで、馴れきつて居るので、十手を懷中にブチ込んで、入口に出るまでには、ほんの煙草三服ほどの手間も取りません。
「あ、ちよつと、待つて下さいな」
 大事な門出かどでと見たから、お靜は火打箱を持つて追つかけて來て、チヨン/\とかねを鳴らしました。
「大丈夫だよ、心配することはねえ。――家の方は、すぐお隣の小母さんを頼んで來るが宜い」
 言ひ捨てゝ外へ、格子を締めると、おぼろな春の夜の路地中に、スラリとした若い女が、惱ましくそれを待つてゐるのでした。
「御苦勞々々々、さア、案内を頼むぜ」
 平次は女へ聲を掛けると、
「――」
 女は振り返つてニツコリしたやうですが、非凡の美しさが夜目にも引立つて、默つて先に立つのも妙に無氣味です。
「場所は何處なんだ、え、御女中」
 と言つても、相手は町家風の――寧ろ素人らしくない媚となまめかしさを持つた女ですが、平次はかうでも呼びかける外はありません。
「根岸です――が」
「根岸?」
「お手紙は其處で人に頼まれました」
「あの手紙には、宛名が無かつた筈だが」
「その人の口から聽きました。明神下の平次親分のところへ持つて行くやうに――と」
「有難う。書いた人間はよくわかつて居るが、何處かに閉ぢ籠められて居ると言ふことだが、其處は一體どんなところなんだ」
 平次は急ぎ足に根岸へと向ひ乍らも、少しの油斷もなく女に問ひかけるのです。
「泥棒の巣なんです」
「泥棒の巣?」
 女の答は思ひの外でしたが、それつきり口をつぐんで、あとはもう、何を訊いても言はうともしません。
 朧ではあつたが良い月でした。道が山下にかゝると、女は時々振り返つて、後からいて行く平次の姿を確かめますが、それが狐のやうな臆病さで、ひどく平次をいら立たせます。
 美しさは月の光の下に、益々幻怪味を増して、これはいづれ、唯の人間ではあるまい――と言つた、平次ほどの者の心にも迷ひが射しました。
「あの、少し用事がありますが、暫らく待つて下さいませんか」
 女は兎ある路地の外に立ち停りました。何んか、ひどく言ひ憎さうです。恐らくこんなところに、持たしてある男でも居るのでせう。
「あ、宜いとも」
「ほんの一寸ですから」
 言葉がをはらぬうちに、女の姿は、路地の闇にヒラリと飛込みました。
 それから暫らくの間、平次は煙草を吸ひつけるさへ遠慮して、ジリ/\と待ちましたが、何時まで經つても女は戻つて來さうもありません。
「しまつた」
 平次が氣のついたのは、その直ぐ後でした。
 此處までおびき出されて來て、まんまと女にまかれてしまつたのです。
 明神下から此處まで、平次を案内して來た女の態度を思ひ出しながら、兎も角も、路地の中を一應調べて見ましたが、其處は平次もよく知つてゐるところで、人間一人隱れる隈もなく、又女が入つて、油を賣つてる場所などがある筈もありません。
 女は平次をおびき出して、明神下の留守宅へ、何んか良からぬ事を企らむのではあるまいか――と一應は疑つて見ましたが、八五郎の手紙が紛ふ方なき眞物であり、此處へ來るまで、わけても明神下を出る頃の女の態度の眞劍さなどから考へて、あれは決してこしらへ事ではないといふ事だけはよくわかります。
 恐らく女は、何んかの事情で八五郎に同情し、――又は仲間を裏切る心持になつて、あの手紙を八五郎に書かせ、現場に平次を踏込ませる氣でやつて來たには違ひなく、時が經つにつれ、冷たい夜風に吹かれて冷靜さを取戻すと、最初のその計畫が、自分乍ら恐ろしくなり、急に氣が變つて、平次をまいて逃げ出したものでせう。


 では、八五郎は何處に居るか、平次は山下の拔け裏の入口に立つて、此時ほど自分の無力を痛感したことはありません。
 根岸――と女の口から聞きましたが、此夜更けに盲滅法めくらめつぽふに根岸へ飛んで行つたところでどうにもならず、唯一の便りは山谷の巳之松の巣ですが、それも土地の御用聞に頼んで嚴重に見張らせてる外に、平次自身も一日一度づつは覗いてゐるのですが、此間の事件があつてから後は、殆んど空店あきだなのやうに空つぽにして、巳之松は言ふ迄もなく、母親のお茂も、娘のお信も寄りつきません。
 念のために山下中の路地を覗いた上、無理とは知り乍ら、根岸のあたりを一と廻りして、平次は夜半近くなつて明神下に引揚げて來ました。
 あの時の平次の打ちしをれた顏は、永年連れ添つてゐる、女房のお靜をどんなに驚かしたことでせう。
「お前さん、八さんは?」
「見えないよ」
 うな垂れた平次の首筋から溜息が漏れさうです。
「どうしたんでせうね」
「あののう天氣な野郎が、助けてくれとぬかすやうぢや、よく/\困つて居るに違えねえに、肝心の案内に立つた女が姿を隱してしまつたんだ。考へて見ると此方が間拔けさ、――まア一と晩、ゆつくり寢て、良い夢でも見るとしようか」
 平次も投げる外は無かつたのですが、その晩平次は、ゆつくり寢るどころの騷でなく、まんじりともせずに、考へ拔いて明かしたことは言ふ迄もありません。
「お靜、わかつたよ」
 翌る朝の陽の目を見ると、平次は豁然かつぜんとして胸を叩くのです。
「どうしたんです、八さんの行方でも――」
「其處迄はまだわからねえが、ありや切支丹きりしたんだつたんだ」
「切支丹?」
「御禁制の宗門しうもんだよ。雪駄直しの巳之松を使つて、手紙をやり取りしたり、集まる場所を打ち合せて居たんだ。仲間の割符わりふはあの四つ瓣の梅の眞鍮札さ、中に彫つてあるまん字、四つ瓣の花形、皆んな十字架クルスぢやないか」
「――」
 平次は自分に言ひ聽かせるやうに、お靜を相手に語るのです。
「巡禮は御詠歌を歌つて、人の門に立つのが當り前だが、鈴か何んか振つて、町並を一軒々々貰つて歩くか、千鳥ちどりがけに歩くのが當り前で、一町内に一、二軒と、選り出して歩く巡禮なんて、そんなものはあるわけは無い、それに――」
「?」
「御詠歌の節も變だし、文句もわけのわからないものだと言つたぢやないか。それは多分切支丹の御詠歌で、こちとらの耳に聽いたんぢやわからない言葉に違えねえ」
「もし?」
「さうだ、切支丹の集る場所か何んかを嗅ぎ出せば、八の野郎が縛られて、閉ぢ込められて居るに違えねえ――そんな馬鹿なことはありさうもないが、と思つたのが此方の間違ひだつた」
「相手が切支丹だつたら、八の野郎命だけは無事に違えねえ、切支丹は決して人を殺さないと言ふぢやないか」
 が、切支丹と雖も、法敵はどうするだらう、平次は一脉の不安を感じましたが、それを強ひて打ち消して、兎にも角にも、砂利を噛むやうな心持で朝の膳に向ひました。
 それがざつと濟んだ頃、
「親分」
 飛込んで來たのは、根岸の三吉といふ、日頃平次に傾倒してゐる若くて威勢の良い下つ引の一人でした。
「どうした三吉」
 平次は根岸から來た三吉の顏を見ると、茶碗を抛り出して飛出したのです。
「根岸に大變なことがありました」
 三吉の話のテムポの惡さ。
「八がどうかしやしないか」
「八五郎兄哥あにいぢやありません。お梅といふいろは茶屋の名題の女が、御隱殿ごいんでん裏で絞め殺されて居るんで」
「よし行つて見よう」
 八五郎に間違ひがあつたので無いと聞いて、いくらかホツとしましたが、兎も角、根岸と聽いては捨て置けません。
 御隱殿裏に着いたのは、まだ朝のうち、とある藪蔭に、荒筵一枚をしとねに、淺ましくも美女の死骸は横たへられて居たのです。え始めた若葉の上、連翹れんげうが上から差しのぞいて、淡い春の陽、遠卷にした野次馬の眼にも、荒筵からはみ出した白い脛と、踏み脱いだ下駄が、赤い鼻緒を下にして、八文字に飛散つてゐるのが、不思議な魅力だつたでせう。
「あれですが、親分」
 町役人をわけて入つた三吉は、荒筵を退けて、平次の前に死骸をさらしました。
「あ、あの女だ」
 樣子は變つて居りますが、昨日八五郎の手紙を持つて來て、明神下から上野山下まで、平次をおびき出した、あの狐のやうな感じのする美女に間違ひもありません。
「親分は御存じですか」
「ウ、いや、ほんの顏を知つてる丈けだよ」
「上野のお山中やまぢうを夢中にさしたといふ名題の白狐ですよ、お梅と言つて」
「いろは茶屋に今でも稼いで居るのか」
「それは昔の話で、――近頃は男をこさへて、茶汲の足は洗つたと言ひますが」
「男といふのは」
「それが、よくねえ男で、――兩國で雪駄直しをしてゐる、巳之松と言つて――」
「何、巳之松?」
 平次は又驚かされました。あれが巳之松の情婦となると、話は又面倒になりさうです。
「尤も、世帶を持つたのはほんのちよいとで、近頃巳之松とも別れたと言ふことですが、兎も角も、一應」
 三吉は一とわたり説明をして身を退きました。
 襟も、褄もひどく亂れて居りますが、それは恐らく斷末魔の反抗のためでせう。凄いほど肉感的な女で、晝の光で見ると、羞耻しうちと貪慾と、汚辱感と、魅惑で、此方の胸が惡くなるやうです。だが、この女には、罪惡と淫蕩いんたうとで、骨の髓まで腐つて居さうなところに、妙に清らかさが殘つて居て、死の浄化のせゐか、女人成佛によにんじやうぶつと言つた、反對効果的な、尊さの反面を持つて居るのは何んとしたことでせう。
 傷といふものは一つも無く、強い腕で首のあたりを卷かれ、其儘扼殺やくさつされたことは疑もなく、衣紋の亂れのひどいのに比べて、顏は寧ろ陶醉たうすゐ的な、法悦的な安らかさをたゝへてゐるのです。
 身扮みなりは思つたほど贅澤ではなく、いろは茶屋で鳴らした女といふにしては寧ろ地味の方、
「ところで、死骸を今朝、土地のお百姓が見つけて、直ぐあつしに知らせてくれましたが、駈けつけて見ると、少しはだけた胸の上に、これが載せてありましたが――」
 三吉は腹掛の丼から、眞鍮の札を一つ取出して、小錢か何んかのやうに、自分ので、ポンと裏を返して見せるのです。
「あ、あれが、あつたのか、胸の上に」
「何んでせう、親分」
「さア、俺にもよくはわからないが」
 さう言ふ平次には、もう一切の事情が、たなごころを指すやうにわかつて居さうです。
「下手人は?」
「すぐわかるよ、――ところで三吉」
「へエ」
「この邊には、觀音講の講中が多勢居ることだらうな」
「そんな事を聽きますが、妙に秘し隱しに隱して居て、誰が講中なのか、一向わかりませんよ」
「月並の寄合などは無いのか」
「講中のものは、仲間の家に寄つて、時々念佛講だか御詠歌だかをやつて居るやうですが、何處に集まるか、これも見當はつきません」
「よし、勝負は今夜だ――八五郎は助けなきやならないし、この女を殺した下手人は許しちや置けない、手一杯に人を集めてくれ」
 平次は日頃になく張り切つて居るのです。


 その夜、根岸を中心に張られた網は、近頃に無い大捕物陣でした。捕物頭は與力笹野新三郎、これは名目だけで、實權は錢形平次が握つたも同樣、それに淺草下谷から狩り集めた組子がざつと三十人。
「錢形の親分、三輪の萬七親分が、お神樂の兄哥をつれて、お手傳ひがしたいと言つて來ましたよ」
 根岸の三吉がそつと囁くのです。
「此處で人騷がせをするんだから、土地者の三輪の親分に、ちよいと渡りをつけて置いたよ、よく禮を言つて置いてくれ」
「へ、さうですかね」
 三吉は不服さうに引き揚げます。八五郎が居ると、ちよいと無事には濟みさうもありませんが、その八五郎の消息は、今以てわからないのが平次を憂欝にします。
 三十人の組子は、適當な間隔を置いて、八方から根岸に入りました。一物一事も見落さぬ攻め手で、潮が砂地を侵蝕しんしよくするやうな、根強い調べです。
 遲い月はまだ出ませんが、此調子で甞めて行くと、一軒々々のおかずから、寢物語までも手に取るやうにわかるでせう。まして切支丹の講中の寄合などがあつたとしたら、どんなに息を殺したところで、その氣はひがわからない筈はありません。
 かうした網は暫らく續きました。御隱殿裏の平次のところへは櫛の齒を引くやうな報告です。
「親分、たうとう見付かりましたよ。――直ぐ其處ですがね。あの竹藪の奧の寮から、得體の知れない御詠歌が漏れて、大地を這ふやうに寄せて居る者の身に響きますよ」
「よし、それだ、表から眞つ直ぐに入れ、裏からは――」
「三輪の親分が裏へ廻つたやうで」
「油斷するな、ふくろの聲が合圖だよ」
 この作戰は、先づ間違ひのないものでしたが、いざといふ時になつて、御詠歌がピタリと止むのを合圖に、寮の八方から、ドツト一時に火の手が揚つたのです。用意した焔硝えんせうで燃え草に火を放つたのでせう。
「それ、火事だ」
 騷ぎは、一瞬にして、大捕物から火消になりました。その頃の江戸の町が、どんなに火事に對して敏感であつたかは言ふ迄もありません。兎も角も、表からも裏からもあまり人が逃げて出る樣子もなく、火消しに夢中になつて居るうちに、多分は横手から逃げ散つたものか、僅かに三輪の萬七の手に、二人女が捉まつたといふ心細いものでした。
「親分、火の中に人が居るやうですが」
 三吉は燃えさかる猛火の中を指すのです。
「よし、どんな事をしても引出せ、八の居る場所を知つてるかも知れない」
 平次が井戸端で一パイ、春の水の冷たいのを頭からザブリと被つて飛込むと、三吉も負けじとそれに續きました。
 猛火の中に泰然と坐り込み、双手を上に差上げて、必死の熱祷を續けて居るのは、何んとそれは、兩國の橋の袂に居る雪駄直しの巳之松ではありませんか。
「巳之、八五郎を何うした。何處へ隱した。八五郎を殺しては、お前の宗旨にも濟むまいぞ」
「親分、私は死なゝきやならない、放つて置いて下さい」
 巳之松は二人に手を取つて引出され乍ら、尚も猛火の中へ驅け戻らうとするのです。
「八はどうした、八五郎を助けるのだ」
「あの人は大丈夫だ。土藏の中に居ます。あの裏手の土藏の中に」
 よし、平次が振り返ると、三吉はもう二三人の仲間をつれて燒け殘つた土藏の戸前に飛付いて居るのです。
「八が無事か、無事でないか、本人を見てから言ふ事がある――が」
 と平次。
「いえ、あつしは最初から八五郎親分を殺す氣は無かつた。あの人があんまりいろ/\の事を知つてるので、仲間の者が身の處置をつける迄、暫らくの間八五郎親分に窮屈な思ひをして貰つただけのことです」
 巳之松は必死となつて、辯ずるのです。此時三吉は、材木を持出して、土藏の扉はもう半分ほど打ちこはした樣子。
「そのお前が何んで、あの女を殺したのだ。――お梅はお前とわけのある仲ぢや無いか、お宗旨の方は、人を殺すのはやかましく止めてあると聽いたが」
 平次は大地の上にしよんぼり坐つて、寮の燒け落ちる焔を眺めて居る、無心に近い巳之松に最後の問を浴びせるのです。
「あれだけは惡かつたと思ひます。でも一度あんな暮しから脱け出しても、あの女の魂だけは救ひきれませんでした。あの女は私とお信さんの間を疑つて、私と元のヨリを戻さなきや、あの寮に集まつた信者達を、皆んな上役人に引渡して、二十何本の磔刑はりつけ柱を、鈴ヶ森に押つ立てゝ見せるとおどかすんです。脅しぢやありません、あの女はそれをやり兼ねない女でした――元治九年に、芝田町九丁目智福寺の跡に、五十本の磔刑柱が立てられ、パアデレ・アンゼリス樣、パアデレ・フランシスコ樣、シモン遠甫樣その他十六人の方々を始め、多勢の切支丹が燒き殺されたことは親分も御存じでせう。あの女はもう一度それをやらかして、笑つてやらうと言ふんです、――惡魔のやうな女でした」
「――」
「女は現に昨夜も此處を拔出して何處かへ行つて歸りましたが、――上役人に申上げたから、お手入も遠いことではあるまい。お前達は皆んな揃つて、磔刑はりつけ臺の上から、品川の海が眺められるよ――と斯う」
「そのお梅は、昨夜、明神下の俺の家へ來たのだよ。俺を誘ひ出して、上野山下まで來ると、急に氣が變つて、俺を拔け裏でまいて姿を隱してしまつたが――」
「あの女が?」
「あの女にもまだ、お前達を訴へ出る決心がつかなかつたのだらう」
「あ、デウス樣」
 巳之松は、いきなり大地の上へ身を伏せました。炎はもう寮一面を甞めて、ドタリと棟木が燒け落ちると、火花の渦がムラ/\と中天に湧き上つて、四方はクワツと明るくなります。
「あの女にも、まだ人の心は殘つて居た」
 平次は眼を反して、今朝まで女の死骸のあつた方を振り返るのです。
「私の過ちでした。――兎も角、何十人の同志の命を救ふために、私はあの女を殺してしまふのが正しいことだと思ひ込みました。でも、あの女にもまだ、あ、あ、神樣は、埋火うもれびほどの人の心を殘して置いて下すつたのに、私は、私は此手で、此腕で、あの女を殺してしまつたのです。――久し振りに私の腕に抱かれて、私は嬉しい――と泣き乍ら、喜んで死んで行くやうなあの女を、私は、――神樣のおきてを破つて、到頭殺してしまひました。親分」
「――」
 巳之松は泣きに泣き乍ら大地を叩いて女の名を呼ぶのです。
「仲間はもう皆んな逃げてしまひました。私はもう、思ひ殘すところもありません、どうかこの私を、お梅殺しの下手人とでも、切支丹宗徒とでも、何んとでもして、縛つて下さい、私はもう喜んで、昔々の聖者達のやうに、品川の海を眺めて燒かれて死んでしまひます」
 巳之松が身も世もあらぬ姿で歎くところへ、土藏の戸前を打ち破つて、散々のいましめの繩を解かれて、八五郎は虎の子のやうに飛んで來たのです。
「親分、相濟みません、飛んだ縮尻しくじりで」
「八、まア、無事でよかつたな、三日も土藏に居ちや、さぞ腹も減つたらう」
 平次の顏はそれを迎へて漸くほころびました。何より先に八五郎の胃の腑を心配したのはその爲です。
「なアに、あの巡禮母娘が親切にしてくれたんで、思ひの外樂でしたよ、おや/\/\、其處に居るのは巳之松ぢやありませんか。その野郎にあつしはうんと言ひ分がありますよ」
「あ、八五郎親分」
 巳之松の顏には、何んと八五郎の無事を見る喜びの色さへあつたのです。
「野郎、お前にはひどい眼に逢はされたぞ。大川の水を呑まされた上、土藏の中に三日も投り込まれて――」
 八五郎は拳固を振りあげていきり立つのです。
「八、止せ、見つともない」
 それを留めるのが平次にも精一杯。
「親分、――三輪の親分が、逃げ遲れた母娘巡禮を縛つて此方へ來ましたよ」
「何? 母親巡禮? お茂さんとお信さんが到頭」
 巳之松はヨロ/\と立上ると、恐ろしい衝動に打ちのめされたらしく、大地の上へ意氣地もなく尻もちをつくのでした。
「巳之、お前はあの二人を助け度いのか」
 と平次、
「錢形の親分、拜みます。あの二人には何んの罪もありやしません。あつしの手先になつて働いただけで――」
 巳之松はもう一度、大地の上に這ふのでした。
「お、錢形の親分、――大層お手柄を立てたぢやないか」
 三輪の萬七は、ニヤリ/\し乍ら近づいて來ました。後ろからはお神樂かぐらの清吉が、お茂お信二人の巡禮に繩を打つて引立てゝ居ります。
「三輪の親分か、飛んだ御苦勞だつたね。ところで、此處は三輪の親分の繩張りだ。お梅殺しの下手人を引渡して、親分の手柄にして貰ひ度いがどうだらう」
 平次は妙なことを言ひ出しました。
「何んだと? 錢形の」
 萬七はあまりのうまい話に膽を潰しました。
「お梅殺しの下手人で、雪駄直しの巳之松、切支丹の先達でもあるさうだが、そんな事はどうでも宜いとして、三輪の親分の手で擧げた巡禮母親、ありや唯の巡禮で、巳之松にだまされて使ひ走り位はしたらしいが、大した罪も無ささうだ、巳之松の代りに、俺が貰つて行くが宜いだらうな」
 平次の狙ひは其處にあつたのです。
「あ、宜いとも、清吉、母娘巡禮の繩を解いて、錢形の親分に渡してくれ。その代りお梅殺しの巳之松を貰つて行くから」
「それぢや」
 この交換は極めて簡單にらちがあきました。萬七清吉に引立てられて行く雪駄直しの巳之松が、火の餘燼よぢんと今出たばかりの月光に照されて、母娘巡禮の泣き濡れた姿と、平次の顏を伏し拜み伏し拜み行くのを、何が何やらわけもわからず、八五郎は茫然ばうぜんとして見送つて居るのでした。
        ×      ×      ×
 翌る日の晝頃、お茂、お信の母娘巡禮は、平次と八五郎に送られて、高輪の木戸を越して東海道の旅に上りました。
「それぢやおつ母ア、お信さん、道中氣をつけて、眞つ直ぐに故郷の遠州相良さがらへ歸るんだぜ。旅には慣れて居るやうだが、水當り、食あたり、ことに胡摩ごまの蠅に氣をつけるやうに」
 平次はツイ餘計なことまで氣を配ります。
「有難うございます。路用まで澤山頂戴して――もう決して二度と江戸へ出ることぢやございません、巳之松さんの冥福めいふくをお所りして生涯相良で暮します」
 母親の聲はれました。
「さう/\その心掛けだよ、お信さん、親孝行するんだ」
「お靜姐さんに宜しく、たつた一と晩だけれど、昨夜は寢ずに私共の旅仕度までして下すつて――」
「なアに、そんな、つまらねえ」
「それぢや親分さん」
 母娘巡禮は見返り勝ちに品川へ入つて行きます。
 東海道の四月、櫻は八重が眞つ盛り、菜の花畠の中を、二人の異樣な御詠歌が、江戸の坩堝るつぼを遠ざかつて行くのです。
「親分、――まだ江戸には切支丹宗徒がうんと居ますぜ」
 歸る道々、八五郎は妙なことに氣がつきました。
「?」
「あの二人の巡禮が歩いた家の、門口の眞鍮の札、私は皆んな覺えて居ますが――」
「そいつをほじくり出して、又江戸に磔刑柱を百本も立てたいとお前は言ふのか」
「そんなわけぢやありませんがね」
「それぢや默つて居ろ、御用聞は人を縛れば宜いてものぢやない」
「へエ」
「そんなに縛り度きや、米屋に奉公して、俵でも縛るが宜い、――無暗に切支丹などを縛るのは、殺生ぢやないか、そいつは寺社のお侍に任せて置け」
「あの二人は、もう川崎かな、足弱づれだから、まだ南品川でブラ/\して居るかも知れないな」
 平次は立止つて後ろの方、霞の奧をふり返るのです。
 かうして、元治九年の大迫害以後、江戸からは切支丹の姿を潜めましたが、地下水の如く潛透して、細々と明治の御解禁まで續いたといふことは、何んといふお宗旨の強さでせう。
 巳之松は詮議せんぎ中牢死し、根岸から山谷へかけてはびこつた切支丹も、それつ切り消息を絶つてしまひました。





底本:「錢形平次捕物全集第一卷 恋をせぬ女」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年3月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年3月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年2月20日作成
2017年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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