「
松が取れたばかり、世界はまだ
「ま、八さん、お早やうございます」
お靜はそれでも、
「八か、脅かすなよ、お化けや借金取は親類附き合ひをして居るから驚かねえが、お靜が膽をつぶして障子を開けたまゝだから、縁側の埃は皆んな部屋の中へ逆戻りだ」
平次は長火鉢を抱へ込むやうに、無精煙草の煙を吹いて居ります。
「脅かすわけぢやありませんが、女はどうして斯うもお化けが嫌ひなんでせう、お、
八五郎はその障子の隙間から、禰造を拵へたまんま、長火鉢の側ににじり上がりました。
「朝つぱらから、そんな話を持込むからだよ。第一縁側から入つて來るのは、猫の子とお前ばかりぢやないか。たまには表へ廻つて、案内を頼む心掛けになつて見ろ」
「へツ、此方の方がいくらか近いやうで」
「呆れた野郎だ」
「ね、親分、あつしの叔母さんだつて、矢張り女の子でせう」
「當り前だ」
「その叔母が、谷中へ泊り込みでお仕事に行つて、この話を聽き込んで、膽をつぶして歸つて來たんですが、惜しいことをしましたよ。お化けと取つ組む氣で、もう少し聽き込んで來ると、こいつは良いネタになり相ですが」
「俺にお化け退治をさせようといふのか。そんな話なら御免蒙るぜ八」
「でも人助けになるぢやありませんか。大きく言へば、それ笹野の旦那がよく言ふ天下
「大きく出やがつたな」
「だから、ちよいと、冗談に覗いて見ませんか。何しろ相手は谷中三崎町で、大地主の娘、谷中小町と言はれた――」
「嫌だよ。大地主と小町娘ぢや、筋書が揃ひ過ぎるぢやないか。その上化物退治と來ると、そつくり岩見重太郎の世界だ」
「それは何處の岡つ引きで?」
「いよ/\以つてお前は長生きをするぜ」
「へツ、どなたも、さう仰しやいます。ところで煙草を一服」
「あれ、
話は斯んな調子で始まりました。八五郎の持つて來た、谷中のお化けの話、平次は一向氣の乘らないやうな顏をし乍ら、それでも合の手澤山に、熱心に聽いて居ります。
「叔母が頼まれて行つたのは、谷中三崎町の細田屋善兵衞の家で、二月になると、一人娘のお
「――」
平次は默つてしまひました。八五郎の話はどうやらレールに乘つた樣子です。
「暫らくは泊り込みの約束で、向柳原は鼠に引き殘されたやうに、あつしがたつた一人、淋しいのは構はねえが、三度のものゝ用意に困りましたよ。
「おい/\それもお化けの話のうちか」
「へツ、少しばかり寄り道をしたんで。斯う
「ま、八さん、その間だけでも、此處へ來て泊つて下されば宜いのよ」
お靜はあわてゝ、お勝手から顏を出しました。
「放つて置け。叔母さんが留守番に置いてあるんだ。飯を三日分づつ炊く方が惡いぢやないか」
「まア、そん事で、尤も、日に三度
「それからお化けはどうしたんだ」
「あ、忘れちやいけねえ――細田屋の奧座敷、叔母は花嫁道具の番のやうに、次の間の六疊に寢た。一と間置いて娘のお蘭の良い匂ひのする桃色の部屋、同じ六疊、
「――」
「どうも、隣の嫁入道具の部屋のやうな氣がして、叔母は益々眼が冴えてしまつた。小用にでもと思つたが、戸惑ひして道を間違へてしまつたらしい。それでも家の人に眼を覺まさせちや惡いと思つたから、拔き足差し足、灯の見えるところを目當てに行くと、廊下に向いた障子が細目にあいて、中は豫て見覺えの娘の部屋、行燈に小袖を掛けて、
八五郎は聲を殺して、少し仕方話になりました。
「三つ眼小僧か、――それとも」
「眼のさめるやうな、綺麗な若衆ですよ、親分」
「それなら驚くことは無いぢやないか」
「それが、その、娘と寄り添つて、頬と頬と斜めに、古風な色模樣ぢやありませんか、――お前今度は何時來るえ?――斯う人眼につくやうでは繁々も來られない、次はお月樣が出なくなつてから、――いや、いや、いや、私はもう、――」
「何んだえ、それは?」
「娘と若衆の
「見て來たやうぢやないか」
「叔母さんの受け賣ですよ。娘のお蘭さんは、若衆の來るのを待つて居た樣子で、それは/\綺麗だつたといふことですが、若衆の美しさは又格別で、良い年をした叔母までが、うつとりして暫らく眺めて居たといふから大したものでせう」
「――」
「二人共小さい聲ではあつたけれど、男の方の聲は、
「その男が
「それに違ひありませんよ。前髮立て紫色の振袖を着て、色が拔けるほど白くて、唇は真赤だつたといふから、芝居の色小姓でも無きや、そんな者が居るわけはありません」
「でも、それ丈けぢや人間で無いとは言へないぜ」
「ところが大變なんで、叔母がツイ大きな音を立てると、
「フーム」
「叔母は膽をつぶして、思はず悲鳴をあげようとすると、その後ろからそつと口を押へて、――『靜かに、後生だから』――と囁くのは、當の相手のお孃さん、お蘭さんだから驚くぢやありませんか『あれは何です、お孃さん』と齒の根も合はぬ叔母を、――『あれは人間ではない。お願ひだから、誰にも言はないで』――と、お孃さんは可愛らしい顎の下で、そつと手を合せたんですつて」
「で、それからどうした」
平次もどうやら、事件の重大さに氣が付いた樣子です。
「本人が承知で、
「まア、怖い」
お靜はその話を聽いて居たものか、たまり兼ねてお勝手から顏を出します。
「それから?」
平次はその先を
「もう、そんなところに我慢して居る氣にもなれず、叔母はその日のうちに、何んとか、うまい言ひわけを拵へて、向柳原の家へ戻つてしまひました。お蔭で私は、今朝から又暖かい飯にありついたわけ、斯うなるとけえだん話も滿更ぢやありませんね」
「誰もお前の朝飯のことなんか訊いてやしないよ――それで叔母さんの話は皆んなか」
「まだ/\話は一と晩つゞきましたよ。お孃さんのお蘭さんの綺麗だつたこと、お化け若衆の
「フーム」
「これは一體何でせう。お孃さん當人もお化けを承知の上で逢引して居るやうだし、下女も感付いて居るに違ひないから、
八五郎は長い顎をまさぐるのでした。その頃の人のやうに、八五郎自身もまた迷信からは脱けきれません。
それから十日ほど經つて、二十日正月も近いある日の朝、
「さア、大變だ、起きろよ、八」
錢形平次の方から、向柳原の、叔母の家の二階へ聲をかけました。
「親分、お早やう。何が大變なんです」
八五郎は二階の障子を開けて、格子越しにまだ寢起きの惡さうな顏を出します。
「その恰好をあの子に見せたいな。早く顏でも洗つて出て來い。何しろ大變だ。谷中から飛んで來たんだ」
「何んです、それは?」
「細田屋の娘が殺されたとよ」
「えツ」
「それね、お前だつて驚くだらう。根岸の喜三郎が、わざ/\子分をよこしたんだ。こいつは六つかし相だから、直ぐ來てくれ、とね、ところが細田屋の娘のことは、お前にも掛り合ひがあるから、誘ひに來たのさ」
「そいつは有難い」
「叔母さんにも訊きたいことがあるんだ。その間に仕度でもしろ」
「待つて下さいよ親分」
八五郎が仕度をする間、平次は叔母さんをつかまへて、何彼と質問します。
「さうですね、たつた三日のことですから、私は何んにも知りませんが、でも、あのお孃さんは綺麗でしたよ。魔がさしたんでせう。節分が濟めば、すぐ祝言をさせ度いといふ話でしたが」
八五郎の叔母は、平次の問ひに、氣易く答へますが、年のせゐで、話はいくらか廻りくどくなります。
「お孃さんは本當に綺麗でしたよ。
叔母さんの長廣舌が續くうちに、八五郎の仕度は出來上りました。
「さア、親分、それぢや一と走り」
もう先に立つて驅け出す八五郎です。
谷中三崎町の細田屋は、老木と坂と、幾つかの
表の格子戸は一パイに開けて、近郷の人や親類やら、何をするともなくザワ/\として居り、冬の
「お、錢形の親分、丁度宜いところだ。御檢死は濟んだばかり、入棺の前に、錢形の親分に見せて置き度い」
根津の喜三郎といふ顏の良い御用聞ですが、近頃ではもう、錢形に
「それぢや、頼むぜ」
平次と八五郎は、根津の喜三郎に案内されて奧の部屋に通りました。店から居間、佛間、主人夫婦の部屋、それから納戸を
主人夫婦は、近い親類らしい二三人と、娘の部屋に居りましたが、錢形平次の顏を見ると、一禮して皆んな引下がり、殘るのは、喜三郎と平次と八五郎だけ。
「こいつは可哀想ぢやありませんか」
死顏に掛けた
少しむくんで見えるのは、紐で絞め殺されたせゐでせう。その紐はお蘭の下締めで、解けたまま投げ出してありますが、床へ半分かゝつて真つ赤に燃えるのも、不氣味といふよりは、艶めかしくさへ見えるのでした。
着物は派手な
傷と言つては、玉の首筋に、
部屋の調度は豪勢で、細田屋の愛娘にそゝがれた、兩親の愛情の深さを示しますが、一方町人の増長でなければ、娘お蘭の並々でない我儘と贅澤の現はれと見えないこともありません。
「錢形の親分さんだ相で、飛んだことでお世話になります。どうぞ娘の仇を――」
細田屋善兵衞はさう言つて絶句しました。六十前後の一と掴みほどの老人で、利には
その老人の背後から、そつと顏を出し思のは、お蘭の母親のお伊能で、これはまだ五十になつたばかりですが、年のせゐかひどく脂が乘つて、白豚のやうにムクムクして居りますが、いかにも子に甘さうで、娘のお蘭を制御することなどは思ひも寄らなかつたでせう。
「何んか思ひ當ることがあるのかな御主人」
平次は兎も角も、この父親から精一杯のことを引出さうとして居る樣子です。
「別に取立てゝ申すほどのことも御座いません。娘は二月早々婿を取ることになつて居りますが、近頃は妙にソワソワして、腑に落ちないことばかりございました」
「腑に落ちないといふと?」
「山下の越後屋さんの伜を、婿養子にすることに極つて居り、娘もそれを承知して居りますのに、この暮あたりから、娘の樣子が變で」
「?」
「ね、お前さん、はつきり申し上げた方が宜くはありませんか。世間樣の
白豚のお内儀は、主人の善兵衞よりは確りものらしく、そつと側から入智惠をするのです。
「さう言へば、さうかも知れないが、何んと言つても、何代も傳はつた、細田屋の
主人の善兵衞はまだ愚圖々々して居るのです。
「わけがあつたら、話す方が宜い。折角の手掛りを教へないために、人殺しの下手人を逃しちや、お孃さんも浮ばれまいぜ」
平次は
「實は親分、――娘のところには、變な男が時々通つて參りました」
「嫁入前の娘にか」
「私もそれを心配しましたが、娘へ時々通つて來るのは、他ならぬ婿と決つて居る、越後屋の三之助と判つて、叱ることもたしなめることも出來ません。この上は一日も早く祝言をさせて、世間樣の噂にならぬやうにと、そればかり心配をして居りましたが、せめて十九の厄が過ぎてからとか、嫁入の仕度がまだ出來上がらないとか、そんなつまらない事を申して、こんな事になつてしまひました」
主人善兵衞の非難は、女房のお
「そんな事はありませんよ、お前さん。越後屋の三之助さんなら、今日直ぐでも祝言させ度いと思ひましたが、近頃娘のところへ忍んで來るのは、ありや狐か狸か、兎も角も魔物に違ひありません。若い娘が蛇に見込まれたとか、よくある話ぢやありませんか。うつかり祝言をさせて、それが
内儀は思ひの外に達辯でした。主人善兵衞の煮え切らないのが
「そいつはワケがあり相だ。詳しく聽かうぢやないか」
平次は八五郎の叔母から聽いた話を思ひ合せて、膝を
「娘の恥でもあり、私共にしても氣味の惡いことで、今まで人には申したこともありません。が、此前から娘へ通つて來る者は、飛行自在と申しませうか、私などが正體を見屆ける積りで、そつと覗くと、縁側から宙を飛んで、忍び返しの上を、往來へ逃げてしまひます。その上翌る朝見ると、獸物の毛で一パイ」
「――」
「念のために、縁側から庭へ灰を撒いて見ましたが、これも翌る朝見ると、氣味の惡い足跡だらけになつて居ります。世間樣へ知らせることは申す迄もなく、奉公人にも聽かせ度くないことで、私と女房だけで胸を痛めて居りました。娘へ意見がましい事を申しても見ましたが、身體が
「奉公人達で、娘とわけても親しい者は無かつたのか」
「下女のお信だけは親しく口をきゝました。何んとも持て餘した娘ですが、なまじつか綺麗に生れついて、世間ではチヤホヤ申しますし、私共も一人娘で天にも地にも掛け替へがございません。我儘がひどくなればなるほど、
主人善兵衞は聲をあげて泣くのです。
「それで、昨夜のことは」
「何んにも存じません。今朝になつて家内が娘が殺されたことに氣が付いた有樣で」
これが善兵衞から引出せた全部でした。尚ほ念のために、
「山下の越後屋の息子を養子にすることは、何方から望んだことで、お
内儀に訊くと、
「越後屋さんの方から話がございました。仲人は越後屋さんの遠縁の方で」
「そんな事でよからう。少し奉公人達に逢つて見るとしようか」
主人夫婦に別れて、平次はお勝手の方へ入つて行くと、早速下女のお信をつかまへました。三十六七の達者さうな女で、不きりやうではあるにしても、仕事の方は自信がありさうです。
「勤め心地はどうだ」
「皆さんよくして下さいます。申分はございません」
「お前の
「木更津に叔父が居ります。請人は下谷の遠い親類で」
「亭主は無いのか」
「やくざでわかれてしまひました」
細田屋の手當は年に三兩だが、貰ひが多いから申分の無い奉公であること、それから、
「お孃樣は良い方でした。我儘と申しても御大家の一人娘ですもの、あれ位のことは」
と辯解するのです。
「お孃樣へ通つて來る者のあつたことを、お前は知つて居た相ぢやないか」
「そんな事を知りやしません。私の部屋はお勝手の側なんですもの」
「本當か」
「何んか氣味の惡い事はありましたけれど」
お信は言葉を濁しますが、それ以上追及したところで、堅く口を
「毎晩の戸締りは誰がするんだ」
「番頭の敬太郎さんで無きや、私がいたします」
「外から誰でも開けられるのか」
「それぢや戸締りになりません、――尤も番頭の敬太郎さんと小僧の春吉どんは、夜中にどんな用事があるかわからないので、隱し鍵を知つて居ります。隱し鍵と言つたところで、納戸の格子の五寸釘で、外からは一寸見えませんが、格子から手を差込んで、釘を一本拔くと、外からでもそつくり格子が外れます」
「それは宜いことを聽いた。ところでもう一つ、越後屋の伜は、どんな引掛りで、この家へ婿に來ることになつたのだ。谷中と山下では、朝夕顏を合せるところで無いし」
「それにはわけがあります。旦那はあんなに見えて、大層芝居が好きで、谷中から上野下谷あたりまで手を伸して、
そんな事もあつたのであらう。江戸の町人達の芝居好きは、分別や思慮を越えての一つの道樂だつたのです。
下女のお信の話はそれ位にして、平次と八五郎は其處から表の方へ廻りました。
「俺は山下の越後屋を覗いて見る。お前は此處をもう少し見張つてくれ。家の者の出入を氣をつけるんだ」
「へエ」
「おや、俺達が此處へ來たあとで裏口で下女のお信と話をして居るのは、ありや誰だえ」
「大變親しさうぢやありませんか、春吉に訊いて來ませう」
八五郎は飛出しましたが、間もなく戻つて來て、
「あれがお蘭の養子になる筈だつた、山下の越後屋の息子ださうですよ、――
「成程そんな事もあるだらうな」
平次は表から廻つて、家を一と廻り、歸つて行く越後屋の伜の前へ、ピタリと立ち停りました。
「越後屋の三之助さんだね」
「えツ?」
「心配することは無い。俺は明神下の平次さ」
「あ、錢形の親分」
それは、いかにも良い男の若旦那でした。柄の小さい、二十三四、顏色は淺黒い方ですが、キリキリとして、實行力がありさうです。
「訊き度いことが澤山ある、――今お前さんの家へ行かうとして居たが――」
「私も申上げ度いことが澤山あります」
御用聞と若旦那と、肩を並べて、
「お前さんは、細田屋のお蘭さんを見染めたといふが――ヅケヅケ物を言つて濟まないが、そのお蘭さんが殺されてゐるんだから、手つ取早く、何事も隱さずに話してくれ」
「よくわかつて居ります。――お蘭さんとは二三年前からの知合ですが、去年の春、池の端の素人芝居から急に
「――」
「好きな同士が、一年もお預けを喰ふのはどんなものでせう。親分方は御存じないかも知れませんが、私とお蘭さんに取つては、本當に一日が千秋です。焦きつくやうな心持で待つて居ると、フトしたことから、お互に手紙をやり取りすることを覺えてしまひました。手紙の使ひは、細田屋さんの方は小僧の春吉、私の方からは私の家の小僧の久松、――さて手紙などをやり取りして見ると、反つて心持を
「――」
「ところが、變なことになりました」
「變なこと?」
「お蘭さんは、去年の暮から、急に私に逢ふのは、困ると言ひ出したのです。私を嫌ひなわけはありません。それはもう、お蘭さんの心持はよくわかつて居ります。私の口からこんな事は申し上げ憎いのですが、お蘭さんは私を好きで/\たまらない樣子でした」
「――」
平次も少し當てられましたが話の腰を折つても惡いと思つたか、苦い顏もせずに默つて後を
「お蘭さんは、本當に腹の底からの芝居好きで、私の舞臺顏がどうしても見たいと言ひ出し、隨分困らせられました。いかに私が大膽でも、若い娘と逢引をして居るのに、紅白紛で舞臺顏も造れず、よしやまた、化粧をするのは構はないとしても、その顏で谷中から、山下までは歸れません」
「――」
「お蘭さんの、斯う言つた、人困らせの我儘が、お蘭さんの可愛いゝところで、私も大抵の無理は聽きましたが、この舞臺顏を
「――」
「最初はお蘭さんが心變りをしたのではないかと、
越後屋の三之助の嘆きは眞劍で、嘘も作爲もありさうには思へません。
平次の足はもう一度店の方に向きました。其處には若い番頭の
「お前は敬太郎と言つたね」
「へエ」
「此家へ奉公して何年になる」
「もう八年になります、――親は目黒で、百姓をして居りますが、私も二十五ですから、お暇を頂かうと思ひ乍ら、ツイ申しそびれて居ります。尤も申分のない御主人で、その上お手當も澤山頂いて居りますし、後の御店の不自由を考へると、強つてとも申し兼ね、ツイ根が生えてしまひました」
ヒヨイと顏をあげると、少ししやくれた色白で、餘り良い男ではありませんが、眼鼻立ちは大きく、何んとなく物柔かで辯舌も
「お孃さんのことで、何んか氣のついたことは無いのか」
「別に、――尤も若くてお綺麗でしたから、少しは我儘もあつたわけで、旦那樣御夫婦もそれがまた可愛くてたまらない樣子でございました」
「養子になる筈の越後屋の息子をどう思ふ?」
「良い方で、私もあんな御主人に來て頂けば、張合があると思つて居ります」
「芝居が大層上手ださうぢやないか」
「あの邊で
「お前達は、毎晩どうして居る」
「小僧の春吉どんと二人、
「それは窮屈なことだな」
これでは夜半に脱け出して、娘を殺すわけには行きません。
それから小僧の春吉を呼んで參りましたが、これは十四の
家族といふのはこれで全部、平次と八五郎は、根津の喜三郎に案内させて、左して廣くない庭を一と廻りしました。老木の多いところで、
「あの木へ飛付いて逃出す工夫はありませんか」
八五郎は巨大な榎が、塀の上へ見越入道のやうに生ひ冠さつて居るのを指さすのです。
「やつて見るが宜い。縁側から忍び返しを越えて、あの大枝に飛付くとすれば、五六間はあるだらうな。ちよいと天狗樣でもなきや」
平次は縁側から庭を越えて、塀の外の榎の大枝までを、眼で
「あの大枝に繩でも引つかけて、飛付く手は無いものでせうか」
「大枝に綱をかけて縁側から飛付くと、枝に手繰りつく前に、塀に身體を叩きつけられるよ」
「矢張りいけませんかね」
「塀の外は小さいお稻荷樣の堂だ。屋根に登つて踏臺には――勿體なくも、これは少し遠いよ――手輕に片付けちやいけない」
平次はグルリと家の周圍を一と廻り、裏門から敬之助と春吉の寢るといふ離屋を覗いて見ました。
平次は越後屋の伜三之助を呼込んで、細田屋の主人に引合せ、お蘭の死骸に一と眼逢はせることにしました。
それがどんなに激情的で、平次も八五郎も貰ひ泣きさせられたかは、此處で申すまでも無いことです。この痛々しい
お蘭の死骸は此人達に護られて棺に納められ、一と先づ通夜の仕度をしましたが、さて此處まで來ても、お蘭殺しの下手人はわかり相もありません。
「八、お前氣の毒だが、向柳原の叔母さんを連れて來てくれないか。油斷をすると、飛んだことになり相だから」
「へエ、ぢやすぐつれて來ますよ」
八五郎が向柳原に飛出した後、平次は主人の善兵衞と一緒に、家中を
それら八五郎が歸るまでザツと一刻、
「親分、困つたことに、叔母は何處かへ行つてしまひましたよ。お隣で聽くと、今晩は淺草の
「何を言ふのだ罰當り奴、――では俺達も歸るとしようか」
「――」
「下手人は、まだ判らないよ。明日の晩、越後屋の三之助さんも、もう一度此處へ來て下さい」
「私は、――細田屋さんのお父さんさへ許して下されば、今夜は此まゝ泊めて頂いて、明日の晩まで此處に居たいと思ひますが」
「それも宜いだらう」
平次と八五郎は其儘歸ることにしました。最後のきめ手は、八五郎の叔母さんに逢はなければ、平次にも自信が無ささうです。
だが併し、事件はその晩のうちに、又急轉回しました。
「親分、大變なことになりました。下女のお信が、庭で殺されて居るのを、今朝見つけましたよ」
細田屋の使ひが、どんなに平次を驚かしたことでせう。
それ行け、と谷中へ驅けつけた時は、何も彼もおしまひ。
「油斷をしたよ、八。下手人を縛らないまでも、用心をして置くのだつた」
下女のお信は、自分の
それから一日、細田屋の者は全部家の中に封じ込められ、もう一度家族の持物を念入りに調べました。土藏の中から細田屋の道樂の芝居の小道具や衣裳が少し出て來たのと、下女のお信が、思ひの外の大金を持つて居ることを發見した外には、何んの變りもありません。
八五郎の叔母が漸く谷中へ送られて來たのは、その晩も少し遲くなつてからでした。
「八、皆んな奧の部屋へ集めてくれ。叔母さんはこれから首實驗だ」
家中の者を奧の六疊と八疊に集めると、平次は叔母さんをつれて、其處へ入つて行きました。
「叔母さん。此中に、叔母さんの見た、あの晩の化物が居る筈だ。氣を落つけて見て下さい、――あの晩、お孃さんの部屋に居た若衆ですよ」
「ハイ、ハイ、あの若衆なら見覺えがありますよ」
叔母さんは、縁側に立つて、二た部屋に居並んだ、七八人の顏を見ました。燈臺四つと行燈が二つ、老眼にも見のがす筈はありませんが、暫らくすると叔母さんは頭を振つて、
「ありませんよ、親分。此處に居る方の中には、此間のお化け若衆らしい人は居りませんよ」
と、
「では叔母さん、これを見て下さい」
燈臺を四つと行燈を一つ消して、たつた一つ殘る行燈に、自分の羽織を着せた平次は、いきなり手をあげて、何やらパツと放りました。それは人間の姿ほどの大きいもので、庭の上を飛んで、忍び返しを越すと、遙かの往來へ音もなく消え去ります。
「あ、あれですよ、親分。あの晩縁側から庭の向うへ飛んだのは」
叔母さんは急に立上りました。主人善兵衞夫婦もなにやらうなづいて居ります。
その間に八五郎が飛んで行つて、塀の外から拾つて來たのを見ると、それは
「曲者は塀を飛越えたと見せて、實は縁の下に隱れ、あとでノコ/\出て來たのだらう。此上は、芝居氣のある者に、皆んな顏を拵へて貰ふのだ。越後屋の三之助さんも、番頭の敬太郎も、小僧の春吉も、――八、離屋の敬太郎の荷物の中に白粉も紅もあつた筈だ」
平次は叔母さんの眼を信用しなかつたらしく、お化け若衆と同じ紅白粉で顏を拵らへさせ、もう一度當夜の記憶を呼び戻さうとしたのです。
「もう澤山、それには及ばない。同じことなら、
立ち上つて斯う言ひ切つたのは、少ししやくれた色男、――寧ろ醜くさへあつた番頭の敬太郎だつたのです。
× × ×
事件はその晩のうちに形付きました。番頭の敬太郎は、その場で根津の喜三郎に縛られたことは言ふ迄もありません。
その歸り、谷中から神田まで、
「敬太郎は、お蘭の芝居好きを知り拔いてゐるし、あの顏は、拵へると、思ひの外美男になるので、お蘭のところに忍び込んだのさ。お蘭は我儘で勝手な娘だ。家柄も男前も良い三之肋に惚れ拔いて居るくせに、ちよいとつまみ喰ひして罰が當つたのだ。敬太郎は三之助とお蘭の逢引するのを見て口惜しくなり、お蘭をおどかして逢引した上、芝居化粧をして浮氣なお蘭の機嫌を取結んだのさ」
平次は例の通り八五郎のために
「そのお蘭を殺したのは」
「越後屋の三之助の婿入りの日が近くなつて、お蘭がワクワクし乍らそれを待つて居るのを見て、敬太郎は口惜しかつたのだ。それにお蘭が死ねば、自分が細田屋の養子になれるかも知れない。幸ひ小僧の春吉は大寢坊で、床に入れば何んにも知らない」
「下女のお信を殺したのは」
「餘計なことを知つて居たからだ。あの前の日もお信は三之助と何やら話して居たが、敬太郎は、自分とお蘭のことを言はれると身の
平次はつく/″\さう言ふのでした。
「それにしても、あの娘は綺麗過ぎた代り浮氣過ぎましたね」
「八の女房には、あんなのはいけないよ」
その頃、明神下の平次の家では、女房のお靜が、お燗を氣にしい/\待つて居るのです。