「妙なことを頼まれましたよ、親分」
ガラツ八の八五郎、明神下の平次の家へ、手で格子戸を開けて――これは滅多にないことで、
十月の
「顎の紐を少し締めろよ、馬鹿々々しい」
口小言をいひ乍らも、平次は座布團を引寄せて、八五郎のために座を作つてやるのでした。
「でも、若い娘に忍んで來てくれと頼まれたのは、あつしも生れて始めてゞ」
八五郎は斯う言つて、
「願つたり叶つたりぢやないか、相手は誰だ」
「親分も知つてゐなさるでせう。相手は本郷二丁目の平松屋源左衞門の義理の娘ですが、先づその親父のことから話さなきやわかりません」
「知つてゐるとも。昔は武家だつた相だな、
「その平松屋源左衞門といふのは、本郷一番の金貸で、五年前に亡くなつた、松前屋三郎兵衞の跡だといふことも、御存じでせうね」
「そんな事も聽いたやうだな」
「松前屋三郎兵衞は、松前樣のお金を
「フーム」
「一萬兩の金の見付からない
「薄情な野郎だな」
「一萬兩の金が目當ての入婿だから、金が無いとわかると、年上の女は邪魔にもなるでせうよ。ところが、女房のお駒はきかん氣の女で――少しは氣も變になつたでせうが、――私は此家の心棒だから、
「成る程、そんな事もあるだらうな」
「三度の食事も娘が運んで、下女のお鐵でさへも、滅多に離屋へは寄せつけないといふから大變でせう」
「で、その娘がお前を口説かうといふのか」
「さうなんで、へツ、へツ」
「餘つ程の不きりやうか」
「と、飛んでも無い。江戸一番と言つちや嘘になるが、本郷通りで三番とは下りませんよ。昔話の同じ町に生れた八百屋お七だつて、あれ程では無いだらうと、町内の年寄は言ひますが」
「そんな娘がねえ」
「あつしには勿體ないといふんでせう、親分」
「ヒガむなよ。そんなわけぢやねえ、わけがあり相だと思つただけの話さ」
「娘のお君は十八、少し淋しいけれど、可愛い娘ですよ、でも、氣が變になつた母親の
八五郎はまた
「良い氣のものだよ」
「母親のお駒が、殺されさうな氣がして叶はないと、湯島の吉に頼んで來たから、此間から折を見て二三度行つて見るうちに、娘のお君の方が何んか物を言ひ度さうにして居るから、
「で?」
「行つてやつたものでせうか。ね、親分」
「あ、氣味が惡い。人の膝なんかゆすぶりやがつて、金の相談なら引受けるが、
「あの
「話はそれつ切りか」
「おまけがありますよ。――番頭の爲之助といふのは、平松屋源左衞門が、武家だつた頃の
「フーム、面白いな。番頭の言ひ草は『娘を口説け』と言はぬばかりだ。岡つ引なんてものは、あまり人樣に好かれる稼業ぢやないが」
平次は何やら考へて居ります。
月の無い、生暖かい晩でした。十月になつたばかり、街々から
申すまでもなく、八五郎の忍び姿、戀にしては、ひどく野暮な拵へです。
それから小半刻、上野の鐘が、霧に濡れて、びつくりするほど近く聽えました。その捨て鐘が撞き終つた頃。
「もしへ、八五郎親分さん」
耳もとに囁やく柔かい聲、聞き覺えのお君の、少し甘えた訴へです。
「お孃さんか」
「お待ちになつたでせう」
「いや、今來たばかりさ」
八五郎はツイ、戀するものゝやうに、輕い
「で話といふのは」
少し寄り添ふやうにすると、娘の體温が、ほんのりと夜の大氣を
「私は怖いんです、八五郎親分」
「怖い、どうしたわけだ」
「お母さんは、殺されるに違ひないと、自分で座敷牢のやうなものを
お君は夜の霧の中に、自分を狙ふ魔性のものでも潜んでゐるやうに、ぞつと身を顫はせて、
「お孃さんに、どんなことがあつたんで」
八五郎はそれを
「何んとも言へない、無氣味なことばかりなんです。私は離屋の入口の、お母さんの隣の部屋に寢んで居ますが、夜中に變な物音がしたり、雨戸の外で人の聲がしたり、私を此處から追ひ出さうとして居る樣子なんです。番頭の爲之助どんに相談すると、離屋に泊つて居ちや危ないから、
「それから」
「昨夜なんか、窓から不氣味なものが見えたり」
娘心を
「お母さんには、それを話さないのかえ」
「言つたところで、心配させるばかりですもの。さうでなくてさへ、お母さんも、何時殺されるかも知れないと、そればかり氣にしてゐるんですもの」
「ところで、お孃さんには、縁談が澤山あるといふことだが、一つも氣に入つたのはありませんか」
八五郎は話題を變へました。
「でも、皆んな變な話ばかり」
お君ば極り惡さよりは、腹立たしさで一杯の樣子です。
「例へば、どんな」
「近頃は金三郎さんが、變なことばかり言ひます、けれども」
それは平松屋源左衞門の弟で、
そんなのが、仇同士のやうなお君に言ひ寄るといふことは、何んか容易ならぬ含みのあるべき筈です。
お君の話のテムポの遲さと、八五郎の
「あ、あれは?」
八五郎の耳には、何やら變な聲が聽えたのです。
「時々、離屋の窓の外であんな聲がするんです」
「容易ならぬ聲だが」
「さうね、いつもの脅かしと違つてるかも知れません」
二度目の押し潰されたやうな聲に、お君も少し不安になつたらしく、土藏の庇の下を潜つて、大廻りに、裏口の前を通り、母親の住んでゐる離屋の入口へ出ました。
「お母さん、お母さん」
自分の部屋に入つたお君は、廊下を距てた母親の部屋に聲を掛けました。二枚の嚴重な板戸は、内から
「お母さん、どうかしました? お母さん」
内からは返事が無く、板戸を叩くと、何やら、うめく聲が聽へるばかり。
「お母さん、開けて」
お君は息を彈ませました。次第に募る不安に、たうとう板戸にしがみつくやうに、叩いたり、ゆす振つたりするのです。
「鍵は?」
「お母さんが持つて居るんです」
「外に何處か」
八五郎も板戸に手を掛けましたが、これは思ひの外嚴重で、
「お母さん」
お君は八五郎の問には答へず、廊下にヘタヘタと崩折れてしまひました。内から應じたうめき聲も、遂には絶えてしまつた樣子。
外へ飛出した八五郎は、忙しく離屋を一と廻りしました。六疊に八疊、お勝手も便所も付いた纒まつた建物ですが、窓には牢格子のやうな嚴重な格子を打つて、内には雨戸を閉めて居るので、覗いて見る工夫もありません。
元の廊下に戻ると、お君は精も根も盡き果てゝ、板戸を掻きむしり乍ら、ヒイ、ヒイと悲鳴をあげて居りました。廊下の有明に照らされて、それは哀れにも痛々しい姿ですが、今はそんなものに取合つて居る隙もなく、八五郎は精一杯の智惠を絞りました。
此上は道具を持つて來て壁に穴をあけるか、二枚の板戸をモロに倒すか、土臺下を掘るか、屋根を剥ぐより外に工夫もありません。
「お孃さん、
お君を退かせて置いて、二三歩退つた八五郎は、
「畜生ツ、これでもかツ」
續け樣に二つ三つやつたところへ、
「一體どうしたことだ、冗談ぢやない」
店から番頭の爲之助が、二階から主人の弟の金三郎が、そしてお勝手から下女のお鐵が一ペンに飛んで來ました。八五郎の體當りと掛け聲が、町内一ぱいに響き渡るほどの凄まじさだつたのです。
「變な聲がするんだ、此處をブチ破る外に
「あ、八五郎親分」
番頭の爲之助は、薄暗いうちでも、八五郎とわかつたらしく、一緒になつて板戸を押しましたが、これがまた恐ろしく
「こんなことぢや駄目だよ、待つてくれ、道具を持つて來る」
飛出した金三郎は、物置へ行つたらしく、間もなく手頃な
「あツ」
内儀のお駒は、その中に俯伏せに崩折れてゐるではありませんか。
「こんなわけだ、親分、兎も角も行つて見て下さい」
八五郎が平次の家へ飛んで來たのは、まだ夜半前、馬のやうに達者なくせに、息せき切つて、これ丈け説明するのもかなり手間取ります。
「それ丈けの話ぢや間違ひもなく自害ぢやないか。お前一人で御檢死まで埒を明けるが宜い。この眞夜中に俺を引ぱり出すのは殺生だぜ」
叩き起された平次は、甚だ以て不服さうです。
「でも、腑に落ちないことは澤山あるんですぜ、親分。あつしも隨分自害をした女も見たが、あんなのは、どう考へたつて自害ぢやありませんよ」
「フーム」
「第一、自害にしちやもがき過ぎたし、刄物がまるつ切り違ひます」
八五郎は
「だが、そんなに閉りの嚴重な部屋へ、人殺し野郎は入れるわけは無いだらう」
「だから變なんですよ、あの部屋は鼠一匹
「はてね?」
平次も首を
「それに、中年の女が自害でもしようといふ時、あんな恰好はして居ませんよ。人に見られちや極りが惡いから、晴着位は引つかけて、化粧か何んかして、それから取かゝるのが、死出の旅路とやらでせう」
「大層高慢なことを知つてるんだな」
「
「短刀は何處にあつたんだ」
「死骸とは二間も離れて、これも閉めたまゝの窓の下、間に床が敷いてあるし、自害をしたものなら、あんなところへ刄物を投げるわけはありません。第一傷が物凄くて、あんなヒヨロヒヨロの短刀なんかぢやありませんよ」
「何處を切つたんだ」
「
「フーム、大分變つて居るな、行つて見よう」
「そいつは有難い」
平次は早速仕度に取かゝり、本郷二丁目に向ひました。明神下からは遠くないところですが、それでも、行く/\八五郎の知つてる丈けの話は引出せます。
「その時家中の者は皆んな揃つて居たのか」
「主人の平松屋源左衞門丈けは留守でした。内儀が死ぬ少し前に出かけた相で」
「何處へ行つたんだ」
「最初は皆んな顏を見合せて言ひませんでしたよ、
「主人が出かけた時刻を、確かに知つてる者があつたのか」
「お君さんが知つて居ましたよ。
八五郎は肩を縮めた樣子です、又も逢引らしい心持を思ひ出したのでせう。
「その源左衞門が、妻戀坂の女のところへ行き着いたのは?」
「そいつはまだ訊きませんでしたよ」
「大事のことだ、廻り路になるが、妻戀坂へ行つて見よう、女の家を知つて居るのか」
「踊の師匠のお
「それならわけは無い」
平次と八五郎は、妻戀坂のとある格子戸を叩きました。
「ハイ、ハイ、どなた」
夜半近いのに、まだ起きて居たらしく、お雛は自分で格子の内に、
「明神下の平次だが」
「あ。錢形の親分さん」
「いや、此處で宜い、格子を開けるまでも無いが――今晩平松屋の旦那が
「平松屋さんに、飛んだ騷ぎがあつたんですつてね、使の人から聽きましたよ、一體あのお萬さんが惡いんだわ、御内儀のお駒さんを、座敷牢なんかに追ひ込んで」
この女は源左衞門の妾のお萬を、自分の敵のやうに思つて居るのでせう。
「そんな事はどうでも宜い、俺は旦那の歸つた時刻が聽き度いんだよ」
「
「此家へ來たのは?」
平次に取つては、この後の問の方が大事だつたのです。
「
「鐘を聽いてから、四半刻(三十分)も經つたやうに思ふか」
「前からのお約束で、
本郷二丁目から此處まで、四半刻とかゝる筈はありません。
平次は此處を宜い加減に切り上げて、二丁目までの途々、二ヶ所の辻番と、一丁目の町木戸に訊いて見ましたが、源左衞門は、表通りを避けて、ゆつくり歩いた樣子で、どちらも氣が付かなかつたといふのです。
言ふまでも無いことですが、舊幕時代の江戸の治安は、なか/\よく氣を配られたもので、今日から考へたほどだらしの無いものではなく、辻番所の數にしても、今の交番などよりは遙かに多く、駕籠の外には交通機關といふものが無かつた丈けに、
平松屋には、湯島の吉が待つて居ました。土地の下つ引で、八五郎と馬の合ひさうな、忠實な男です。
内儀のお駒の死を、自害でないと言ひ出した、八五郎の考へ方は、たつた一と目、現場を見ただけで、平次にもわかりました。これは全く、自害であるべき筈はありません。が、内儀の死んでゐる離屋の一室は、完全に外からの通路を
「へエ、へエ、錢形の親分さんで、飛んだお手數を相かけます。御覽の通り、外からは鼠一匹入れないところですから」
案内に立つた番頭の爲之助は、五十近い仁體、着實さうで腰が低くて、少しばかり
「お前さんはその時何處に居なすつた」
「
「此處に泊るのか」
「月のうち、五六度は泊りますが、直ぐ近所に私の家が御座います。家内や伜は其處に住んで居ります、へエ」
「主人は居なかつた相だが、毎晩家を明けるのか」
「いえ、そんなことは御座いません、お萬さんがいらつしやるので、外へのお泊りは、精々三日に一度、七日に一度」
番頭の爲之助はクスリと笑つた樣子ですが、場合が場合だけに、その笑ひを噛み殺してしまひました。
平次は
離屋は母家からは完全に離れて居りますが、母家の二階と離屋の屋根とは、スレ/\に接して居ります。が、其處を飛び越して、母家の二階から離屋の屋根へ來たところで、屋根を剥いで入る工夫は無い筈です。
念のため提灯を差し込んで、離屋の縁の下を覗いて見ましたが、床下には巨大な土臺をめぐらし、人間は愚か、小犬の這ひ込む隙間もありません。僅かに頑丈な窓の上に、幅五寸ほどの
番頭と八五郎の案内で牢格子のやうな外側を見窮めた上、平次は離屋の中に入りました。入口の六疊、母家のお勝手に向いた方には、娘のお君が、恐怖と悲歎に打ちひしがれ乍らも、精一杯の緊張で平次を迎へます。
十八といふにしては、少しふけて見えるのは、言ふに言はれぬ苦勞をしたせゐでせう、青白く引緊つた顏や、思ひの外粗末な
「氣の毒なことだな、お孃さん」
平次が面を俯せると、お君の眼にはサツと影が差します。
「有難う御座います」
精一杯の我慢が崩れて、ドツと青白い頬を洗ふ涙、平次は自分の口から出た、世間並の悔みの言葉を後悔するばかりです。
隣の部屋――母親のお駒の死骸を置いてある部屋とは、廊下で
窓とは反對側の壁に
四十五六の青黒く痩せた顏、眼はクワツと宙を睨んで、頬から額に化石した苦惱の
右寄の喉笛、今日の知識で言へば、見事に頸動脈を貫いた刄物は、やゝ細くて鋭利で、後ろ首まで切つ尖が拔けて居るのは、恐ろしい力で打ち込んだもので、決して女の自害ではありません。
從つて滿身に浴びた血、粗末な寢卷も、疊の床の上も、まさに血の海です。その身體が後ろから突きのめしたやうに、前に倒れて居るのは、斷末魔の苦惱のせゐでせうか。
八五郎が言つたやうに、顏には化粧の跡もなく、寢卷も至つて粗末で、取亂し放題に取亂して居るのは、中年女の覺悟の
短刀はかなり業物らしく、燒刄の色も見事ですが、疊の上へ一寸ばかり突つ立つてゐるのと、刄に血の跡も無いのが不思議です。尤も
「これは誰のだ、見覺えは無いか。番頭さん」
と訊くと、
「全く見當もつきません、主人も見覺えが無い相で、多分御内儀さんが隱して持つて居たものでせう」
と番頭の爲之助は答へます。
「主人の源左衞門を呼んでくれ、此處で訊き度いことがある」
平次が言ひつけると、湯島の吉は默つて母家へ行きました。やがて、
「飛んだ御苦勞樣で、私は主人の源左衞門で御座います」
四十前後の、小柄ではあるが、何んとなく精力的な男が入つて來ました。元は松平某と名乘つた武家が、番頭の爲之助ほどでは無くとも、すつかり町人になり切つて、町方御用聞の平次に對しても、なか/\
「飛んだことでしたね、御内儀さんの斯んな事になつたに就て、何んか心當りはありませんか」
平次は穩かに問ひ進みました。
「私も面喰つて居りますよ、――尤も、番頭や弟の金三郎には、時々、死に度い――と漏らした相ですが、自分でこんな座敷牢見たいなものを拵へて入つた位ですから、
「殺されるかも知れないと言つて居たと聽きましたが――一體誰に殺されさうだつたので?」
「さア、そんな筈は無いと思ひますが、何分、少し氣も變になつて居りましたから」
「ところで、これは大事なことですが、旦那は、松前屋三郎兵衞の跡を繼いだのでせうか、それとも――」
「いや、私は先代の亡くなつた後、人のすゝめで、入婿に入つたとは言つても、表向祝言をしたわけではありません」
「では、お孃さんのお君さんは、平松屋の跡取ではないわけでせうな」
「その通りで、尤も平松屋の店は、先代の松前屋から、私が買受けたことになつて居ります。念のために、番頭の爲之助が證人で松前屋三郎兵衞の判を
「いや、それには及びません。ところで、此離屋の持主はどういふことになつて居ります」
「證文には店、藏、一式となつて居るが、離屋のことは書き漏らして居ります。家内はそれを言ひ立てゝ、離屋は松前屋が娘に遺したものだと申し、自分で造作を直して、此處に立て籠つてしまひました」
内儀の死に暗い影があるとわかつて、主人の源左衞門は妙に逃げ腰になります。尤も、寺に
五年前、松前屋三郎兵衞の急死に、惡い噂も立つた位ですから、この證文なども、三郎兵衞が生きて居るうちに書いたのか、死んだ後で、三郎兵衞の女房だつたお駒に判を取出させて作つたのか、お駒が死んだ今となつては、
「ところで、母家を見せて貰ひ度いが――」
「私が御案内いたしませう、どうぞ此方へ」
提灯が二梃、平次と八五郎は、番頭の爲之助に案内させて、お勝手から入りました。
板敷に小さくなつて居るのは、中年者の下女のお鐵、働きものではあるでせうが、如何にも愚直さうで、何を訊いても埒があきません。
「御内儀さんが可哀想でなりません。見る人を皆んな怖がつて、たうとうあんな座敷牢を拵へて、自分で入つてしまひましたが、離屋へ入るのはお孃さんと私だけでございましたよ」
そんな事を言ふのです。
「今晩主人の出た時刻を知つてるか」
「
「外の人は」
「番頭さんは店で帳合をして居て、うるさがつて私などを寄せつけません。金三郎さんは店二階に早寢で」
「お萬とかは」
「
「旦那とお萬は其處へ寢むのか」
「へエ、土藏の前の六疊で、――番頭の爲之助さんが仕事のことで遲れると、裏二階へ床を取ります。今晩もお泊りの筈で、早くから私が床を敷きましたが」
店には主人の弟の金三郎が、店火鉢の火の無いのに
お君はまだ十八、源左衞門の弟の金三郎を、敵同士のやうに思つて居るのですから、これはどんなに骨を折つても通じないのが本當でせう。
「金三郎さんと言つたね、お前はどう思ふ――御内儀さんの死んだことを」
平次は素直に訊くと、
「姉さんがお氣の毒ですよ、兄はあの通りクセが惡いのですから」
少しニヤニヤして居るのです、道樂者の自分にも兄の放埒が眼に餘つたのでせう。
「その御内儀さんは、人に殺されたのかも知れない、お前に心當りは無いのか」
「飛んでも無い、あの離屋へ入つて、殺せるわけはありません」
金三郎はそれを信じようともしないのです。妾のお萬は、自分の部屋でフテ寢をして居りました。下女のお鐵に叩き起させると、
「斯んな夜中に、なんの用事があるといふのさ。冗談ぢやない」
寢卷の上に
「御新さま、――錢形の親分ですよ」
「錢形がどうしたといふのさ、惡い事をした覺えの無いものが、ビクビクしてたまるものかねえ、馬鹿々々しい」
水茶屋の茶汲女で年を喰つて、醉つ拂ひも武家も、御用聞も博奕打も、物の數とも思はぬ
「――」
平次はその自墮落な顏をヂツと見て居りましたが、何んにも言はずに引揚げてしまひます。
「何處へ行くんです。親分。あの女は?」
「あの女は馬鹿だよ。男といふものを手玉に取つて、此世の中に自分ほど悧巧なものは無いと思つて居る女の見本だよ。男は手玉に取られたやうな顏をして居るだけの事さ。そして、幾人も幾人もの男から捨てられて行く女だよ。――あんな細工をして人を殺せる柄ぢやない」
平次は番頭の爲之助を案内に、二階へ登つて、表二階の金三郎の部屋から、裏二階の爲之助の時々泊るといふ部屋まで、念入りに調べました。そして提灯を振り照らしたまゝ、庭へ降り立つたのです。
「八、その窓の下あたりに、
「――」
八五郎は提灯を振り照らして念入りに庭を調べて居りましたが、やがて、奇聲をあげます。
「ありますよありますよ、四角な跡が二つ。一尺位離れて、
「それで宜い。ところで、梯子は何處にある、番頭さん」
「ツイ其處の物置にある筈で」
「それを持つて來てくれ」
「これでせう、親分」
八五郎は九つ梯子を一丁、物置の軒から持つて來て、庭の四角な跡に据ゑました。ピタリと梯子の跡が合ひます。
「窓の上の欄間の
「あ、成るほど、わけも無く開きますね、其處を開けると、三寸ほどの隙間から、部屋の中はよく見えますが、――此狹い隙間からぢや人は殺せませんね」
八五郎は梯子の上から聲を張り上げます。
「死骸までそんなに遠いのか」
「二間半はありますね」
「フーム」
平次は何やら考へて居りましたが、
「あツ、血、――梯子の中ほどに、血が附いて居ますよ、親分」
「そんな事だらうと思つたよ、蔀の間に血が附いたところは無いか、念入りに搜して見な」
「あ、ありますよ、梯子を掛けた場所よりは、グツと右へ寄つて、母家の二階の屋根に近く」
「矢張り殺しですね、下手人は誰でせう」
番頭の爲之助は膽をつぶした樣子です。
「そんな事がわかるものか、――それにしても下手人は大した腕だな、――番頭さん」
「へエ」
番頭爲之助は解つたやうな、ポカンと口を開いて居ります。
「此家に
「主人の元が元ですから槍は二本ございます、六尺の手槍と、二間半の大身の槍と」
「何處にあるんだ」
「母家の廊下に掛けてあります」
「行つて見よう」
四五人一とかたまりに、母家へ入りました。見ると廊下の上、
「あツ」
さすがに血の跡はありませんが、今洗つたと言はぬばかりに、一尺以上の穗から、けら首へかけて濡れて居るではありませんか。懷紙を出して強く拭くと、紙の上には紛れもない
元の部屋に歸つた平次は、主人源左衞門の前にピタリと坐つて、調べの跡を話した上、
「御主人、これを何んと見ます、槍は確かに人を突いたばかり、あの蔀の隙間から、二間三尺の槍を使へるのは、この家に二人とある筈は無く、――その上御主人は、
平次の言葉も嚴しくなります、が、主人源左衞門は、左して驚く色もなく、平然として平次を見返すのです。
「いかにも、重々の疑ひ尤もでは御座るが、私には身に覺えはない。併し、お駒が私を怨んだのも無理はなく、私の行跡にも惡いことだらけ――」
「途中ですが、先代松前屋三郎兵衞の隱した一萬兩の行方、御主人は御存じでせうな」
「いや、一向に知らない、實を申せば、幾度も/\お駒を責めたが、そればかりは教へてくれなかつた。そんな事が、淺ましいやうだが、二人の仲違ひの
源左衞門は首をうな垂れました。
「では妻戀坂まで四半刻もかゝつたのは?」
「ブラ/\と歩いたのだ。が、それは言ひわけになるまい。よし、何よりの申開き、あの窓の外から、
「――」
「蔀の隙間から、壁際までは二間半、槍の長さも二間半、――人間の身體は
「――」
「さア、親分、蔀の向うから、此處を一と突きに、物は試しだ」
平松屋源左衞門は、壁際の死骸の側に並ぶと、自分の襟をはだけて、靜かに平次の出やうを待つのです。
「いかにも、これはあつしの負けでした」
平次は潔よく
「親分、忌々しいぢやありませんか、下手人はあの亭主野郎に決つてゐるのに」
外へ出ると、八五郎は後からついて來て、口惜しまぎれに
「汚ねえな、お前は腹を立てると、唾を吐き散らす癖があるやうだ」
「そんな事はどうでも宜いぢやありませんか。何んとかして、夜の明けない内に、あの野郎を取つて押へる工夫はありませんか」
「無いよ、蔀の隙間からは、どんな槍の名人でも、二間半先に居る人は突けない。
平次が庭石の上に腰を掛けて待つて居る間に、八五郎は離屋に引返して、先刻の提灯を持ち出して來ました。
「親分、持つて來ましたよ。何をやらかしや宜いんで」
「井戸端へ來るのだ、槍は此處で洗つたに違げえねえ。おや、おや」
「何を考へて居るんです、親分」
「井戸端には血を洗つた跡もあるが、この曲者は證據をバラ撒き過ぎるやうだ。それに槍の穗だけ濡れて、胴金の下から柄へかけて少しも濡れて居なかつたやうだな」
「さうですよ」
「其處の物置の中を搜してくれ、近いところに、何んか隱してあるに違ひない」
「ガラクタで一パイですね」
ガラツ八は物置の中に提灯を突込んで怒鳴つて居ります。
「戸が一枚あるぢやないか」
「二三ヶ所に穴のあいた、頑丈な戸板ですね、おや、おや、丈夫な
「わかつたよ、八、もう一度二階へ行つて見よう」
穴をあけて紐をブラ下げた戸板を見ると、平次は急に活氣づきました。いきなり母家に引返すと、其邊にウロウロして居る金三郎をつかまへて、主人の部屋から
「八、面白いものを見せる、來い」
「へエ」
「それね、此庇から、離屋の欄間は手が屆くだらう、鼻の先の
「親分はもう、この謎はわかつたでせう」
「解つたつもりだ、もう一度離屋へ來い」
「何をやらかすんで」
「お前は離屋の入口に頑張つて居て、一番先に飛出した人間を縛るのだ、少し手剛いぞ」
「何んの」
「それから、家中の者を一人殘らず離屋へ呼んで來い」
「合點」
八は張り切つて飛んで桁きます。
「皆んな揃ひましたよ」
「よし/\、では始めますよ」
平次は人數の揃つたのを見ると、もう一度外へ出ました。離屋の死骸の前には家中の者が、
暫らくすると、合圖もなく、欄間の蔀がスルスルと開きました。と見るや、ハツと思ふ人々の前、丁度死骸から三尺ほどしか離れてゐない壁へ、凄まじいものがサツと突つ立つたのです。よく見ると、それは、大身の槍の
氣が付いて見ると、槍の目釘の穴には、
「あツ」
と言ふ間もありません、その時座の中から一人こそと逃出したものがあります。離屋の敷居を跨ぐと同時に、
「御用だツ」
八五郎は蠻聲と共に、ガツキと組付いたのです。
散々揉み合つた末、八五郎に縛られたのは、主人ではなくて、何んと番頭の爲之助。
「この野郎は、内儀さんが離屋の床下に入れて、生命がけで守つて居た一萬兩の隱し場所を嗅ぎつけ、母屋の二階に戸板に仕掛けた弓を持ち込み、槍の
「――」
聽く人は固唾を呑むばかり、平次の繪解きは誰も想像もしなかつた程の變つたものです。
「目釘の穴に長い紐が附いて居るから、槍はすぐ手繰り寄せられる、お孃さんが八五郎と話して居る間、御主人の出かけるのを待つての仕事だ、店で帳合をして居ると思ふから、誰も爲之助の仕業とは氣がつかない。――憎いのは下手人の疑を主人に被せようとした細工だ。證據を隱すより證據をバラ撒く方が樂だと知つた惡智慧だらう」
平次の説明は、行屆きます。
「一萬兩は、何處に隱してあるんだ」
「いや、それは」
平次は
「それは、この私のものだ」
「いや違ふ、先代松前屋のもので、お孃さんのお君さんのものに違ひあるまい、町役人五人組立ち會ひの上で引渡さう」
主人源左衞門、それに爭ふ口實はありません。早速人々を呼び集めると、平次は死骸の下、離屋の血だらけの疊をあげさせました。
其處には綿密にカムフラージユをした上、嚴重な箱に納めて、一萬兩の黄金は土の中深く埋めてあつたのです。
そして、その上には、一つの手箱が添へてあり、その中には、殺された内儀お駒の筆跡で、松前屋三郎兵衞を殺した下手人――平松源左衞門の罪状を
一萬兩の