「
夏の夜の縁先、危い縁臺を持ち出して、
「お前でも人を羨ましがることがあるのか、淺ましくなりやがつたな」
錢形平次は呑氣な心持ちで相手になつて居ります。八五郎が急に慾が出て、
「相手は駒形の伊三郎の野郎ですがね」
「取り拔け無盡が當つたのか、それとも伊三郎はちよいと良い男だから、大屋の小町娘にでも思ひ付かれたとでもいふのか」
平次は相變らず氣が無ささうです。秋近い蚊は、
「そんな世間並の話なんか、羨ましくも何んともありませんよ、伊三郎の野郎のところへ、
「そんなのが、羨ましいのか、お前は? 小皺が寄るまで苦海に勤めて、長い間に身受けの相手もなく、貧乏な岡つ引のところへ轉げ込む女郎は、一體どんな代物だと思ふ」
「さうは言つても、結納も祝言も拔きの、小風呂敷一つで飛込んで來る女房なんてものは、手輕で結構ぢやありませんか。小格子の小便臭い女でも、女郎には變りは無え、へツ」
「お前はそんな氣でゐるのか、折角良い娘を見付けて、世話をしてやらうと思つて居るのに、年明けの皺の寄つた女郎なんか羨ましがるやうぢや、附き合ひ度くねえよ」
「相濟みません、野郎も
「情けねえ野郎だ、同じ女房を持つなら、三井鴻池の娘でも狙つちやどうだ、望みは大きい方が宜いぜ」
「中屋貫三郎の請出した
「嘘をつきやがれ」
「その引祝がまた大變で、廓内の藝人を總仕舞にして、町々の
「宜い可減にしろ、冗談ぢやない」
八五郎の話は、出鱈目と誇張に充ち滿ちたものですが、調子の馬鹿々々しさに、聽いてゐる平次も腹は立てられません。
「見せたかつたな、親分。誰袖華魁が馬喰町の中屋に乘込んだ時は、その見物の人だかりで、淺草御門の近所へ夜店が出た」
「また嘘になる、話も程々にして置け」
「親分はまた、女の噂となると、氣が無さ過ぎますよ。たまには
「それが餘計だよ。お靜には
「へツ、情けねえことになりやがつたな、
「華魁の話が、蚊の話になつたやうだ。それならどんなに話にはずみが付いても、懷が痛まなくて良い」
「懷の痛まないことは、華魁の話の方も御同樣で、何しろ誰袖華魁が馬喰町の中尾に[#「中尾に」はママ]乘込んだところから見始めて、元服して御新造のお袖と改め、
「呆れてものが言へねえよ、お前といふ人間は」
「尤も、
「それで毎日、十手を突つ張らかして、中屋の店先へ出かけたんだらう」
「毎日は行きやしません。三日に一度、五日に一度――何にしろ、あれ位の華魁になると、隨分罪も作つてるでせう。誰がどんな時、寢首を掻きに來るか、
八五郎の話は馬鹿々々しく發展します。
「聽いて下さいよ親分」
江戸の遊女
「有難く聽聞してゐるよ――地獄極樂の
「その誰袖華魁といふのは、一頃
「相變らず
平次はまだ茶かして居りました。
「何しろ、誰袖華魁と來た日には、品がよくて綺麗で愛嬌があつて、取廻しが上手で、申分なく出來てゐる上、元が武家の出だ相で、お行儀がよくて學があつて、シイシイカンカンとやらの心得がある」
「何んだいその
「菓子ぢやありません。それ、言ふでせう、茶の湯生け花歌ヘエケエの親類見てえな」
「
「唐天竺の
「それで、質も置けば、飯も炊くと來れば大したものだ。お前の嫁にもなる」
「質兩替は中屋の稼業で、置く方ぢやなくて受ける方で」
「成る程ね」
「その誰袖華魁が中屋の北の方に直ると、中屋の主人を
「何んだえ、講中といふのは」
「唄のケエに俳諧のケエ、茶の湯のケエと、それ/″\取卷きが出來た」
「お前は何んのケエへ入つた」
「そんな
「大層な見識だな。ところで、その取卷には、どんなのが居る」
「
「それで、お前の話もおしまひか。いづれにしても、コチトラには縁の無い話だ、お前の相手には矢張りお
「心細い話ですね、――尤も、親分の前だが、ズブの素人にも、磨き拔いたやうな良いのがありますよ」
「お勘子よりも良いのか」
「からかつちやいけません。世間は廣いや、吉原の水をくゞらなくたつて、あんな結構な娘があるんだから、獨り者は樂しみで」
「お前に來てくれさうな娘か」
「飛んでも無い、中屋の亡くなつた内儀の娘で、姉の方は二十三、妹は十九、姉のお柳は後添の誰袖華魁より、歳がたつた二つ下、出戻りですが利巧者で愛嬌者で、これも、茶の湯生花、歌ヘエケエ、何一つ出ないものは無いと言はれるけれど、たしなみの良い素人娘は、そんな手數のかゝる道樂を看板にしねえから、あまり世間の噂には上りません。それから妹のお
「そんな馬鹿なことはあるものか」
平次は笑つてしまひました、が、中屋を包む空氣には、何んとなく世間並でないものがあるやうな氣がするのです。
「親分、大變なことになりましたよ」
八五郎の大變が飛んで來たのは、それから四五日、夏も漸く終わりに近づいた、ある晴れた日の朝でした。
尤も、この日の八五郎の大變は、全くの大變でした。馬喰町三丁目、中屋貫三郎の女房、言ふまでもなく、曾て才色粂備で吉原三千の遊女に君臨した、誰袖華魁が、昨夜主人貫三郎の留守の内に、何者とも知れぬ曲者に
「中屋からは近い私の家へ知らせて來ましたが、兎も角、近所の下つ引をやつて置いて、あつしは親分の迎ひに來ましたよ、唯の女が死んだのと違つて、こいつは――」
「唯の女――つて奴があるか。女郎上りが有難きや、お前一人で行つて見るが宜い。昔の貧乏臭い
平次はツイ、ポン/\やつてしまひました。地者を
「さう言はないで、親分、馬喰町中を探したつて、そんな野郎は居ませんよ。お願ひだから、神輿をあげて下さいよ」
などと、拜み倒してつれ出してしまひました。八五郎から見ると、遊女誰袖を殺すやうな奴は、天下を狙ふ曲者見たいな、兇惡無殘な相手らしく思へるのです。
馬喰町の中屋は、質屋で油屋で、兩替も兼ねて居るといふ、慾張つた町人でした。土地では數代に
當代の主人貫三郎は、もう五十過ぎの中老人ですが、四十過ぎてからの道樂者で、若い者と違つて、
名妓誰袖を
その晩も主人は附き合ひとやらで吉原へ行つた留守、内儀が殺されたといふ急の使で、平次と前後して馬喰町の家へ歸りました。
家は古風で、堂々として、表掛りは平次もよく知つて居ります。何んとなく此界隈を
「あゝ平次親分」
洒落者らしい主人の貫三郎は、朝からの晴着で、それでも間が惡さうに平次を迎へました。いかにも如才の無ささうな、
案内されたのは、別棟に建てゝ、廊下で繋いだ奧の六疊でした。狹い場所を巧みに利用した、手の混んだ泉石、その次の四疊半は茶室で、商賣用の藏の庇の下になり、路地を隔てゝ、母家の横手は、殺された内儀には繼しい仲の、姉お柳の部屋になつて居ります。
部屋に入つて見ると、恐しく贅澤な夜の物の上に、誰袖のお袖は寢崩れたやうに、俯向になつて死んで居るのでした。
「
「――」
平次は後ろを振り向くと、主人の貫三郎と一緒に來た、六十近い老人がうなづいて居ります。それは番頭の萬七といふのだと、後で聽きました。蒼黒く痩せた老人ですが、道樂者の主人貫三郎に代つて、商賣の方にはなか/\の働き者です。
「佛樣に手をつけなかつたのか」
「御檢死が濟むまでは、そつとして置いた方が宜いと思ひまして、何分、冷たくなつて居て、どんなに手を盡したところで、無駄だと思ひましたので」
「成程」
「尤も、あんまり痛々しいので、首を締めてあつた手拭だけは解いて、少しばかり着物を直しましたが――」
「誰がそんな事をやつたんだ」
「男手や、若いお孃さん方には出來ないことで、下女のお菊を呼んでやらせました。今朝これを見付けたのもお菊で」
「その手拭といふのは」
「その枕元に置いてあるのが――」
「成程」
平次はそれを取上げました。
「親分、それは
八五郎が口を出します。
「踊の手拭だらう、それぢや顏は拭けないよ、――ところで、その手拭を、どんな具合に首に卷きつけて居たか、お前さんは見た筈だから、元の通りにしてくれないか」
「へエ、それは」
「氣味が惡いんだらうな、宜いや、ま、八、お前がやつてくれ。絞め殺すわけぢやねえ、
「良い心持ぢやありませんね、あれが玉屋で全盛を謳はれた、誰袖華魁だと思ふと」
「馬鹿、折目や
「手拭は濡れて居ますよ。外側は乾いて居るが、折目の中はグツシヨリで、――まさか、死骸が汗を掻いたわけぢやないでせうね」
「何をつまらねえ――成程、後ろ結びの頑固な男結びか、と、解いちやいけない、下女のお菊を呼んで來てくれ」
「へエ、へエ、暫らくお待ちを」
番頭の萬七はお勝手の方へヨチヨチと飛んで行きましたが、やがて、三十五六のこの家ではたつた一人の例外になつて居る、恐しく不きりやうな女を連れて來ました。
「何んか御用でごぜえますかね」
「内儀の死骸から手拭を解いた時の樣子を聽き度い、結び目は此通りになつて居たのか」
「へエ、そつくり此通りで、人殺し野郎がやり直したやうでごぜえますだよ」
「八」
平次はそつと八五郎の
平次は主人の貫三郎と番頭の萬七を母屋の方へ追ひやつて、八五郎と二人だけになると、内儀のお袖の死骸を中にして、お菊と相對しました。この中年女は、何んかいろ/\のことを知つて居さうでならなかつたのです。
「
平次の問は定石通りに運びます。
「へエ私が見付けましたゞよ」
「どんな具合だつた、出來るだけ詳しく話してくれ」
「いつものやうに、雨戸を開けて上げようと思つて來ると、
「待つてくれ、蚊帳が吊つてあるか、吊つて無いか、縁側から、障子越しにわかるのか」
「解るわけは無えだ、――内儀さんが、いつも雨戸を開けた時、部屋の隅の障子を、少しばかり
「部屋の障子は確かに締つて居たことだらうな」
「間違ひは無いだよ、それから」
「何んか變つたことがあつたのか」
「枕元の水差しが引つくり返つて、布團の端から疊の上へかけて、ひどく濡れて居たゞよ」
「内儀さんは、夜中に水を呑むのか」
「お酒も煙草もお好きだから、夜中に喉も
「お内儀さんは、寢る時念入りに化粧をするだらうな」
「江戸の綺麗な女は皆んな寢化粧をするだよ」
お菊は不きりやう者らしい悟つたことを言ふのです。さう言はれるまでもなく、死骸の顏は綺麗に化粧をしてあり、首のあたり、手拭の跡だけ、寢白粉の剥げて居るのも淺ましく目立ちました。
「昨夜、内儀さんが床へ入つたのは?」
「旦那樣がお留守の晩は、いつでも早いだよ。昨夜も
「それつ切り、誰も此處へは來なかつたわけだな」
「人殺し野郎だけは來たわけだよ」
「あ、成る程、お前は良い御用聞になれるぜ。錢形の親分をやり込めたりして」
八五郎はまた、餘計なことを言つて平次に睨まれます。
「内儀のことで、何んか、氣のついたことは無いか」
平次は改めて訊ねました、この下女は錢形をやり込めて見度くなるほどの、妙な智慧の持主で、その上決して口の重くないことを見て取つたのです。
「さう言つて居ましたゞよ――私は近いうちに殺されるかも知れない――つて」
「お内儀さんがさう言つたのか、お前に?」
平次はひどく
「二度も三度もくり返して言ひましたゞよ、玉の輿に乘る氣で來たけれど、これでは命が危ないつて」
「二人のお孃さん達と仲が惡かつたのか」
「そんなことはありましねえ、心の中ではなんと思つて居たか知らねえけんど、見かけは仲の良い
「フーム」
「お内儀さんも利巧な人だけれど、お孃さんは、それにも増した考へ深い人だから」
「家の者はそれ丈けか」
「手代の美代吉どんがあるだ」
「それは?」
「若い癖に働き者で、この上もなく固い男だから、私などはどんなに機嫌を取つても、年中ニコリともしてくれねえ」
お菊はそれが不平でたまらない樣子です。
「ところで、内儀さんを殺した、この手拭は誰の持物だ」
「サア」
お菊は返事を澁りました。
「唯の手拭ぢやない、
「――」
「お前が言はなきや、他の者に訊くまでのことだ」
平次の聲は少し嚴しくなりました。
「それぢや言ひますだ、誰にも私が教へたと言はないで下せえよ」
「あ、それは大丈夫だ」
「大きいお孃さんの手拭だよ、踊を踊る人は他に無えから」
「フーム」
平次もツイ唸つてしまひました。
「八、お前はどう思ふ?」
平次は膝とも談合と言つた心持で、八五郎に問ひかけました。
「達者な下女ですね。手代の美代吉に氣があることゝ、小金を
「誰も下女のことを訊いてやしないよ、下手人の見當は付いたか、それを訊いて居るんだ」
「まるつ切り見當もつきませんね、もう少し當つて見なきや」
「それぢやお前は、御近所の噂を精一杯にかき集めてくれ、その間に俺は二人の娘と手代の美代吉に逢つて見るから」
「へエ」
「おや、血を吸つた蚊が居るぢや無いか」
平次は立ち上つて、部屋の隅、置床の上のあたりを覗いて居りましたが、懷紙を取出して壁の隅に追ひ込んで捕へると、蚊はつぶれて、べつとり紙に血が附きます。
「死骸を刺した蚊ですね、一と晩此處に轉がつて居たんだから」
「いや、蚊は人間の死骸を刺さないよ。さうかと言つて、生きて居る人間が、こんなに血を吸はれるのに、默つて叩きも追ひもせずに居る筈も無いわけだな」
「すると?」
八五郎は尤もらしく首を
「蚊帳を吊らずに寢て居たのは可怪いよ。尤も、まだ寢卷と着換へたわけぢやないが、――起きて眼を開いて居る者を、誰が一體後から締めたんだらう」
「元が元だから、忍んで來た男があつたとしたら、どうでせう」
「それは噂をかき集めたらすぐわかるだらう、が?」
「何んです、親分」
「後ろへ廻つて縮緬の手拭で締められるのを、默つて居るだらうか、――得物は澤山あるのに、何んだつて縮緬の手拭なんかを持出したんだ」
「――」
「その上、手拭が濡れて居たのはどういふわけだ」
「解けないやうに、締め殺してから、結び目を濡らして逃げたんぢやありませんか。縮緬の手拭ぢや、すぐ解けさうですね。手拭がほどけて、生き
「そんなことがあるかも知れない。それにしても、少し變だよ、――第一手拭が濡れ過ぎて居る――朝まで
「さうですね」
八五郎の鼻の下は、また長くなるだけです。
「兎も角も、少しいろんな人に當つて見よう、お前は
八五郎が出て行くと、平次は、布團の崩れ、内儀の身だしなみ、部屋のよく片付けてある樣子などを見て居りましたが、やがて暫くすると、縁側に影が射して、二十二三のこれは非凡な感じのする女が入つて來ました。姉娘のお柳といふことは、一と眼でわかります。
「――」
何やら口のうちで挨拶するのを受取つて、
「お柳さんですね」
平次は靜かに迎へました。
「何んか、御用で」
「内儀のお袖さんは、此通り殺されて居るんだが、お前さんは、どう思ひなさる」
「さア」
お柳は返事に困つた樣子です。少し色の淺黒い、眼鼻立の確りした、美しいといふよりは、いかにも聰明らしい女です。
「お前さんとは生さぬ仲だが、不斷どんな具合でした」
「年頃が似て居りますから、母娘といふ氣はしませんでしたが、でも、よく出來た方でした」
「
「そんなことは御座いません」
「讀み書きから、遊藝まで、よく出來た人だつたと聽きましたが」
「え、それはもう」
お柳の言葉には、何んとなく氣の乘らない響きがあります。
「夜分は何處に休むんです、お孃さん」
「私は一人で中庭の向うの部屋に休みます。妹は淋しがりやで、お勝手の近いところへ、お菊と同じ部屋に休みますが、私は一人で居るのが好きで」
「
「お菊と美代吉がいたします。今朝は何處も戸締りに變りは無かつた相で」
「すると下手人は家の者といふことになりますね」
「さういふことになるでせうか」
お柳の調子は至つて穩やかですが、ひどく神經を
「立入つたことを訊きますが、近頃繁々と出入する男はありませんか」
「隨分いろ/\の人がいらつしやいます」
「例へば?」
「――」
それにはお柳の返事がありません。毛の多い、豊滿な肉躰で、何處かに押し隱した
續いて呼んだ妹娘のお藤は、色白で可愛らしくて、聰明といふよりは、上品さですぐれて居ります。
「お孃さん、亡くなつた内儀さんとは、仲が良かつたことだらうな」
「はい」
言葉少なに、おど/\し乍ら、お藤はうなづきました。
「昨夜は?」
「あの人は早く部屋へ籠りますから」
母とは言はずに、あの人といふのが妙に耳立ちます。
「姉さんのお柳さんに、近頃縁談でも無かつたでせうか」
「いえ、姉はもう、嫁の務めは
「姉さんが先の嫁入先から戻つたわけは?」
「お
これだけの事を、お藤に言はせるのは、大變な骨折でした。
「親分、いろんなことがわかりましたよ」
八五郎は近所の噂をかき集めて戻つて來ました。
「お前の鼻には叶はないよ、俺の方は何んの
平次は苦笑をし乍ら、縁側の端つこに八五郎を招きます。
「第一、手代の美代吉が飛んだ良い男で、此家の婿になることを
「そんな事があつた相だな」
「あの姉娘のお柳といふのは、大變な利口者で、何をやつても、
「フーム」
「何しろお柳と來ては、一とかどの女學者で、四書五經がチヤンチヤラ可笑しく、唐天竺の
「お前の言ふことは一々變だよ」
「茶の湯生花歌ヘエケエ何んでも出來ないと言ふことは無いから、吉原一番の學者の誰袖華魁も全く齒が立たなかつた」
「で?」
女郎の藝事を誇大に言ひ觸らされたのは、恐らく、宣傳の爲であつたらしく、現に、川柳にも『
玉屋の誰袖華魁が、仕込の良い大家の娘ほどの藝も學も無かつたところで、何んの不思議もなく、平次は大方それを察しても居た樣子です。
「話はそれつ切りか」
「ところが、姉娘のお柳に嫌はれ乍ら、中屋から飛出すことも出來なかつた手代の美代吉は、主人の後添になつて來た、華魁の誰袖を見て、すつかりフラ/\になつてしまつた」
「變なことだな」
「固い一方で通つた男、三十五まで獨り者で暮したお
「相變らずお前の言ふことは亂暴だな」
「兎も角も、
「本人は面白くないよ」
「いくら女郎上りでも、今は主人の内儀でせう、それに命がけで惚れるなんて不心得な奴は、面白がつたつて構ひませんよ」
「で?」
「誰が見たつて、内儀のお袖殺しの下手人は、この手代の美代吉でせう、――尤も私は最初はあの
「お柳ではあるまいよ、僞の證據も言ひ逃れも拵へちや居ないし、樣子がいかにも平氣だ、手拭がお柳のとわかつても、大して驚いた樣子も無い、餘程大膽不敵な女で無きや、先から先のよく見える
「ね、さうでせう」
「それに、内儀のお袖が、蚊帳も吊らずに、たつた一人で居るところへ、不斷からあまり仲の好くない繼娘のお柳が入つて行つて、後ろから自分の手拭を卷きつけて、締め殺すといふ圖は考へられないぢやないか」
「すると、下手人は矢張り手代の美代吉でせう、親分」
「さう言ふことになるかな」
「ところが、その美代吉は、昨夜此家に居なかつたんですよ」
「?」
「町内の衆と大山樣へお詣りに行つて、今朝遲く、皆んなと一緒に戻つて來ましたよ。道了樣の御利益で、危なく首が繋がつたわけで」
「それは間違ひあるまいな」
「同
「よし/\解つた、話はそれつ切りだね」
「まだありますよ、華魁誰袖――内儀のお袖さんが、あの通り青白くて細いのは、死んだせゐばかりぢやなくて、あの女は前々からむつかしい病氣があつたんですつてね」
「フーム」
「
「今日はひどく
「いえ、まだ逢つたわけぢやありません」
「ぢや、此處へ呼んでくれ、ところで、他に内儀と親しい男は居なかつたのか」
「ありますよ、元は誰袖華魁だ。客あつかひの名人で、一度逢つたものはきつと裏を返す、此家へ入つてからも、何んかの遊藝や用事にことよせて、狼共が寄つて來た相ですが、だん/\華魁の學や藝は大したもので無いとわかつて、次第に足が遠退いた上、主人の貫三郎が浮氣を始めたので、内儀の方でも身を愼んで、近頃は神妙に暮して居た相です。尤も、派手で浮氣つぽい暮しをして來た女が、そんな心持が何時まで續くか、怪しいものでせうがね、――尤も死んでしまへば、何も彼もそれつ切りで」
八五郎なか/\よく氣が廻ります。
「お前は今朝歸つた相だな」
「へエ」
平次の前に小さくなつたのは、手代の美代吉でした。三十五にしては少し若造りで、色の白い、
「お前が居なくて飛んだ仕合せだつたよ。危なく首が飛ぶところさ」
八五郎がまた餘計なことを言ふのです。
「冗談ぢやない、私がどうしてお内儀さんを」
美代吉の顏はサツと變ります。
「まア、勘辨してくれ、八が言ひ過ぎたやうだ。ところで、お前は、お柳さんが嫁に行く前、一生懸命追ひまはして居た相だが」
「へエ、私も若かつたもので、そんな氣になつたこともありますが、あの人は氣が強くて利口で、私などには
「内儀さんは?」
「其處へ行くとお内儀さんは親切な人でした。お氣の毒なことに、あんなことになつて」
「お前には下手人の見當はつくか」
「私にわかりやしませんが、兎も角、お内儀さんと一番仲の惡かつた人に訊くことですね」
「それは誰だ」
「隱すまでもありません。お孃さんのお柳さん、――あの方は何んか御存じでせう、親分の口から訊いて見て下さい」
「お前はお柳さんが怪しいといふのか」
「そんなわけぢやありません」
美代吉はこれ以上のことは、何んにも言ひませんでした。あとは身の上話で、美代吉は中屋の遠縁に當ること、三十五まで奉公して居るのは、商賣の手違ひで若い時持つた家をつぶし、兩親も兄弟も無く、三十近くなつてから、中屋の店の手傳ひに入つて、今日に及んだといふことで盡きます。
唯、この男の激しさから、平次は何やら不安なものを感じましたが、別に取り立てゝ言ふほどのことも無く、その日は暮れてしまひ、平次は八五郎を誘つて明神下の自分の家へ引あげました。
「親分、まだ下手人はわからないので?」
不足らしく言ふ八五郎に、
「大方わかつた積りだが、もう少し考へて見ようと思つて引揚げたよ。どうせ逃げも隱れもする相手ぢやないから」
「逃げも隱れもしない、それは誰です、親分」
「まだ、お前には言ひ度くないよ」
「さう言へば、手代の美代吉もそんな事を言つて居ましたよ。夕方、お孃さんのお柳を物蔭に呼んで、――私は下手人を知つて居る、それが聽き度ければ、今夜正
「それは本當か」
「本當ですとも、此耳で聽いたんですもの」
「お柳は何んと言つた」
「默つてうなづいたやうでした」
「面白くないことがあり相だ。お前御苦勞だが、これから直ぐ出かけてくれないか」
「へエ?」
「中屋へ潜り込んで、その土藏の庇の下で待つて居るんだ。美代吉とお柳が何を話すか、それが聽き度い」
「やつて見ませう」
八五郎は一杯呑むのを遠慮して、晩飯だけ詰め込むと、
× × ×
その晩
「美代吉どん、何んの用?」
闇から出たのは、姿の美しいお柳でした。手代風情にこんなところへ呼出された不愉快さを押し隱して、
「お孃さん、皆んなに聽かれ度くなかつたんです、耳」
美代吉はお柳の方へ近づくと、
「其處では言へないの」
「でも大事のことですから」
フト美代吉の身體が寄ると見ると、白いものが、矢庭にお柳の首に掛けられました。
「ウム」
「覺えたかツ」
美代吉の手が、お柳の首を、手拭で締めて居るのでした。
「野郎ツ、何をしやがるツ」
其處へ飛出したのは、言ふ迄もなく、先刻から蚊に刺され乍ら待機して居た八五郎です。
「あツ、畜生ツ」
美代吉の手を
「ま、なんて人、私を殺す氣」
はしたなく悲鳴もあげずに、お柳は自分の喉のあたりを
「八、もう宜い、その野郎をつれて來い、皆んな母屋で待つて居る筈だ」
續いて闇から出て、八五郎の肩を叩いたのは、これも外ならぬ錢形の平次でした。
やゝ暫らく經つて、母屋の廣間に、家中の皆んなを集めた平次は美代吉を八五郎に護らせて、斯う言ふのでした。
「飛んだことでした。あつしが晝のうちに皆んな話して置けばよかつたが、まさか斯んな事にならうとも思はず、默つて歸つて、危いことになるところでしたよ」
「――」
「實は、このお内儀さん殺しには、下手人が無いのですよ」
「――」
あまりの事に、皆んなは顏を見合せました。
「お内儀さんは、いろ/\のことで死に度くなつたが、唯死んではつまらないと思ひ、一番憎いと思ふ人に、下手人の疑をかけようと思つたのです。お氣の毒だが、お内儀さんの一番憎かつたのは、何をやつても自分より上手で、齒の立たなかつたお孃さん――お柳さんでした」
「まア」
「で、
「――」
「そこでお内儀は、手拭で自分の首を力一杯縛り、後ろの方へ男結びに固く結んだ上、枕元の水差しの水を、その手拭にかけた。――
平次の解説の鮮やかさ、あまりの事に一座の者は顏を見合せるばかりです。
「美代吉はそれを知らずに、お柳さんが仲の惡い繼母を殺したと思ひ、前々からのお柳さんへの
「親分」
美代吉は泣き出しました。お柳はそれを遠く見て默つてうなづいて居ります。
「それぢや、皆さん」
平次は呆氣に取られて居る人達を後ろに、八五郎を促して立ち上るのです。夜の街を明神下へ辿り乍ら、
「變なことでしたね、親分」
八五郎が言ひかけると、
「飛んだ買ひ
「でもあの妹娘のお藤は良い娘でしたね、姉のお柳は學者過ぎたが」
八五郎は相變らずそんな事ばかり考へて居るのです。