「親分、折入つてお願ひがあるんですが」
ガラツ八の八五郎は、柄にもなく膝小僧を揃へて、斯う肩を下げ乍ら、小笠原流の
「心得てゐるよ、言ひわけに及ぶものか、その代りたんとは無えが」
錢形平次は、後ろ斜めに、障子の隙間からお勝手を覗いて、其處で晩の仕度をしてゐる女房のお靜に、何やら合圖をするのです。
それを見ると、お靜は心得たもので、帶の間から財布を拔いて、そつと平次の方へ滑らせました。親分子分の間でも、切出し憎いことを切出した八五郎に、少しでも恥を掻かせまいとする、それは貧乏馴れのした、
「冗談ぢやありませんよ、親分」
八五郎は膝の上へ置かれた、女物の財布を見ると、膽をつぶして二つの掌を振りました。八つ手の葉つぱのやうな大きい手が、互ひ違ひに動いて、くつろげた胸毛のあたりに、秋風を吹き起さうといふ素晴らしいジエスチユアです。
「本當に冗談ほどしか入つちやゐないよ、遠慮することは無い、取つて置きなよ」
「あつしはね、親分、お小遣が欲しくて來たわけぢやありませんよ、
「そいつは豪儀だ、恥を掻かせて濟まなかつたね。いづれそのうちに、小判と言ふ
「まア、それ程の景氣だと思つて下さいよ、あつしのお願ひといふのは、大したことぢやありませんがね」
「お小遣でなきや、お前を四角に坐らせるのは何んだえ」
「外ぢやありませんがね、あつしに用心棒に來てくれといふ家があるんで、長い間ぢやない、ほんの半月もすれば、身體のあくことで――」
「まさか、
「そんなものぢやありませんが、唯、少しばかり」
八五郎は
「何が少しばかりなんだ、まさか金の番を頼まれたわけぢやあるまいね」
「金の番なら威勢よく斷りますがね、何しろ相手は、人に物を頼んで、イヤとは言はせない人間なんで」
「何處の殿樣だえ、それは? 泣く子と地頭とはいふが、――」
「そんな野暮な
「あ、あれはいけない、あれはお前を取つて喰ふよ、止すが宜い」
錢形平次は、以ての外の顏をするのです。尤も、それは全く危險な女でした。踊も上手、女振りも非凡、
「でも、小夜菊師匠は言ふんですよ、――私は八丁荒しだの、殺生石だのと、嫌なあだ名を取つて居るけれど、私から男を誘つて、騙したわけでも何んでもなく、男の方から私に言ひ寄つて、頼みもしないのにお神さんを追ひ出したり、欲しいとも言はない物を買つてくれたり、散々なことをした上で、世間を狹くしちや、私を
「成程、いろ/\な理窟はあるものだな」
「近頃は私の命を狙ふ者さへあるから、氣味が惡くて叶はない。宮角力の大關まで取つたといふ、
「お前をよく/\無事な野郎だと思つて居るのだらう。金の無いのはわかつてゐるが、
「そんな馬鹿なことは言へませんよ。何しろ、師匠の外には、お咲といふ下女が一人、これも狼連の
「呆れた野郎だ、それでお前は請け合つたのか」
「錢形の親分が承知してくれさへすれば、と言つて來ましたよ」
「承知するもしないも無い。何をしようとお前の勝手だが、あんな女と係り合ひをつけると、お前が益々縁遠くなるばかりだから、それを心配して居るだけのことさ。逆樣に振つても、
「だからあつしが」
などと、八五郎は到頭この事件に乘り出してしまひました。
五、六日經つた或日、八五郎はフラリと明神下の平次の家へやつて來ました。
お盆が濟んで、お月見が濟んで、世界はすつかり秋、赤とんぼと虫の聲と、下町の風物も、何んとなくもの
「すつかり御無沙汰をいたしました」
「あれ、大層折目正しいんだね、師匠のお仕込みかえ」
「まア、そんな事で、へツへツ」
「今頃は蜘蛛の巣に引つ掛つた虫見たいに、カラカラにされて居るだらうと思つたら、イヤに脂が乘つて、元氣さうぢやないか」
「
八五郎は大きく身振りをして見せました。
「それで、まだ口説かないのか」
「冗談でせう。あの女は見かけや評判よりは堅い人間で、本人に言はせると、――私は弱氣で人間が甘いから、男に何んか言はれると、思ひ切つて振り切れないから、飛んだ目に逢ふんですつて」
「まア、宜い、――ところで何んにも變つたことは無かつたのか」
「ありましたよ。先づ何より氣の付いたのは、たつた四日の間に、あの女を横縱十文字に
「女の
「顏は大したことも無いやうに思ひましたが、傍へ行つて見ると、ほんのり後光が射して、あの顏の奧にもう一つ本當の顏があるやうな氣がしますよ、有難い佛樣の御開帳などで拜むと、そんなことがありますね」
「――」
平次は默つてしまひました。八五郎の讃美は、少し宗教的になつて居る樣子です。
「眼鼻立がはつきりして居る癖に、いつでも
「――」
「それより凄いのは、あの聲ですね、ことに笑ひ聲は人の心を掻きむしりますよ。少し
「物騷だな、お前はそれをやらなかつたのか」
「大丈夫ですよ、そんな氣が起つた時は、十手の先で自分の脇腹をこぢる」
「妙な
「小作りでキリヽとして、弱さうですが、恐ろしく身輕ですよ、踊で
「そんな
平次もこの八五郎の
「あれぢや隨分罪も作つたわけですね、時々嫌がらせをされたり、脅かされたり、惡戯をされるのも無理はありません。本人の小夜菊は、私は男を捨てた覺えは無い、皆んな向うで手を引いたんだと言ひますが、金が無くなつたり、次の良い男が出來たのを見せ付けられると、何時までも喰ひ下がるわけにも行かないでせう」
「ところで、どんな男が惡戯をするんだ」
「第一番にやくざの又五郎、ちよいと良い男ですが、小博奕を打つより外に藝の無い野郎で、小夜菊に夢中になつて、散々贅を盡し、今ぢや八方に不義理をして、世間へ顏向けもならない姿になつて居ますよ」
「外には?」
「藤屋万兵衞といふ地主、小夜菊に打ち込んで、五十幾つから踊を始め、女房は怒つて逃げ出し、娘や
「――」
「三人目は浪人の石澤金之助、元は小藩の留守居の下役人ですが、小夜菊に入れ揚げて藩金を費ひ込み、切腹を仰せつけられるところを、格別の御慈悲で追つ拂はれた四十男、外に、小夜菊の家の隣の酒屋、伊勢屋の若主人友吉、これも大變なのぼせやうでしたが、女房のお鳥の燒餅がひどくて、未だに
「大層な働きものだな」
「外にも、小夜菊のために、お
「小夜菊は、そんなに人を破滅させて、金でも取込むのか」
「飛んでもない。贅澤の足しにはなるでせうが、小夜菊の身には付きませんよ。男は女に夢中になると、家業を底拔けに怠けた上、家内や奉公人にも勝手なことをされ、自分の見栄や贅澤に金を費つて、アツと言ふ間に身上をいけなくしてしまひますよ、本人の小夜菊は『それで怨まれちや
「ところで、お前は何を入れ揚げた」
「あつしは
八五郎はまことに良い心持さうです。
「それ丈けのことなら、何もお前を用心棒に呼ぶほどのことはあるまい、絞つても叩いても、金つ氣の出さうなお前ぢや無い」
「
八五郎は思ひの外
「どんな事をやらかしたんだ」
「小夜菊が町の湯へ行くのを、ソツとつけて行つて、暗がりから飛出して、強引に口説かうとする野郎をフンづかまへると、これがやくざの又五郎で、散々意見をして逃してやりましたよ」
「お前に意見を言はれるやうぢや成程落ち果てたものだな」
「
「お前に見せる爲ぢや無かつたのか」
「何んとも言へませんね、――それから、宵の口に小夜菊の家へ、節分の豆ほど石を投りこむ奴があるから、怒鳴り付け乍ら追つかけると、曲者はもんどり打つて下水に陷ち、はふ/\の體で逃げうせましたよ、その正體は當年取つて五十五歳の、藤屋万兵衞の落果てた姿だから、怒鳴つた私の方が情けなくなりましたよ」
「伊勢屋の友吉といふのは、何んにもしなかつたのか」
「これはまだ金もあるし、小夜菊の方でも夢中だから、そんな嫌がらせなんかやりません。尤も若い女房のお鳥は、氣違ひ染みた燒餅で、これは火位は
「兎も角も、イヤな仕事だな。小夜菊はチヤホヤしてくれるだらうが、お前の爲には宜い加減にして引揚げた方が無事だらうよ、あんまり恩を着せられると、ろくなことは無いぜ」
平次の調子は少し
「もう引揚げますよ、小夜菊の用心棒で、
「順八といふのは、そんなに強いのか」
「近在の百姓の子で、草角力の大關だつた相ですよ。親の言ひ付けで、伊勢まで行つたが思ひの外用事が早く片付いて、すぐ江戸へ戻るといふ便りが、昨日ありました」
「それはどんな男だ」
「私も逢つたことがありませんが、小夜菊に言はせると、あんな正直な良い男は無いと言ふし、下女のお咲に言はせると、あんな
「フーム」
「
「そんなのが頑張つて居たら、小夜菊は稼業になるまい」
「男に飽々して、男臭いのは側へも寄せ度くないといふ師匠です。今度あつしを用心棒に頼んだのも、自分の留守中を心配した順八の智惠だといふことです、何しろ嫌がらせと惡戯がうるさいから、用心棒でも居なきや、氣味が惡くておち/\眠られないといふ騷ぎで」
「大層なことだな」
「尤も、順八が檜物町へ泊るのは夜だけ、晝のうちは、踊を稽古に來る娘子供を怖がらせないやうに、芝口の自分の仕事場に戻つて、海道筋の旅人を目當の
八五郎の報告はこれで終りましたが、この話の中にはもう、恐しい事件の伏線があつたのです。
それから十日ばかり經つた或日の朝。
「錢形の親分さん、檜物町から、八五郎親分の使で參りました、すぐお出で下さるやうにとのことで」
それは、町中の使ひ走りをして居る、身體だけは丈夫さうな中年男です。
「どうしたんだ、八五郎が間違ひでも起したといふのか、檜物町といふと、踊の
「その通りで、尤も間違ひを起したのは八五郎親分でなくて、小夜菊師匠の方で」
「あの師匠は、此間から變なものに狙はれて居たやうだ、怪我でもしたのか」
「怪我ぢやございません、喉を突いて死んだ相で」
「何?
栄耀栄華が好きで、浮氣で、贅澤で、男から男へ飛石のやうに渡つて歩く女は、どう間違つても自殺などはしさうもありません。
「よし、行つて見よう」
平次は早速仕度をして、檜物町まで飛びました。
行き着くと、其處はもう一杯の人だかり、惱ましくも美しかつた、小夜菊師匠の死顏を見る積りか、女も男も、水をブツ掛けられても散りさうもありません。
野次馬を押しわけて、御神燈をくゞると、それと知つて八五郎がいとも頼母しい顎を出します。
「親分、妙なことになつたんで、見當がつかなくてお呼びしましたよ。どう考へたつて極樂などへ行きさうも無い師匠が、自分で
「何んといふ口をきくのだ、少しはたしなめ」
平次は思はず
「大丈夫ですよ、皆んなさう言つて居ますよ、此世が面白くて面白くてたまらない人間は、容易に死ねるものぢや無いつて」
「まア、宜い。お前の理窟を聽きに來たわけぢやない、その佛樣に逢はせてくれ」
「此方ですよ」
案内されたのは、隣の八疊、それに小さな板敷の舞臺が付いて、此處で年に何度かの小さいお
「手をつけなかつたのか」
「皆んな氣味惡がつて、手を付けるものもありません。あつしが使の者と一緒に驅けつけたのは曉方で、それから親分に使を出しましたが、
「それは宜いあんべえだ」
「尤も、あの綺麗な小夜菊師匠が、あんな凄い顏にならうとは、誰だつて思やしませんよ。氣味を惡がるのも無理のないことで」
「どれ」
平次は近づいて死骸を起して、思はず息を呑みました、顏が
傷は右の喉、丸い顎の下から、肩口までも深々と下向に刺したのは、やゝ大振りの
匕首の刄は、横内側へ向いて居りますが、大動脉を切つた凄まじい血は、襟から胸腰に及んで居り、脂の乘つた丸い顎も眞つ赤に染めて居りますが、口から上には殆んど血の痕もなく、クワツと開いた大きい眼は宙を睨んで、恐怖とも絶望とも、言ひやうの無い、不思議な惡相になつて居ります。
舞臺の上は、小夜菊が立つた儘で死んで、それから倒れでもしたやうに、思ひの外
「恐ろしい顏でせう、親分」
八五郎は死骸に聽かせては惡いやうに、そつと平次の耳に囁きました。
「觀念した顏ではないな」
平次の答には
「親分、これが順八さんで」
八五郎の引合せたのを見ると、二十七八の大きな若い男、成程八五郎が言つたやうに、類の少い
「錢形の親分、御苦勞樣で」
顏の不氣味さや、體格の雄大さに似ず、腰も低く、言葉も丁寧で、柔和な感じさへ與へる不思議な男です。
「飛んだことだつたね、ところで、昨夜のこの始末を誰が一番先に見付けたんだ」
「お隣の伊勢屋の若主人、友吉さんで、――騷ぎ出して居るところへ、私と下女のお咲が一緒に戻りました」
「お前さんと下女のお咲は何處へ行つて居なすつたんだ」
「お咲は
話の筋はよく通ります。順八の仕事場といふのは芝口二丁目裏、お咲の親類といふのは芝口三丁目と源助町の境、二人は打ち合せて一緒に歸つたのは無理のないことでした。
「そのお隣の若主人を呼んで貰はうか」
平次が合圖すると、八五郎が飛んで行つて、蒼白くてヒヨロヒヨロした男を連れて來ました。
二十五六のいかにも臆病らしい人間で、昨夜からまだ顫へが止らないと言つた樣子です。平次の前――小夜菊の死骸の見えるところへ引出されると、ガタガタ
「へエ、何んか御用で」
「友吉さんと言つたね、昨夜のことを詳しく訊き度いが――」
「へエ、もう何遍も申上げましたが、店をしまつて、師匠の家のお勝手を覗くと、お勝手が開いて、奧には灯が點いて居ります、何氣なく上つて見ると――それはもういつもの事で、開いて居さへすれば、聲もかけずに上ります。灯は舞臺で、師匠はその上の方で折れ込んだやうに倒れて居ります、驚いて手をかけると、あの血で」
友吉は唇をなめて、ゴクリと固唾を呑むのです。
「で?」
「それから夢中で飛出し、大聲で人を呼びますと、折よく順八さんとお咲さんが戻つて參りました」
「師匠の家に長く居なかつたのかな」
「飛んでもない。――私と師匠の仲は、町内の評判になつて居りますが、女房がうるさいので、覗いて見るのが精一杯、それも女房がお勝手で何んかやつて居る時に限ります」
小夜菊に
「外に氣の付いた事は無かつたのかな」
「私が入ると、入れ替りに、誰か外へ飛出した者があるやうに思ひます、お勝手の戸がカタリと鳴りましたが、私も面喰つて居るので、よくは氣もつけませんでした」
「それは順八とお咲では無かつたのかな」
「いえ、順八さんとお咲さんは、それから間もなく、表の方から戻つて參りました」
「有難う、――ところで、小夜菊は金を溜めて居なかつたのかな」
平次は元へ戻つて順八に訊ねました。
「二十兩や三十兩でなく、しつかり溜めて居たと思ひます」
順八は素直に答へました。
「それは何處にあるだらう――無事だらうな」
「すつかり氣が轉倒して見ずに居りますが、師匠の居間の、塞いだ
「そんなものを見せたのか、師匠は」
「私には隱さうともしませんでした。男は皆んなで、自分に貢いでくれると思ひ込んで居るのか、金の置き場所を人に隱さうともしない氣風の人でした」
順八は苦笑ひするのです。全盛の遊女が、金を金とも思はないやうに馴らされたやうなもので、極端な娼婦型の小夜菊は、男から貰ひ溜めた金を、大して有難いものとも思はなかつたのでせう。
平次は早速小夜菊の居間に入り、その
「無い、無くなつて居ますよ」
順八の驚いた顏といふものはありません、少くとも、これは芝居では無ささうです。
小夜菊は明らかに自殺しました。自殺の原因は殆んど無く、派手で陽氣で世の中が面白くてたまらない女が、自分の命を自分の手で縮めるといふことは、あり得べからざることのやうにも思はれますが、下女のお咲や
それは、明るさの蔭の暗さ、歡樂極まつて悲哀と言つた、人の心の不思議な動きとも見られ、一方からは又、女といふものは、自分を奧深く美しく、測り難く弱々しく見せる爲に、逞ましい生存慾を押し包んで『死に度い』などと全く腹にも無いことを、言ひたがるものだとも解されるのです。
「兎も角、もう少し調べて見よう」
平次はうさんさうにして居る八五郎を促して、この事件にもう一歩踏み込む氣になつたのです。
やくざの又五郎は、
「居るかえ」
八五郎が聲を掛けて入ると、
「これは八五郎親分」
今まで晝寢でもして居たらしい、當の又五郎が、鼠の巣から首だけ出します。
「檜物町の師匠が死んだんだが、又五郎兄哥は顏を見せないのはどういふわけだ、佛樣は怨んでゐるぜ」
「冗談で」
又五郎はテレ臭さうに、寢過ぎてむくんだやうな顏を撫で上げました。二十七八の如何にも不景氣な男です。背が低くて青黒くて、不攝生な生活と酒毒にやられたブヨブヨした身體、昔はいくらか良かつたであらうと思はれる眼鼻立も、この不健康に
「檜物町の師匠のところへ、何時行つた」
平次が代つて問ひました。
「先月からズーツと參りませんよ。あんまり良い顏をしてくれないので」
「さうでもあるまい。大層親しくして居たといふぢやないか」
「景氣の良かつた頃は、何んとか言つてくれましたが、――金の切目が縁の切目で」
又五郎は
「昨夜お前は檜物町へ行かなかつたのか」
「宵から寢て居りました、師匠が死んだといふ話を今朝になつて聽いた位で」
「家の中を見せて言ひ度いが、宜いだらうな」
平次はもう敷居を
「それは困りますが、獨り者で構ひ手が無いので、ひどく散らかして居りますから」
「そんな事は構ふものか」
平次は又五郎の
平次はそのゴミ溜のやうな汚い家の中を念入りに調べて居りましたが、
「こいつは大した獲物だよ」
と到頭凱歌をあげました。布團の足の方に、風呂敷に包んで四隅を結んだドツシリしたもの、開けて見ると、五六十枚の灰だらけの小判がザクザクと出て來るではありませんか。
「あツ、それは」
あわてゝ飛付かうとする又五郎は、襟首を取られて八五郎に引戻されました。
「これは何んだ、又五郎ツ」
平次の聲は嚴しくなります。
「あつしの金ですよ。近頃うんと目が出て五六十兩儲けただけのことで」
「嘘を吐きやがれ、三文
それは八五郎です。
「どこの
平次は追及します。
「それが、その」
「小判には阿倍川餅ほど
「そんな事をあつしは知りません」
「小夜菊師匠の死んだのが自殺でなくて、人に殺されたのだと解ると、お前は間違ひなく下手人だ」
「飛んでもない」
「だから、ありの儘に言つて置かないと、むづかしい事になるぜ」
「申しますよ、親分、言や宜いんでせう。小夜菊師匠を殺すなんて、そんな馬鹿なことが――」
又五郎はすつかり觀念してしまつた樣子です。
「それぢや、俺がお前に代つて話してやらう、宜いか――お前は昨夜小夜菊師匠を
よしや小夜菊は自害では無くて、人に殺されたのであつたにしても、この肉體的にも精神的にも、頽廢し切つた男の仕業ではあるまいと平次は見て取つたのです。
「その通りです、それに間違ひありません。でも、私はほんの出來心と、散々小夜菊におもちやにされた腹癒せに、爐の中の小判を持出しました。私が師匠に入れ揚げた金だつて五十兩や六十兩はあります」
「嘘をつけ、五兩か六兩が精々だらう」
「勘定もして居りませんが、――私はこれ位のことをしても良いわけで」
「馬鹿ツ、人の金を盜んで來て、――これ位のことをしても宜いとは何んと言ふ言ひ草だ、小夜菊師匠に入れ揚げた金に未練があるならお前も地獄へ行つて取り返せ」
「へツ、ま、さう言つたわけで」
「八、兎も角、もう少し調べ度いことがある。俺と一緒に來い。又五郎とその小判は、町役人に預けて置くが宜い、――逃げ度きや逃がせ。今度つかまつたら、小夜菊殺しの下手人で
「――」
平次は八五郎を促して次の場所へ向ひました。
浪人石澤金之助は、金杉の裏店に住んで居りました。平次と八五郎が訪ねて行くと、これは又、下へも置かぬあしらひです。
「錢形の親分か、いやよく知つて居る。もう一人は八五郎親分とか言つたな、俺は小夜菊の
「そのことで伺ひましたが」
「俺は何も知るものか、小夜菊のところへ遊びに行つたこともあるが、それはもう半歳も前のことだ、あの女ははつきりして居て、金の無い者へは、笑顏も見せなかつたよ」
「昨夜は?」
「小夜菊の死んだのも知らずに、舊藩の友人を訪ね、
話は甚だはつきりして、少しの疑ひやうもありません。
其處を出ると、平次の足は同じ町内の地主藤屋万兵衞を診ねましたが、これは五十五歳といふ見る影もない老人で、
「いやもう、天罰
そんな事を言ふのです。平次はそれを宜い加減にあしらつて、今度は
「親分、何處へ行くんです?」
「下女のお咲の親類と、師匠の用心棒で從兄の順八の仕事部屋だよ」
「小夜菊師匠は、矢張り殺されたといふ見込みで?」
「いや、自分の手で匕首の
「どんなところです、親分」
「まア、もう少し附き合つてくれ。小夜菊はどう考へても自害などをする型の女ぢや無いのだよ。
「さうでせうか」
「ぢや、下女のお咲の伯父で
芝口三丁目の裏の小さい荒物屋、平次はその家を訪ねて、下女のお咲の伯父といふ年寄に逢ひました。
「
その頃の江戸の町は、宵からはもう、若い女一人では歩けなかつたのです。
「連れになる順八は何をして居たんだ」
「註文の
「――」
「尤もあの草鞋は大したもので、あれは全くの名人業ですね、指の力があつて、よく締まる上に、根が器用な人で、いかにも仕上げが綺麗ですから、お大名のお國入の行列などがあると、澤山の註文があります。
昔の旅人には、草鞋は何より大事なもので草鞋作りの名人といふものが、何處の國にもあり、それは實に、美術品と言つても宜いほどの美しいものでした。その上出來の良い草鞋は保ちもよく、見た眼も綺麗なので、旅馴れた人は、わざ/\それを求めて、海道筋に踏み出したのです。
「その順八のこさへた草鞋を見せてもらひ度いが」
「此處にはございません、芝口二丁目の仕事場へ行つたら、一足や二足はあることでせう」
平次はその他にもいろ/\訊ねましたが、お咲と順八は唯の
「お咲が歸つたのは、
それが、荒物屋の老爺から得た全部です。
其處からは一、二丁距れて居る、順八の仕事場も覗いて見ました。大きな雜穀屋の裏、土藏の後ろへかけた庇の中が、順八の仕事場で、
平次に頼まれて雜穀屋の老番頭が、立ち會つてくれ、何彼と説明をして居ります。
「あの順八といふ人は、
そんな事を言ふのを聽き乍ら、平次は尚ほも仕事場の中を調べて居ります。
「仕事が夜になることもあるでせうな」
「月に一度か二度、そんな事もあります、昨夜も晝から仕事を續けて四つ過ぎまで
「灯?」
「寒い時は火鉢を持込みますが、火が危ないので、大抵は行燈にしてもらひます」
「これが順八の拵へた草鞋でせうな」
平次は藁の上に載せてあつた、二十足ばかりの草鞋を取上げました、如何にも手際のいゝ藁細工です。昨夜四つまでかゝつて拵へて、まだ高輪の問屋に屆けずに居たものでせう。
「それ丈けの草鞋を作る者は、滅多にない相で」
「おや、おや」
平次は藁の底から、一つの粗末な財布を引出したのです、紐を解いて
「大した金持ぢやありませんか」
「いや、それ位の金は持つて居ますよ、その辛抱人の順八が、金を持つて居なきや不思議な位で」
「成程ね。
平次はさう言つて、財布を元の藁の中へ返しました。番頭に別れて外へ出ると、八五郎の耳に、
「お前はこれから直ぐ、目黒在の順八の家へ行つて見ろ、先月お前が代りに檜物町の用心棒をしたとき、順八は本當に伊勢へ行つたかどうか、それを知り度いんだ」
「へエ、直ぐ行つて來ませう、今夜は遲くなつても明神下へ」
「ウン、返事は今日のうちに聽き度い、頼むぜ」
八五郎が目黒の在から、明神下の平次の家へ戻つて來たのは、その晩も眞夜中近い時分でした。
一本つけさせた平次は、それを迎へて、さて、
「どうだ、順八が伊勢へ親の用で行つたのは嘘だらう」
「その通りですよ、親分。目黒在の順八の親の家へ行つて聽くと、先月の末十日ばかり、順八は不意に家へ歸つて來て、要りもしないのに、百姓の
「江戸を
「へエ?」
「まさか、お前が目黒まで調べに行くとは思はなかつたことだらう、これだから、調べ事は手を拔いちやいけないな」
平次は自分へ言ひ聽かせるやうに言ふのです。
「一體、どうしてそんな細工をしたんでせう、あつしには少しもわかりませんが」
「始めから話して見よう、檜物町の小夜菊の死んだのは、ありや自害ぢやない、立派な殺しだつたんだ」
「へエ、どう見たつて自害ぢやありませんか」
「自害なら、自分の部屋で、踊の師匠だもの、膝位は
「死ぬまで立つて?」
「誰か後ろから押へて居たのだよ、
「?」
「匕首の柄を小夜菊の手に、無理に握らせて男の大きい掌が、その女の華奢な
「――」
それは凄まじいことでした、八五郎も思はず息を呑みます。
「匕首の
「すると順八」
「あの男だよ。
「へエ」
「小夜菊には殺し手が多勢あることを見せて置けば、自害でないとわかつても、順八へは疑が來ないといふ細工だらう、――あの晩は急ぎの草鞋の註文で、芝口の仕事場に籠つて
「へエ、恐ろしい細工ですね」
「
「太てえ野郎ですね、直ぐ出かけて行つて」
八五郎はイキリ立つのです。
「待て/\俺は芝口からの歸り檜物町を覗いて見て、順八につまらねえことを言つてしまつたよ、――芝口の仕事場を見せて貰つて、八五郎を目黒在のお前の家へやつた――とね。順八の顏色はサツと變つたから、これはしまつたと思つたよ、今頃はもう、何處かへ逃げ出してしまつたことだらう」
「親分、そりや、わざ/\逃がしたやうなものぢやありませんか」
「飛んでも無い、御用聞がわざ/\人殺しの下手人を逃して宜いものか。――でも、俺は小夜菊の方が餘つ程罪が深いと思ふよ、
平次は徳利の尻を撫でて、キナ臭い顏をする八五郎を見上げるのでした。