「八、居るかい」
向う柳原、七
「誰だえ、人を呼捨てにしやがつて、戸袋の蔭から出て、ツラを見せろ」
八五郎の長んがい
「大層な見識だな、八」
「あ、親分ですかえ、こいつはいけねえ、又町内の
八五郎は面喰つて、階子段を二つづつ飛降りて來ました。
「本所の二つ目まで附き合はねえか」
「何處まででも附き合ひますよ」
「それぢや大急ぎで朝飯を濟ましてくれ、此處で待つて居るから」
平次はさゝやかな四つ目垣にもたれて、芽を吹いたばかりの
「それには及ぶものですか、朝飯なんざ、昨日も喰ひましたぜ」
「あんな野郎だ、――
「それはもう、鹽磨きで、水の使ひやうが荒過ぎるつて、
「呆れた野郎だ」
「親分が一緒なら氣が強いや、いづれ歸りは
「下らねえことを言はずに、空き腹を覺悟ならついて來い、だが、叔母さんが見えないぢやないか、家を空つぽにして出かけても大丈夫か」
「ちよいと隣へ頼んで行きませう、尤も泥棒に狙はれるやうな不心得な奴は、このお長屋には住んでゐませんがね」
八五郎はお隣の女房に留守を頼んで、平次の後を追ひます。
「ところでお前は、相生町の坂田屋といふ酒屋を知つてゐるのか」
兩國を渡ると、平次は思ひ附いたやうに、こんなことを訊くのでした。
「其處へ行くんですか? 親分」
八五郎はひどく驚いたらしく、往來の眞ん中に立ち止りました。
「それが何うしたんだ、相生町の坂田屋に何んかあるといふのか」
「あつしも近いうちに一度坂田屋を
「誰かお前を呼出した者でもあるのか」
「手代の喜三郎といふ良い男ですよ、手紙もよこし、本人も來ましたが、『どうも私は殺されさうな氣がして仕樣が無いから、一度坂田屋を覗いて下さい――』といふんでせう」
「フーム」
「よくある
八五郎はすつかり
「惡戯か本氣か知らないが、俺のところにも、助け舟を呼んで、二人から手紙が來たよ、どつちも坂田屋のものだが、手代の喜三郎では無いやうだ」
「へエ? すると、坂田屋の者は三人も殺されかけてゐるわけですね、――親分へ手紙をよこしたのは、誰と誰です」
「坂田屋の
「へエ、驚きましたね、相生町の坂田屋といふと、本所でも評判の物持だが、その家がまるで死神に
「兎も角行つて見よう、こいつは容易ならぬことかも知れない、――ところでお前へ來たといふ手紙は?」
「これですよ」
八五郎はでつかい煙草入から取出して平次に渡しました。
八つに疊んで先を曲げた半紙を開くと、中はかなり達者な帳面字で、
私事は先日親分樣に無理を申上げ候相生町の坂田屋の奉公人、喜三郎と申すものに御座候、此間中から不氣味なこと相續き、今夜中にも殺されること必定と存じ候につき、親分樣の御助けを頂き度く、くれ/″\も御願ひ申上候――
とかなりはつきりしたことが書いてあるのです。「この手紙をいつ受取つたんだ」
「
「誰が持つて來たんだ」
「使ひ屋だつたさうですよ、吉原の女郎衆の色文から
八五郎の話には、また無駄が入ります。
「妙なことがあるものだな」
平次は考込んでしまひました。相生町の坂田屋から、三人の人間が、しかも同じ日に助けを呼んでゐるといふのは、どう考へても容易ならぬことのやうな氣がするのです。
「親分のところへ來た手紙は、どんなものです」
「これだよ」
平次は紙入に
「こいつはあつしに讀めませんよ、喜三郎のはまともな日本の文字だけれど」
八五郎は煙たい顏をして、小菊に書いた女文字を、ためつ
「それだつて日本の文字だよ、變體假名交りの
「へエ、厄介ですね」
「女文字の方は相生町の坂田屋の内儀の手紙で――今夜といふ今夜、私は命を狙はれて居ります、なにとぞ親分樣の御助けを、と書いてある」
「へ、成程ね、さう言はれると、さう讀めないこともありませんね」
「もう一枚は――大福帳を千切つた
「使ひは?」
「内儀の方は、小僧が
「で?」
「俺も八丁堀の笹野の旦那のところへ呼ばれ、御馳走になつた上、いろ/\相談を持かけられ、戻つたのは
「へエ?」
「今朝になつて、妙に氣になつてならねえから、朝の仕度もそこ/\に飛出したのよ、お前のところへも、變な手紙が舞込んでゐると聽くと、こいつは一度覗いて見るのも無駄ぢや無からう」
「死神に
「そんなことなら宜いが」
「おや、向うから來るのは、石原の親分のところの、お
「成程、お品さんだ、大層急いでゐる樣子だが――」
平次に取つては大先輩の御用聞、石原の利助が中風で寢込んでしまひ、その娘のお品が氣性者で、
「ま、錢形の親分、丁度宜いところで」
「こんなに早くから、何處へ行くんだ、お品さん」
「明神下の、親分のところへ、――現場に
「それぢや、相生町の坂田屋に、何んか間違ひでもあつたのか」
「よく御存じで、――伜の柳吉が殺されましたよ」
「あゝ
八五郎は下手な
相生町四丁目、
「おや、錢形の親分が」
遠くから、手代の喜三郎が見附けると、ザワザワと店中が
「親分さん、飛んだ御手數で、でも、よくお迎へが間に合つたことで」
薄禿げの四十前後、精力的な感じのする中年男です。
「其處でヒヨツクリお品さんに逢つたのだよ」
平次は巧みに
「では、どうぞ此方へ」
「今朝、雨戸を開けてくれた下女のお時の聲に驚かされて、二階から降りて來ると此有樣で―」
惠之助が自分の口から
その奧の六疊の、裏に向いた腰の低い窓は明いて、それを背にして、若旦那の柳吉は、まだ
二十三になつたばかり、それは良い男でした。色白の細面で、女の子に
紙入の下には、八つに疊んだ眞新しい手拭と、一と
「まるで、旅にでも出かける
平次がさう言つたのも無理のないことでした。
死骸の傷は、右の首筋を深々とゑぐつたもので、見事に
「錢形の親分、
死骸の番をして居た、石原の子分がさう言ひます。此時はもう、後のことを平次に引繼いで引込思案のお品は歸つてしまつた樣子です。
「鞘には血の跡は無かつたのか」
「この通りで」
子分は鞘を取出して見せましたが、念のため懷紙で拭いて見ても、それには血の跡もありません。
「お前さんは、同じ
平次は眞つ正面から惠之助の表情を見つめました。
「何んにも存じません、私は目ざとい方ではございませんが、それでも、喉を掻き切られて死ぬまでには、少しは聲を立てるとか、物音をさしたことゝ思ひますが――」
惠之助は自分の不爲なことを、大した潤色もせずに言ふのです。
「死骸は、最初から仰向になつてゐたのか」
「へエ、その座布團の上に顏を
さう言へば柳吉の前には、存分に血を吸つて
「これを一番先に見つけたのは?」
「下女のお時でございます、呼んで參りませうか」
平次がうなづくのを見て、惠之助はお勝手の方へ行きましたが、その間に八五郎は、何やら平次にさゝやかれて、何處ともなく飛んでしまひました。
「私に用事があるといふのは、お前樣けえ」
三十二三の、それは
「若旦那が死んでゐるのを見附けたのはお前だつてね」
「その通りですよ」
「時刻は?」
「明るくなると、私は家中の雨戸を引くだ、もつと寢かしてくれなんて言つたつて、承知しねえことにして居るよ」
「で?」
「離屋へ來ると、向う側の雨戸は開いて、窓の下に若旦那樣が、血だらけになつて死んで居るでねえか、膽をつぶして大きな聲を出すと、二階から番頭さんが降りて來たゞ」
番頭といふのは、言ふまでもなく叔父の惠之助です。
「番頭さんは朝は早い方か――もつと寢かして置いてくれなどといふのは、まさか番頭さんぢやあるまいな」
「頭の禿げた、よく
「よし、わかつた、お前は番頭さんとは餘つ程仲が惡さうだな」
「冗談におらを
「これ/\何を言ふんだお時」
廊下から默つて居られなくなつて聲を掛けたのは、その噂の惠之助でした。
「まア、宜い、おかげでお前さんは下手人でないとわかつたやうなものぢやないか」
「へエ?」
平次の言葉を、惠之助は呑み込み兼ねた樣子です。
「夜中に人を殺した人間が、眼やにだらけになつて、
「へツ、そんな事で」
叔父の惠之助は[#「惠之助は」は底本では「惠之進は」]
「ところで、
平次は問を改めました。
「私かも知れませんよ、
「それつ切りか」
「それつ切りだが、樣子に變なところがあつただよ、若い人が灯もつけずに、薄寒い窓で考へ事をして居るのも變だし、今朝になつて見ると、窓の外に若旦那の草履が揃へてあるでねえか」
「その
「草履には血が附いて居たし、その草履の側にも、血の附いた紙切が落ちて居たやうに思ふけれど、少し目を離してゐるうちに、誰が片附けたか見えなくなつただよ」
「その紙切の中をお前は見なかつたか」
「手紙か何んかだよ、見たつて私には讀めやしません」
「そいつは惜しかつたな」
平次はひどく口惜しがりました。
「尤も、小僧の佐吉どんが見たかも知れません、あの子はたつた十六だけれど、物の本が好きで、四角な字も讀めるから」
「そいつは有難い、早速小僧の佐吉を呼んでくれ」
平次は救はれたやうな心持でした。その血染の草履と側にあつた、手紙らしいものを見さへすれば、事件が苦もなく解決するやうな氣がしたのです。
「親分さん」
不意に聲を掛けたものがあります、それは少し骨張つては居るが、蒼白い若い男、
「手代の喜三郎ですよ」
此時戻つて來た八五郎がそつと囁いてくれます。
「相濟みません、私は
「どうしたといふのだ、皆んな話して見るが宜い」
「窓の外にあつた草履と、血の附いた紙片を隱したのは、この私でございます」
「何を言ふのだ」
平次もさすがに驚きました。手代の喜三郎は容易ならぬことを打ち明けようとして居るらしく、
「惡いことで御座いましたが、若旦那の書いたものを、この私が隱してしまひました、この通り、思ひも寄らぬ
「どれ」
平次は喜三郎の差出した、一枚の半紙を取上げました。その端つこには不氣味な血がにじんで居り、文面もひどく亂れて居りますが、
――今夜、私は喜三郎に殺されるかも知れない、どうもそんな氣がしてならない――
と讀めるではありませんか。「草履は此處にございます、血が附いて居りますが、新らしい草履で、若旦那はこれを
手代の喜三郎は
「それぢや
平次は多勢の人を追つ拂つて、手代喜三郎とたつた二人になつたのを見極めると、新しい問を進めました。
「どんなことを申上げれば宜いでせう親分」
喜三郎は神經質らしく
「お前は何だつて、八五郎のところへ行つたり、今晩殺されるかも知れないなどと、物騷な手紙を出したんだ、――一方殺された若旦那はあべこべにお前に殺されるかも知れないと言つてゐるぜ」
平次は遂に訊くべきことを訊かうとしたのです。この謎が解けないうちは、柳吉を殺した厄介な謎は永久に
「私は、若旦那に殺されかけて居りました」
「何?」
「二度も三度も、私は殺されかけました、若旦那に頼まれた土地のやくざ者に取卷かれて、命辛々逃出したり、物置の中で、上から重いものを落されたり」
「それはどういふわけだ」
「若旦那は、大旦那の
追ひ出される前の若旦那の柳吉が、何を
「で?」
平次は熱心に先を促しました。この手代の打明け話が、餘程面白かつた樣子です。
「若旦那はそれを、私とお内儀さんのせゐだと思ひ込みました。私はこの家の遠縁で、お内儀さんと血の
「――」
「若旦那は取引先の義理で近頃この家に入つた養子ですが、私は
「――」
「私は若旦那に殺されるやうな氣がしてならなかつたのです。で、店二階へ一人で寢るのが怖さに、小僧の佐吉に頼んで、一と晩だけ、同じ部屋で一緒に寢て貰ひました、裏の佐吉の部屋です、これは當人の佐吉に訊いて下さればよくわかります」
手代の喜三郎は、重荷をおろしでもしたやうに、ホツと肩を落しました。若旦那の柳吉が何を書かうと、裏の小部屋に飛込んで、小僧の佐吉と一緒に一と晩を過したとわかれば、この男は下手人の疑から除外されることになるでせう。
「その小僧の佐吉は?」
「十六になつたばかり、眠いのと食べたいだけの年頃ですが、不思議に目ざとい子で、
「あとで、その佐吉とかいふ小僧さんに逢つて見よう、ところで、若旦那は窓の中で自分で首筋を切つて死んでゐるのに、窓の外から庭へかけて、ひどく血がこぼれてゐるのはどういふわけだらう」
平次は
「私もそれに氣が附いて居りました、今朝早く若旦那の死んでゐるのを見附けたときから、此通りでございます、ことに、犬小屋に居た筈の
「その犬は何處に居るんだ」
「何處かへ行つてしまつたやうで、ちよいとお待ちを願ひます、癖の惡い犬ですから、見附けて參りませう」
喜三郎はそんな事を言つて、外へ出て行きました。
「ね、親分」
その間に八五郎は、平次の
「何んだ、何んか面白いことがあつたのか」
「面白いことばかりですよ、第一、此家のお孃さんといふのは、そりや大變」
「何が大變なんだ」
「十八になつたばかりといふのに、なか/\の確りもので、若旦那の柳吉は、手代の喜三郎に殺されたに違ひない――とはつきり言ふんです」
「フーム、たつた十八の小娘が、そんな大膽なことが言へるのかな」
「逢つて見て下さい、きりやうは大したこともないが、妙に
八五郎は一とかど女を知り拔いてでもゐるやうなことを言ひます。
「いろ/\うるさい事がありさうだな、兎も角、一應皆んなに逢つて見るとしようか」
平次も此邊で、定石通り運んで見る氣になつたのです。
主人の兵左衞門は二三日は容態が惡い上、養子の柳吉の變死で、すつかり興奮してしまひ、朝から内儀のお濱と、娘のお葉が附きつ切りで介抱して居りました。平次はわけを話して二人の女を遠ざけ、ほんの一寸だけといふ條件で、寢たまゝの病人と相對したのです。
「この通りの
兵左衞門はさう言つて、僅かに枕から顏を上げました。
「飛んだ人騷がせで、お氣の毒でしたね、――早速二つ三つ訊かして下さい」
「へエ、へエ、何んなりと、私の存じて居ることなら」
「養子の柳吉さんを、今日は親類會議を開いて、
「へエ、それに相違ございません、今日親類方に寄つて頂く筈でしたが」
「何んか氣に入らないことでもあつたので?」
「氣に入らないことばかりで御座います。死んだ者の事を惡く言ふやうですが、
「それ丈けのことで」
「それから一番いけないのは、店の金を三百兩ほど持出して、私にも相談をせずに、實家の仕事に
「成程、さう言ふものですかね」
「養子の柳吉を
「そのお孃さんは、
「私の看病には、娘が一番で、これは家内もうまく行きません、氣分のひどく惡い時や、一と晩寢つかれない時は、氣の毒だが、娘に
「いや、よくわかりました、ではお大事に」
平次はそんな事で切上げる外は無かつたのです。
病間を出ると、薄暗い廊下で、誰やら小手招きして居ります。それに
「お孃さん?」
「内證で申上げ度いことがあるんです、聽いて下さるでせうか、錢形の親分」
お葉は少し息を
「お孃さんは、
「え、何處へも出られなかつたんです、父の病氣も惡かつたけれど、私が逃出さうとするのを
「逃げる?」
「え、私と柳吉さんは、
「それは、本當か、お孃さん」
平次も大方は察し、喜三郎の言葉にもそれは匂ひました。前後の樣子を考へると、娘の飛躍的な言葉も、決して出鱈目とは言へません。
「明日の親類方の寄合で、あの人は追出されるにきまつて居ます、私が何んと言つても通ることではございません、――坂田屋の
張り詰めた氣もゆるんだか、お葉はシクシクと泣くのでした。氣象者らしい娘が、意氣地もなく
「それで、いろ/\の事がわかつたが、柳吉を殺したのは、喜三郎に違ひないと、お孃さんは言つた相ぢやないか」
「申しました、全くそれに違ひないのです。――あの人は怖い人です、母さんの遠縁で、この家の跡取をねらひ、柳吉さんを追出しにかゝりましたが、私がどうしても柳吉さんを諦らめないので、たうとう柳吉さんを殺してしまつたに違ひありません。あの人を縛つて下さい、親分」
お葉は必死と
「親分さん、何んか御用で?」
内儀のお濱は縁側に膝をつきました。三十そこ/\の
「若旦那の柳吉さんは、お孃さんとしめし合せて、昨夜此家を逃出す氣だつた相ですね」
ズバリと言つてのけると、
「私もそれを心配して、一と晩あの
内儀は驚く色もなく、斯う自然に答へるのです。
「私の家へ、あんな手紙を屆けたのは、どういふわけでした」
小菊に書いた、
「最初、娘と柳吉と、二人で逃出す相談があるとは氣がつかず、柳吉の樣子が變なのと、何んとなく果し
お濱はしをらしく首を
それから平次は、小僧の佐吉を搜して、漸く物置に居るのを見附けました。
「ちよいと、聽き度いことがあるが」
「へエ、どんなことでせう」
十六の中僧と言つて良い位、あまり
「お前は
「へエ、――まだ
「夜中に起きなかつたのか」
「私は起きませんが、番頭さんはお腹が惡いとかで一度起きたやうです、でも、私は一度目を覺したけれど、直ぐ
「夜中に犬は
「氣がつきませんよ」
「あの犬は
「外の者にはよく吠えますが、若旦那と番頭さんと私にはよく
「何處に居るんだ、お前は知らないか」
「夜は
「犬を縛つてある綱が變つて居たのか」
平次は何やら考へて居ります、が、丁度その時、
「錢形の親分、――妙なものが見附かりましたが」
番頭の喜三郎は、事あり氣に飛んで來たのです。
「?」
「裏の荒物屋の
「
「しかも血と泥に
手に取つて見ると、長々と
「あツ、今朝犬を
小僧の佐吉は
「こいつは一體どういふわけでせう親分」
その後ろから
「曲者は、若旦那を殺した後で、血のついた匕首を、犬を縛つた紐に結んだわけだ」
「どうして、そんな事をしなきやならなかつたんでせう」
八五郎は尚ほも追及しました。
「得物を隱したかつたのかな、犬を繋いだ紐に結んで置くと、犬は何處かに持つて行くに違ひない、――それにしても鞘を取つて置いたのはどういふわけだ」
この
「親分、素人
番頭の喜三郎は恐る/\顏を出しました。
「宜いとも、思つたことがあるなら、遠慮をせずに話してくれ」
「それでは申しますが、若旦那は、お孃さんと夜逃げの約束をしたが、何時まで待つてもお孃さんが來なかつたので、お孃さんが心變りをしたものと早合點し、明日の親類方の御相談のことも考へて、フラフラと死ぬ氣になつたのぢやございませんか」
「?」
「その證據は、匕首は若旦那の品で、犬を縛つてある紐も、太くて丈夫なのを止して、細くて引けばすぐ切れさうなのと變つて居ります、それから――」
「?」
「若旦那を殺した下手人が外にあれば、刄物なんか、隱したければ自分で持つて逃げるか、すぐ前の
喜三郎の智惠の
「若旦那がどうして、そんな細工をしなければならなかつたのだ?」
「私を下手人にし度かつたのでございませう、若旦那は私が憎くてたまらなかつたのです、――この家を追ひ出されるのも、私のせゐだと思ひ込み、坂田屋の身上も、お孃さんのお葉さんも、私に
喜三郎はホツと大きく
後ろの障子が動いたやうです。チラリと人の影がさしました、娘のお葉も、其處で默つて聽いて居たに違ひありません。
平次はそれつ切り本所を引あげてしまひました。八五郎は不服らしい顏をして居りますが、若旦那の柳吉が自害したのだとわかると、誰を縛りやうもありません。
「あれで良いのですか、親分、あつしには
時々は思ひ出したやうに、平次に訊ねましたが、
「いや、――時節を待つ外はあるまいよ」
平次の
それから暫く經つと、相生町の坂田屋で、新しく養子がきまつたといふ噂が傳はりました。その養子――行く/\は娘のお
「親分、大變なことを聽き込みましたよ」
八五郎が飛込んで來たのは、それから又一月も後のこと、世の中はもう晩春――初夏といふすが/\しい時分のことです。
「どうしたんだ、八」
「こいつは本物の大變ですよ、坂田屋の
「何んだと?」
平次にもそれは豫想外でした。富貴と美人と一緒に手に入れた喜三郎が、祝言の前の晩自害するといふことは、どう考へたところで承服の出來ないことです。
「行つて見よう、そいつは何んか曰くがありさうだ」
「果報過ぎてフラフラと死ぬ氣になつたんですね、親分」
「人間は果報過ぎて死ぬものかな」
「さうでせうか」
二人が相生町の坂田屋につくと、店は重なる不幸にごつた返して居りましたが、店を入ると、もう一度、娘のお葉が、チラリと姿を見せて、何處かへ隱れてしまひました。
「これは、錢形の親分、飛んだお騷がせをしますが、今度は間違ひもなく、喜三郎が自分で毒を呑みましたんで」
迎へた番頭の
「兎も角も、佛樣を一と目見たいが」
「へエ宜しう御座いますとも、どうぞ此方へ」
喜三郎の死骸は入棺して内儀のお濱が線香などをあげて居りましたが、平次と八五郎の姿を見ると、ツイと縁側へ出てしまひました。
「死ななきやならない事でもあつたのかな」
「飛んでもない、明日はお孃樣と、
「?」
「主人がやかましくて、此家ではそんな
「
「お孃樣が、何彼と明日のことを相談して居たやうです、花嫁花婿と言つても、内輪のことですから、遠慮はありません」
「そのお孃さんの見て居る前で死んだことだな」
「へエ、まア、そんなわけで」
「そのお孃さんに逢ひ度いが」
「先刻、親分さん方の顏を見ると、あわてゝ、二階の御自分の部屋へ行つたやうで――」
「それ行つて見ろ」
平次と八五郎は二階へ飛び上りました。いきなり障子を開けると、正面の
取おろして介抱すると、幸ひ早く手が廻つたので、間もなく息を吹き返し、不思議さうに四方を見廻して居ります。
「お孃さん、心配することは無いぜ、二人の
平次は驚いて飛んで來た繼母のお濱にお葉を引渡すと、八五郎を促して、本所の往來へ、呑氣さうに踏出すのです。
× × ×
「親分、これで宜いんですか、ね、親分」
八五郎は後から追つかけます。
「宜いんだよ、
「喜三郎は本當に自害したのでせうか」
「いや、そんなことがあるものか、喜三郎は殺されたのだよ」
「へエ?」
「誰にも言ふな、最初若旦那の柳吉は、手代の喜三郎に殺されたのだ。犬の
「へエ」
「首尾よく俺を言ひくるめた積りで居たらしいが俺は
「へエ、あの娘がね」
「あの娘は氣象者だ、それ位のことはやり兼ねないが、俺が坂田屋へ行つたのを見ると、さすがに氣がとがめて、死ぬ氣になつた」
「それぢや、あのまゝ許してやるわけで」
「許しやしないよ俺は――この錢形平次は何にも氣が附かなかつたのさ、柳吉の死んだのは自殺、喜三郎の死んだのも果報負けの自殺」
「お葉が首を
「許婚が二人死ねば、若い娘はそんな氣にもなるだらうよ」
「へエ、
「呆れついでに一杯つき合へ、今日は幸ひ少し持つて居るよ」
平次はさう言つて、