「親分、變な事があるんだが――」
ガラツ八の八五郎が、鼻をヒクヒクさせ乍ら來たのは、後の月が過ぎて、江戸も冬仕度に忙しいある朝のことでした。
「手紙が來たんだらう、恐ろしい
金釘流で、――兩國の
蟹澤のお銀が死んだのは唯事ぢやねえ。
葬ひの濟まぬうち、檢屍を頼む――と
斯う書いてある筈だ」
錢形の平次は粉煙草をせゝり乍ら、少し節をつけて言ふのでした。
「親分は、どうしてそれを?」
ガラツ八は眼を圓くし乍ら内懷を探つて居ります。
「千里眼だよ。八五郎の懷中などは
悉く見通しさ。その手紙の入つて居る大一番の野暮な紙入の中に、
質札が二枚と、一昨日兩國の
獸肉屋で掻拂つた
妻揚枝[#「妻揚枝」はママ]が五六本、それから
寛永通寶が五六枚入つてゐる筈だ。大膽不敵だね、それで江戸の町を押し廻すんだから」
「ど、どうしてそんな事が分るんです、親分」
ガラツ八の眼の色が少し變ります。
「八五郎さん、
騙されちやいけませんよ。此處へもそんな手紙が來たんですよ」
お靜はたまり兼ねてお勝手から助け舟を出しました。
「なんだ、つまらねえ。それならそれと、
冒頭つから言へば宜いのに」
「種を明かしちや、どんな手品だつてつまらなくなるよ。――ところで、蟹澤一座のお銀といふのをお前は知つて居るのか」
錢形平次は
漸く眞面目な話に
還りました。
「江戸中で知らないのは錢形の親分ばかりだ。兩國一番の人氣者で、いやその綺麗なことと言つたら」
「馬鹿だなア、
涎を拭きなよ。兩國の
輕業小屋の女太夫に夢中になつて、立派な御用聞が毎日通つちや見つともないぜ」
「毎日は通ひませんよ、精々三日に二度」
「呆れた野郎だ。それほど
執心なら飛んで行くが宜い。お前が顏を見せなきやお銀も浮ばれまい」
「だから親分も行つて下さいよ。兩國は石原の利助親分の繩張りだが、利助親分は相變らず床に就いたつ切りで、可哀さうにお品さんが獨りで氣を揉んでゐる」
「お品さんのせゐにして、俺をおびき出す氣だらう。まア宜いや、行つて見よう」
「有難てえ」
ガラツ八はいそ/\と先に立つて案内するのでした。
蟹澤一座といふのは、その頃軒を並べた兩國廣小路の見世物小屋の一つで、座主の
百太夫といふのは、大した藝ではありませんが、お銀、お玉の二人の娘太夫が評判で、その上品な美しさが、評判になつて居りました。
姉のお銀は十九か二十歳、歌が
巧みで、踊りの地もあり、身輕な藝は不得手ですが、水藝や小手先の手品、さう言つたもので客を呼び、妹のお玉の方は十六七、これは
輕捷な身體が
身上で、綱渡りから竹乘り、
撞木飛び、人のハラハラするやうな危ない藝當が得意でした。
お銀の優しく愛くるしいのに
比べて、お玉は色の淺黒い品の良い顏立ちで、姉妹といふ觸れ込みですが、どこかひどく違つたところがあります。座主の百太夫は
大袈裟な道化た調子で人を笑はせますが、大した藝のある男ではありません。四十がらみの、少し肥つて來た身體が、藝の邪魔をしてゐるのでせう。百太夫の女房お徳は、三十五六の達者な女で、これは三味線も掻き鳴らし太鼓も叩きのめし、下座の鳴物ひと通りは何でも間に合はせる調法者、青黒い
額に
疳癪筋がピリピリと動いてゐる種類の大年増です。
錢形平次と八五郎が行つたのは、もう晝近い頃、蟹澤の小屋は木戸を閉めて、裏には石原の利助の子分達が二三人、嚴重に見張つて居ります。
「錢形の親分、丁度宜い鹽梅でした。兎も角も死骸を持出すのを止めて置きましたよ。百太夫の家は緑町なんださうで、小屋から
葬ひは出し度くないつて言ひますが――」
「石原の兄哥のところへも、變な手紙が行つたんだね」
「それでやつて來ましたが、檢屍をお願ひしてありますから、追付け旦那方が見えるでせう」
「そいつは宜い工合だ。ちよいと檢屍前に見せて貰はうか」
平次は裏から小屋へ入つて行きます。
「錢形の親分さん、入らつしやいまし」
薄暗がりから、
大鹽辛聲を掛けたのは、木戸番の傳六といふ三十男でした。
澁紙色に
焦けてさへゐなければ、顏立も尋常ですが、手足と顏の外は、寸地も白い皮膚のない大
刺青の持主と後でわかりました。
平次一行の姿を見ると、
脅えたやうにコソコソと物蔭に隱れたのは、横幅の方が廣い怪奇な人間。これは萬之助と
[#「萬之助と」は底本では「万之助と」]言つて、
口上言ひの一寸法師です。もう三十五六にもなるでせうが、一寸見は十七八とも見える
幼顏で、舞臺へ白粉をつけて出るのが、何よりの樂しみと言つた、不思議な好みに
引摺られて、ほんの
食扶持だけで此の小屋に
雇はれて居ります。
「御苦勞樣で御座います、錢形の親分さん」
たつた一つしかない樂屋の大部屋に、
不味さうに煙草を喫んで居た座主の百太夫は、平次の姿を見ると、引つ掛けてゐた
丹前を滑らせて、それでも丁寧に挨拶するのでした。小肥りの
強かさうな面魂ですが、舞臺から客を笑はせ馴れてゐるので、何處か
小悧巧らしい愛嬌のある男でした。
「お銀が死んださうぢやないか」
「そのことで、
落膽して居ります。この小屋に取つては大事な
米櫃で、へえ」
「死に樣が變だといふ話だが――」
「
自害で御座いますよ、親分さん。なんだつて死に度くなつたか、
あつしには見當もつきませんが、死にやうに事を
缺いて、自分で舌を噛み切つたんで、へえ。早速お屆けをするとよかつたんですが、小屋にケチがつくと、暫くは居喰ひをしなきやなりません、ツイその――」
百太夫の辯解は大分苦しさうでした。
お銀の死骸はその隣の小さい部屋に寢かし、百太夫の女房のお徳と、お銀の妹のお玉が側に附いて居ります。
平次は丁寧に線香をあげて、さて死骸の顏を
覆ふ
布を取りました。
「――」
ハツと平次も息を呑んだほどのそれは凄じさです。肉付の豊かな通つた鼻筋も、反り加減の唇の
弧線も、夢見るやうな
霞んだ眉も、美しいには相違ありませんが、
蝋のやうな青白い顏は、恐怖と苦痛に
歪んで、二た眼とは見られない痛々しい表情です。それに舌を噛み切つたといふにしては、口中に大した
脹れもなく、唇を開けさせると、少しばかりの血溜りはありますが、舌の傷はさしたるものとも思へません。
「髮が
濡れてゐるやうだが?」
平次は
鬘下に結つた、死骸の頭のあたりを
撫でて居ります。
「少し
汚れて居りますので、これに洗はせました」
百太夫は死骸の足の方に、泣き疲れて
俯向いたお玉の方を指しました。これはお銀の妹にしては、色も淺黒く、柄も大きい娘ですが、顏立ちは非常に立派で、名ある
歌舞伎役者にも比べられるでせう。
尤も力業にも似た輕業をするだけに、骨組肉付は、若い娘にしては思ひ切つた見事さです。
「お前はお玉といふのだな」
「え」
「お銀とは本當の姉妹か」
「え」
「生れは何處だ、――親はどうしてゐる」
「生れは相州の
厚木在で、兩親とも早く
亡くなりました」
少し太いが、張りのある良い聲です。
「お銀は何時何處で死んでゐたんだ。よく訊き度いが」
「
昨夜此處がはねてから、此の部屋の中で死んでゐましたよ。皆んな緑町の家へ歸つた後で、お玉が見付けて大騷動になつたんです」
まくし立てるやうに、横からお徳は説明しました。
疳癪筋が青黒い大年増は、恐ろしい達辯の持主で、しやべり始めるととめどがありません。
「舌を噛んだにしては、血が少ないやうだが」
平次は何よりそれが怪しいと睨んだのでせう。床の上にも、疊の上にも、
夥しかるべき血の
痕などは一つも殘つては居なかつたのです。
「皆んな
拭いてしまひました。この娘はよく屆く娘で――」
お徳はまたお玉を指しました。
「その時小屋に殘つて居たのは誰と誰だ」
「皆んな居た筈ですが、不思議なことに一人も居なかつたさうです。お玉は隣りの小屋の人を頼んで、緑町の家へ知らせてくれました。緑町へ歸つたばかりの私と主人が驅け着けると、其の邊で一杯引つかけてゐた傳六も、フラフラ歩いて居た萬之助も歸つて、間もなく皆んな顏が揃ひました。その時はもう
戌刻半過ぎだつたでせう」
お徳はまた
奔流のやうに
捲し立てます。
「お前と百太夫とは、緑町の家へ一緒に歸つたのだな」
「いえ、私が先でした。小半刻ほどして主人が歸ると、間もなく小屋からの使です」
「傳六は何處で呑んでゐたんだ」
「横町の
叶屋です。お訊きになればわかります。へえ」
傳六の鹽辛聲は、後ろの方から響くのでした。ガラツ八は早くもそれを確めに行つた樣子。
「萬之助は?」
「外をフラフラ歩いてゐたさうです。あの人は陽のあるうちは決して
戸外へ出やしません。人立ちがして叶はないつて言ひますよ。だから、
梟みたいに夜遲くなつてから、フラフラと外へ出る癖があります。――あの身體ですものねえ」
一寸法師の萬之助が、日の光を嫌ふのも
尤もですが、さう言ふお徳の調子にはひどく小意地の惡い響がありました。
後は
悉く狩り集めた臨時の男女で、此の事件にさしたる關係があるとも覺えません。
「お玉はズーツと小屋に殘つて居たのか」
「いえ、お玉は日が暮れると身體が明きます。ひと風呂
樂屋風呂を浴びて、
酉刻少し過ぎに緑町へ歸つたが、姉の歸りが遲いので、私と入れ違ひに
戌刻時分に迎へに來ましたよ」
「途中で小屋から歸る百太夫に逢つた筈だが――」
平次はこの複雜な人間の出入りを、頭の中で
組織立てて考へて居る樣子でした。
「お前は何時ものやうに
相生町から河岸ツ縁を歸つたらう」
今迄默つてゐた百太夫が口を容れました。
「いえ、松坂町の路地を拔けて來ました」
とお玉。
「さうだらう、俺は相生町から河岸ツ縁を歸つたが、逢はなかつたもの」
さう言へば成程そんなものでせう。
「ところで、小屋の中を見せて貰ひ度いが」
「へえ――、どうぞ」
百太夫が案内して、舞臺から客席、樂屋、風呂場と見せてくれます。
「贅澤な風呂場だな」
「時々は芝居の眞似事もしなきや、お客樣が喜んで下さいません。へえ」
百太夫は極り惡さうに首筋を掻きました。その頃輕業小屋で芝居をすることなどは、嚴重な禁制だつたのです。
「風呂の
蓋にほんの少しだが血が附いて居るやうだな」
と平次。
「先刻、お銀のものをいろ/\洗ひましたが」
それは苦しさうな辯解ですが、平次は別に追及しようともしません。
近所の
噂を掻き集めると、いろ/\の事が分つて來ました。第一番に何と言つてもお銀の美しさが問題の中心で、一座の傳六が夢中になつて居ることや、百太夫までが變な態度をするので、女房のお徳が氣が
揉める話など、噂の種は際限もありません。
その中でお銀と仲の惡いのは一寸法師の萬之助だけで、これはどうせ相手にされないと分り切つて居るせゐか、お銀の機嫌を取らうとするでもなく、時々は一座の花形へ皮肉な惡戯をして、ひどく妹のお玉に怒られたりすることもありました。
「ところで親分、
下手人があるでせうか」
歸る道々、ガラツ八はたまりかねて平次の
脈を引きました。
「お前はどう思ふ」
逆襲する平次。
「檢屍までもなく、あれは自害ぢやありませんね」
「その通りだよ。あの顏は自害した人間の顏ぢやない。自害した人間の顏は、どんなに惡相でも、觀念したところのあるものだ。――あの美しさで、あの凄い形相は――」
平次もさすがに
固唾を呑みます。
「舌を噛んだといふのも變ですね」
「人間はあれ位のことぢや死に切れるものぢやない、第一いくらも血が出てゐないぢやないか――
尤も風呂の
蓋には少し血が附いて居たが」
「髮も
濡れてゐましたね」
「あれに氣が付いたのか。尋常の濡れやうぢやなかつた。――耳の穴を見たか」
「いゝえ」
「中に少し水が溜つて居た」
「へえ――」
「それからもう一つ、變つたことがあつた筈だ。氣が付いたか、八」
「さア」
ガラツ八の八五郎は頻りに首を
捻りましたが、此のうへ少しも思ひ當る節はありません。
「もう一度小屋へ歸つて見て來るが宜い」
「何を見るんで?」
「
種を明かしちや、手品はつまらなくなるよ。何か變つたことがあつたら、それを
とことんまで搜し拔くんだ」
「へえ――」
「俺は出直さうと思つたが、こいつはお前の智慧に任せよう。やつて見るが宜い」
「さア分らねえ」
「此處で首を
捻つたつて、何にもならないよ。もう一度あの小屋へ歸つて、檢屍に立會つて見るんだ」
「へえ――」
「念のために言つておくが、あの妹娘に氣をつけろ。お玉とか言つたな」
さう言ふ平次の背後姿を眺めて、ガラツ八は
怨めしさう立つて居ります。
その晩。
「親分、分つたやうで少しも分らねえ」
ぼんやり歸つて來たガラツ八は、
大袈裟に腕などを
拱いて、平次の前へシヨンボリ坐るのでした。
「何が分つたんだ。先づそれから聽かうよ」
平次は何時になく膝などを乘出します。この報告が餘つ程待ち遠しかつた樣子です。
「死骸の着物は
左前に着せてあつたでせう」
「それだよ、八」
「檢屍の役人は何にも言やしませんよ。佛樣の着物は左前に決つて居るんですね」
「それは
經帷子だ。お銀は死んだばかりで、まだ
湯灌も濟んぢやゐない。舞臺で着る赤い振袖の襟を、左前に合せるのは變だらう」
「
あつしもさう思ひましたよ」
「赤い振袖を左前に着て舌を噛み切るのは、何の
禁呪なんだ」
「それが分らないんで」
「お玉に當つて見たか」
平次は質問の方向を變へました。
「いろ/\訊いて見たが、あの娘は片意地だ。何にも言やしませんよ」
「本當に何んにも言はなかつたのか」
「たつた一と言、
斯んなことを言ひましたよ。――何にも
訊かないで下さい、今晩中には何も彼も分ることですから――つて」
「今晩中には分る? ――本當にさう言つたか、八」
「それから、
天道樣は無駄には光らない、つて言つたやうで」
「困つたことになるぞ、八」
「何が困るんです」
「お前はこれから直ぐ兩國へ引つ返して、お玉を此處へ連れて來てくれ」
平次は大變なことを言ひ出しました。
「お玉をつれて來てどうするんです」
「何でも
構はない、平次が話し度いことがある、とか何とか、宜い加減のことを言つて連れて來るが宜い。どうしても來なきや、十手に物を言はせるんだ。八五郎の懷中に、そんなものが
伊達に突つ張つてるわけぢやあるめえ」
「やつて見ませう」
「人間一人の生命に
關はることだ、宜いか」
「大丈夫で」
八五郎は大きく胸を叩くと、もう一度兩國へ取つて返しました。
八五郎がお玉をつれて來たのは、それから一
刻ほど經つた頃、やがて
亥刻近い時分でした。
「さア、素直に入れ。あんまり剛情を張ると、俺は十手に物を言はせなきやならねえ」
門口で又ひと
揉みするのを、
「八、手荒なことをしちやならねえ。お玉の心持は、俺にはよく分つてゐるつもりだ。氣の毒なことに、お銀に死なれて
がつかりしてゐるんだ」
錢形の平次はそんな調子で手を取らぬばかりに、お玉を
誘ひ入れました。
派手な
輕業の太夫に似氣なく、
汚れ
腐つた木綿の
袷に、赤い帶を無造作に締めたその晩のお玉は素足に
長刀草履、髮も、形も、
つくろはぬまゝに荒んで、激しい怒氣を含んだ顏には、日頃の美しさとは似てもつかぬ凄じい氣組が
漲ります。
「先づ其處に坐れ。――お靜、湯でも茶でも持つて來てくれ」
「――」
平次の穩かな調子にいくらか怒氣を
挫かれたものか、お玉はヘタヘタとしてその前に坐りました。
「それから、その
匕首は俺が預かつて置かう。腹を立てて刄物を持つてゐるのは、決して宜いことぢやない」
「――」
お玉は平次の顏をジロリと見ましたが、言葉の柔かさに似ず、その表情の決然たるのを見ると、懷中から
匕首を取出して、
鞘ごと默つて平次の前に押しやりました。
「それでよし。――ところで、
昨夜のことを此處で打明けて話して見る氣はないか。――それはいやだといふのか。
金輪際打ち明ける氣はないと言ふつもりだらう」
「――」
頑固に口を
緘むお玉を、
撫めるやうな調子で平次は續けました。
「それぢや、俺が代つて話してやらう。――昨夜、姉の歸りが遲いので、お前は心配して緑町からもう一度兩國の小屋へ引返したと言つたな。小屋へ行つたが、中には誰も居ない。百太夫夫婦も、傳六も、萬之助も、
肝腎のお前の姉も見えない。お前は空つぽの小屋の中を搜して風呂場へ入つた、――と、風呂の
蓋を半分ほど上げて、湯の中に人間が入つてる。見るとそいつはお前の姉のお銀だつた。お銀は死んでゐた」
「――」
お玉はゴクリと
固唾を呑みました。
「少し舌を噛んで、口から血は引いてゐたが、それは風呂に入つてゐるところを、いきなり上から蓋をされて、苦しまぎれに
噛んだ傷だ。お銀は風呂の中で
溺れ死んでゐたのだ。――風呂の中で病氣を起して
頓死をしたのなら、自分で蓋をしてゐる筈はない。お銀を殺した下手人は、恐ろしく惡智慧のある人間だが、さすがに、人一人殺してあわてたと見えて、風呂の蓋を取るのを忘れて逃げたんだらう」
「――」
「姉の淺ましい姿を見ると、お前は夢中になつて風呂から引上げ、ろくに身體も拭かずに、其處にあつた赤い振袖を着せ、あの小部屋に抱いて來て、手當をしたが、お銀はどうしても生き
還らなかつた。そこでお前は、隣の小屋の留守番に頼んで緑町へ知らせてやつた」
「――」
「どうだ、それに違ひあるまい。――ところでお前は、姉を殺した
下手人はよく分つてゐる筈だ。誰だ、それは」
「――」
お玉は相變らず頑固に默り込んで居ります。
「お前は
匕首まで用意してゐる。――が、よく考へて見るが宜い。姉の下手人を殺せば、お上への言ひわけは立たない。姉の下手人が誰といふ、はつきりした
證りが立たないのに、うつかりした事をすると、お前は
唯の人殺しにされてお
處刑になるかも知れない。――姉のお銀を殺したのは誰だ」
「證據がない」
ぶつ切ら棒に言つたお玉。その聲は悲しみと怒りに
嗄れて、ひどく陰慘でした。
「證據がないばかりに、姉の下手人が分つてゐても、お上に引渡せない。それでお前はその下手人を殺さうと言ふのだな」
「――」
お玉はうなづきました。
「それは無法だ。若し間違つたらどうする」
「間違はない」
お玉は
頑なに頭を振るのです。
「それぢや此處で考へて見よう。證據がないと思ひ込んでも、下手人は飛んだところに
足跡を殘して居るかも知れない」
錢形平次は、お玉を相手に始めました。お玉はそれを
輕蔑し切つた樣子で、冷然と眺めて居ります。
「お銀を殺しさうなのは先づ四人ある。一人は
口上の萬之助、二人目は木戸番の傳六、三人目は主人の百太夫、四人目はその女房のお徳だ」
錢形平次は
委細構はず續けるのです。その前に八五郎はもう一度兩國へ樣子を見にやられ、平次の女房のお靜は、
行燈の側へ來て、二人の話を氣遣ひ
乍ら、
更くる夜も構はず、何やら冬仕度の仕事をして居ります。
「――お徳は百太夫より半刻も前に緑町へ歸つて居る。風呂場でお銀を殺す暇はない。お銀を憎んでゐることはお徳が一番だが、どう考へてもこれは下手人ではない。それから木戸番の傳六は、日頃お銀を追ひ廻して居たやうだが、
輕業がはねる前に身體が明いて、横町の
叶屋で
樽天神を極め込んでゐる。これは多勢の人が見て居るから、お銀を殺す暇はなかつた筈だ」
「――」
平次の
系統立つた説明を聽くと、お玉の冷たい瞳が、次第に活氣を帶びて、頬は恐ろしい忿怒に燃えます。
「――殘るのは主人の百太夫と一寸法師の萬之助だ。萬之助とお銀は互に敵同士みたいに仲が惡かつたさうだ。萬之助は負け惜しみが強くて
皮肉で、お銀の樣子が
癪に觸つてたまらなかつたんだらう。――美い女は大抵
高慢で人を人とも思はない。お銀もさうだつた。――だがそれは表向で、萬之助の腹の中は、お銀が好きで/\たまらなかつた。萬之助は負け惜しみが強いから、自分の身體に耻ぢて、口にも出さず、素振りにも見せなかつたが、腹の中では毎日泣いて暮して居た。萬之助の日頃の樣子――わざとらしい皮肉や意地惡や、
先刻お銀の死骸を見た眼の恐ろしい惱みは唯事ではない。その萬之助は、暗くなると、自分の心のやり場がないので、氣狂ひのやうになつて外を歩いた。
昨夜も外を歩いてゐたといふが、誰にも逢つた樣子はなく、誰も見た者はない。風呂場に隱れて居て、お銀を殺さないとは限らない」
「――」
「百太夫は主人だが、多分金づくで無理にお前達姉妹を、コキ使つて居るんだらう。傳六に訊くと、百太夫はお銀に無理な藝をさせようとしてゐたさうだ。若い女には、我慢の出來ない耻かしい藝だつたと思ふ。――それが嫌なら俺の
妾になれと言つてゐたさうだ。これは傳六の言葉だが
嘘ではあるまい。お銀はそれを頭から斷り通してゐた。その上お前達姉妹が借りた金も大方返した筈だし、お銀とお前は近いうちに、あの
蟹澤の一座から飛び出して、故郷の
厚木へ歸るつもりだつた。――その通りだらう。これはお徳に聽いたのだ」
「――」
「百太夫は死物狂ひになつて、お銀を引留めようとした。お銀はどうしても聽かない。そこでフラフラ殺す氣になつた――どうだ、それも本當らしいだらう。それからお前が緑町から兩國へ引返したとき、どの道を通つたと訊いたのは百太夫だ。お前が松坂町の路地を通つたといふと、――俺は
相生町の河岸ツ縁を眞つ直ぐ歸つた、だから逢はなかつた――と言つた。實はあの時百太夫はお銀を殺して、まだ小屋の中でマゴマゴして居たのかも知れない。
疑ひがかゝると困るとか何とか言つて、女房と口を合せて、大分前に歸つたやうな事を言つてるが、そんな
細い細工をするのは身に覺えのある奴に限つたことだ」
「――」
「何方だ、萬之助か、百太夫か、お前の姉を殺したのは?」
「證據がない」
お玉の答は相變らずうめくやうです。
その晩平次とお靜は
殆んど寢ずの番をさせられて了ひました。彈み切つた少女お玉は、兎もすれば飛び出して、兩國へ歸らうとするのです。
兩國へ
還つたら最後、その晩のうちに、もう一つ
血腥い事件が起らずには濟まないでせう。若しそれが相手を間違つたとしたら、それこそ取返しのつかぬ事になるでせう。
運よくお玉の感が當つて、姉のお銀を殺した、本當の下手人を殺したとしても、證據がなくては言ひ分が立たず、この純情な娘は自分の命を棒に振るのが精々です。
大骨折の一夜は
漸く明けました。
「あツ、あの人が、何處かへ行つてしまひましたよ」
お靜の聲に驚いて、顏を半分洗つた平次は井戸端から家の中に飛び込みました。
「どうした、何處へ行つた」
そんな事を言つたところで追付きません。お玉は
僅かの
隙を狙つて、
逸り切つた
奔馬のやうに、兩國へ驅け戻つたのでせう。
平次は直ぐ後を追ひました。が、輕業娘の
輕捷さには及ぶべくもなく、汗みどろになつて兩國へ
辿り着くと、
「あツ、親分、大變ツ」
蟹澤の小屋の裏口に迎へたのはガラツ八の八五郎です。
「どうした、八」
「遲かつた、親分。到頭殺されましたよ」
「誰が、誰に」
ガラツ八を押しのける樣にして飛び込むと、一昨夜の
慘劇のあつた風呂場の流しに、これは着物を着たまゝの百太夫が、紅に染んで死んでゐるではありませんか。
その側に
呆然と突つ立つてゐるのは、なんと、ツイひと足先に此處へ來た筈のお玉。
「お玉、何といふ事をするのだ」
「親分、私ぢやありませんよ。でも、姉を殺したのは此奴です、私にはよく分ります」
百太夫の死骸を指すお玉には、何のうろたへた樣子もなかつたのです。
「親分、百太夫を殺したのは、お玉ぢやありませんよ。あの一寸法師ですよ。萬之助の野郎ですよ」
「?」
錢形平次はガラツ八の言衆を、夢心地に聽きました。江戸開府以來の名御用聞も、この時ほど馬鹿々々しい思ひ違ひをしたことはなかつたのです。
× × ×
間もなく萬之助の死骸は、兩國橋の下から
揚りました。お銀の
怨を晴した純情の一寸法師は、自分から身を投げて死んだことは言ふまでもありません。
「今度ばかりは親分も見當違ひをしたでせう。百太夫を殺したのをお玉と思ひ込んだ親分の顏は、全く忘れられませんよ」
ニヤニヤするガラツ八です。
「全く一言もないよ。それといふのも、最初お銀を殺したのが、百太夫か萬之助か、どうしても分らなかつたせゐだ。――だが萬之助はあの通り身體が小さいから、たとへ女一人でも、風呂へ入つてるのを上から
蓋をして、死ぬまで押へて居る力はない。それに氣が付かないばかりに、ひと晩無駄な苦勞をしたよ」
「へえ。――親分でも氣のつかない事があるんですか」
「だがな、八。俺にも隱してある役札がもう一枚あるよ。それは、大した事ぢやないが、お玉は女ぢやないと
看破つたことさ」
「へえツ、冗談ぢやありませんか、親分」
「あれは
確かに男だ。――十六かな、十七位かな、兎に角女の子ではない。女の子なら人形遊びで
馴れてゐるからどんなにあわてても左前に着物を着せる筈はない。それにお玉は綺麗ではあるが男顏だ。多分百太夫の智慧だらうと思ふが、男の子を女に仕立てて、
激しい藝をさせて人氣を取つたんだらう。それにお銀ときやうだいといふのも
嘘だらう、顏がまるつきり似てゐない」
お玉の激怒の中には淡い戀の
潜んでゐるのを平次は見逃さなかつたのです。