「親分、旅をしませんか、良い陽氣ですぜ」
ガラツ八の八五郎はまた
斯んな途方もないことを持込んで來たのです。梅の花はもう
梢に黄色くなつてゐるのに、今年の二月は妙に薄寒くて、その日も
行火の欲しいやうな曇つた日でした。
「旅? 又なんか嗅ぎ出したんだらう。物見遊山には早いし、
後生氣や金儲けで
草鞋をはく
柄ぢやなし」
錢形平次は煙管を投り出して、天文を案ずる型になるのでした。
「お察しの通りだ。實はね、親分、川崎の
小牧半兵衞が殺されたんで――」
「なんだと? そいつは川崎切つての大金持ぢやないか」
「公方樣お聲掛りの家柄だ。この
下手人を擧げなきや、土地の御用聞の顏が立たねえ。錢形の親分の引込思案は
豫て承知の上だが、其處をなんとか乘出して貰へまいか――と川崎の孫三郎親分から
態々の手紙ですぜ」
「そこで旅をしろ――といふのか。川崎や品川ぢや旅といふほどの遠道ぢやあるめえ。ところでお前は孫三郎親分を知つて居るのか」
「知つてゐるの段ぢやありません。去年友達と江の島へ行つた歸り、川崎の萬年屋から使ひをやつて、旅籠代と小遣を借りましたよ。十手の
誼みでね」
「飛んでもねえ誼みだ、それは返したんだらうな」
「綺麗に忘れてゐましたよ。――今朝孫三郎親分から手紙を貰つて、その
とたんに一年前の借りを思ひ出したんで、へツ」
「
呆れた野郎だ、いくら借りたんだ」
「二朱か一分ありやよかつたんで、さう言つてやると、孫三郎親分は自分でやつて來て旅籠屋の諸拂を濟ました上、その晩うんと飮んで江戸へ歸る路用が三兩――」
「川崎から江戸へ行列を組んで八枚で飛ばしたつて、三兩要るわけはねえ。それを默つて借りて來たのか」
「へエ、ツイね、借金に
剩錢は出せねえからそのまゝ」
「馬鹿野郎」
平次もポンポン言ひましたが、ガラツ八の
徹底した呑氣さには腹を立てる張合もありません。
併しこんな事がきつかけで、江戸の御用聞の平次が、八州役人の支配してゐる、川崎まで乘出すことになつたのでした。
錢形平次と八五郎が、兎も角、土地の御用聞川崎の孫三郎の家に
草鞋を脱いだのは、その日ももう
申刻近い刻限でしたが、中年者の孫三郎は、下へも置かぬ喜びやうです。
「錢形の親分が來てくれゝば千人力だ。弱音を吐くやうだが、
小牧の旦那が死んぢや、いづれ公儀の御耳に入るだらうし、三日經たないうちに
下手人を擧げるやうにと、宿役人からも折入つての頼みだ。――どうも俺一人ぢや心配でならねえ。
忙しいのを百も承知で、實は八五郎
兄哥にお願ひしたやうなわけさ」
そんな事を言ふ四十男です。
やがて平次と八五郎は、孫三郎に案内されて、小牧半兵衞の大きな屋敷。――本陣と向ひ合つて、川崎宿の名物の一つになつてゐる門を
潜りました。中は小大名の下屋敷ほどの構へで、その一番小さいのが金藏で、主人の半兵衞は昨日の朝、その中で殺されてゐたのです。
「これだよ」
三間に四間ほどの一番小さくて一番嚴重な土藏は、
母屋から廊下傳ひに續いて、其處には
夥しい金銀と、數代に
亙つて
貯へた
骨董類が入れてあるのですが、三重の扉を開くとムツと
腥氣が漂つて、一歩踏み込んだ孫三郎も、思はず足を淀ませました。
「――死骸は檢屍が濟んで、昨日の中に
母屋へ移したが、小牧の旦那が此の中でやられたんだ。
手燭を斬り落されてゐるところを見ると、後ろから飛かゝつたやつでもない――」
孫三郎は
陰慘な土藏のなかで續けるのでした。
「聲はしなかつたのかな」
と平次。
「誰も氣が付かなかつたさうだ。
一昨日の晩夜中近い頃、母屋の
此方寄りの部屋――土藏に一番近いところに寢て居る主人が、變な物音がするやうだと言つて、寢卷の上に
袢纒を引つかけて、手燭を持つて自分で見廻りに來たんださうだ。年のせゐか寢つきの惡い上に、恐ろしく目ざとい人で、こんなことがちよい/\あると、お内儀が言つて居るが」
「刄物は持たなかつたのかな」
「なんにも持たなかつたらしい。それから
半刻經つても床へ歸らないから、お内儀が隣の部屋に寢てゐる娘――と言つてもこれは先妻の子だが、――お
優さんといふのを起して、二人で提灯を點けて、恐る/\來て見ると――」
「その時土藏の戸は開いてゐたんだらうな」
「半分開いてゐたさうだ。恐る/\提灯を差し込んで見ると、中は血の海だ。二人は腰を拔かすほどの騷ぎさ」
「傷は?」
「佛樣はまだ母屋にあるから、あとで見てくれ。前から三
太刀も斬り付けて、喉笛を刺したのが
止めになつて居る。いやもうひどいやり方で」
「盜られたものは?」
「なんにもないさうだ。――番頭さん、それに相違あるまいね」
「へエ――、それはもう、店からも土藏の中からも、一文も無くなつては居りません」
五十
年輩の老實らしい支配人の忠助は、何時の間にやら後ろへ來て居るのでした。
「道具類とか、書き物には?」
平次は初めてこの支配人に口をきゝます。
「旦那はそんなものはお嫌ひで、あまりお道具類をお集めになりません。それでも御先祖から持ち傳へたのが、隨分澤山御座いますが先づなんにも無くなつたものは御座いませんやうで」
土藏の中は
整然として、物の亂れた樣子は少しもなかつたのです。
外へ出て仰ぐと、母屋と
五戸前の土藏は
切褄形の屋根を並べて、二月の空つ風がその間を
刄のやうに吹き拔けますが、何處から飛んで來たか、散々に破れた大きな
凧が一つ、金藏の嚴重に閉つた二階窓の扉の
鐶に引つ掛つてバタバタして居るではありませんか。
「八、あとであの凧を取つてくれ。絲が鐶にどんな工合に引つ掛つて居るか、それを見たい――」
平次はそつと八五郎の耳に囁きます。
それから平次は家の周圍を念入りに調べました。土藏と土藏の間、家の後ろなどには、滅茶滅茶に足跡が亂れて居りますが、
霜解頃ではあり、多勢の雇人に踏み荒されて、何が何やらわかりません。
「鍵は誰が持つて居るんだ」
平次は元の金藏の前へ來ると、老番頭に訊きました。
「金藏の鍵は主人の居間に置いて、主人か私でなければ手をつけないことになつて居ります」
「金藏の扉は毎日開けるんだね」
「格子戸と
樫の板戸と
漆喰の大扉と三重になつて、中の二枚の戸はそれ/″\の
棧がひとりでおりますが、一番外の大扉のは
海老錠で、その鍵は別にあります。これだけの締りですから、金藏に用事のある時開けるだけで、三日も四日も締め切りのことも御座います。――
尤も
一昨日は遠方から入る金があつて、
宵に一寸開けましたが――え、え、それはもう前からわかつてゐたことで御座いますとも」
「すると、
假りに――假りにだよ、土藏の中に曲者が
紛れ込んでゐたとしても、誰も開けてくれる者がなければ、三日も四日も外へ出られないわけだな」
平次は妙なことを突つ込みます。
「へエ――、まア、さう言つたわけで、外の大扉には
海老錠がおりて居りますから、中の二つの戸の
棧は内からでも開けられますが――」
老番頭の忠助は苦笑するのです。
「だが、金藏の戸を開けつ放しにして置くこともあるだらう、半刻や一刻は――」
「それは御座います。屋敷内のことですから物を運ぶ時などは、ツイ扉を開けたまゝ、母屋へ行つて來ることも御座います」
「その間に、曲者は忍び込めないとは
限るまい」
「忍び込んでも、中から出られません」
「人に開けさせさへすれば出られる筈だ。開ける人がなければ、二階の窓を開けて飛降りるといふ
術もある」
「三間近い高さで御座いますよ。それに、下は忍び返しを打つた塀で」
忠助は酢つぱい顏をするのです。二階の窓は内から開けられるには相違ありませんが、飛降りるのは容易ならぬ藝當です。
併しそれも程度の問題で、丈夫な繩でもあれば、身輕なものは十分二階の窓から飛降りられないことはないでせう。――平次はそんな事を考へて居る樣子でした。
「刄物は?」
と平次。
「脇差が捨ててあつたよ。番所へ持つて行つたが」
「持主は?」
「それが、
甥の傳七郎といふ男の品だ。
尤も本人は何時の間にやらなくなつたと言つて居るが」
川崎の孫三郎は、辯解する調子で言ふのです。
「どんな男だ」
「良い男だが、評判はよくない。氣の荒いところがあつてね。それに今度は散々だよ。伯父を殺した脇差ばかりぢやない。縁の下には
袷が血だらけになつて突つ込んであつたし、自分の床にも血が附いて居た。それに――」
「まだあるのか」
「
一昨日の晩、自分の部屋から、雨戸をそつと開けて外へ出てゐる。奉公人達は皆んな知つて居るが、傳七郎は
亥刻から先時々自分の部屋をあけることがあるさうだ。本人は町内の師匠のところへ行つたと言つて居るが、町内の女師匠の鶴吉といふ大年増が、長い間傳七郎と深い仲だから、口を合せて居る分にはどんな
細工でも出來る」
「フーム」
「もう一ついけないことには、傳七郎はお孃さんのお
優さんと
娶合せられて、
小牧の後を繼ぐことになつてゐたんだが、師匠の鶴吉との仲が知れて、伯父の大旦那にうんと小言を言はれた上、お優さんと娶合せることも、此の家の跡取にする事も破談にされて了つた」
「成程ね。――そんなに證據が揃つてゐるのに、なんだつて傳七郎を擧げなかつたんだ」
「錢形の親分の前だが、證據がそろひ過ぎるよ。傳七郎はどんなに馬鹿だつて、自分の脇差で伯父を殺し、自分の袷を血だらけにして縁の下にネヂ込み、その晩町内の師匠のところへ轉げ込むやうなことはしないだらう」
さすがに川崎の孫三郎の推理には、
老巧なところがあります。
「だが、土藏へおびき出して、主人の正面から切つてかゝるのは、餘つ程知つてる者でなきや出來ないことだぜ。そんな人間といふと
平常この家に居る者で、土藏へ入つても疑はれない者、――性根の
確りした、腕つ節の強い奴」
平次にさう數へ上げられると、疑ひは又傳七郎の方へ戻つて來るのです。
「そんな人間は傳七郎のほかにはない。奉公人は多勢居るが、支配人の忠助と、
甥の傳七郎と、通ひで帳面をして居る又六の外には、子供や女ばかりだ」
孫三郎はこんな事を
細々と説明し乍ら、平次を母屋に
導くのです。
主人――小牧半兵衞の死骸は、見るも無殘でした。五十八といふにしては、恰幅も見事、若い時は
撃劍の一と手位はやつたらしく、容易に人に斬られる筈もないのですが、土藏の中で全く不意に襲はれたのでせう。
平次は線香をあげて佛の前から退くと、
「御主人は土藏へ入つた時、後戸を閉める癖があつたと思ふが――」
忠助へ訊ねました。
「へエー、その通りで御座います。夜分などは泥棒に
跟け入られるからと仰有つて中へ入ると必ず後戸を締めました」
「だから、それだけの騷ぎも外へは聞えなかつたんだらう。心得たやり方だな」
平次は曲者の惡智惠に、舌を
捲くばかりです。土藏の中におびき入れた細工や、主人の習慣をよく知り拔いたやり口は、如何にも憎いほどの行屆きやうです。
「親分さん、御苦勞樣で御座います」
次の間から入つて來たのは、死んだ主人の
後添お千世でした。三十五六の素晴しい大年増で、
身扮の派手なこと、顏の表情の
大袈裟なこと、化粧の濃いことなど、年齡にも身分にも、場所柄にも不似合の感じです。後ろから覗くやうに小腰を
屈めたのは、その繼娘で小牧家の一粒種、
曾ては甥の傳七郎と
娶合せようとしたお優でせう。これは十八九の目鼻立の美しい、表情の内輪な、いづれかと言へば淋し氣な娘で、繼母のお千世とは全く違つた世界に住む人間の感じです。
「
一昨日の晩のことを
詳しく聽かして貰ひませうか、お内儀さん」
「私はまア、何うしませう。こんな事になつて、主人だつてあんな
虐たらしい死にやうをしては浮ばれません。どうぞ、お願ひだから
下手人を擧げて、敵を討つて下さい」
お千世は平次の問ひとは凡そ縁の遠いことを恐ろしい勢ひでまくし立てるのです。
「え、目ざとい人で、夜でも夜中でも、氣になることがあると、自分一人で見廻りました。あの晩も夜中頃になつて、金藏の方でそりや變な音がしたんですもの。プーンと言つた
鋸引でもするやうな、
虻が障子の間へ入つたやうな、――私も聽きましたとも。すると主人は飛起きて、
絆纒を引つ掛けて、
手燭と鍵を持つて、廊下傳ひに土藏の方へ行きました。それつ切り半刻經つても歸らないぢやありませんか。あんまり心配だから、隣の部屋に寢てゐる娘を起して、二人で、行つて見ると――」
土藏の戸は半分開いてゐたこと、中を一目見て悲鳴をあげたこと――お千世は身振り澤山に話すのです。
「ところで、御主人が
平常一番信用して居たのは誰でせう」
「番頭の忠助どんですよ」
當り前のことと言はぬばかりです。
「それから?」
「通ひ番頭の又六どん」
「傳七郎さんとか言ふ
甥御は?」
「さうですね」
お千世の
饒舌も其の問ひには容易に應へられさうもありません。それからお
優の聟や、この家の跡取のことも訊きましたが、お千世はこの問題にもあまり觸れ度くない樣子です。
續いて娘のお優にいろ/\話しかけて見ましたが、若さと、恥かしさと、恐ろしさに
顫へて、何を訊いてもハキハキとした答へは得られません。唯傳七郎の事を訊いた時だけは、
「あの方も可哀想です。――お父さんはやかましかつたんですもの」
十分同情のある調子でした。
「親分、この方は、
何處の人だえ」
甥の傳七郎の聲は
尖りました。二十四五の
髯の跡の青い、背の高い、
逞しい感じの男で、無暗に笑顏などを人に見せない、――その癖、血の氣の多い若者です。
「錢形の親分だよ」
「あ、さうか、近頃評判の」
傳七郎は輕くあしらひますが、江戸の御用聞で、川崎まで乘出して、我物顏に振舞ふとでも思つたのか、その反感は顏色にも、聲の調子にも
溢れます。
「傳七郎さんとか言ひなすつたね、少し訊き度いが」
平次はそれに構はず仕事を進めました。
「お前さんには氣の毒だが、證據はあの通り妙に揃つて居る。第一番に御主人を殺した脇差は何時頃からなくなつたんだ」
「知りませんよ。一年ばかり前芳町の刀屋で冷かし
損ねて一兩二分で買つた道具だが、用事がないから、押入へ投り込んだきり、三月も半歳も見たことのない品だ」
「
袷の方は」
「洗濯を頼んで出して置いたが――」
傳七郎もさう疊みかけられると、さすがに困惑します。
「
一昨日の晩、何處へ拔け出したか、それも訊かなきやならない」
「何べんも同じことを言ひましたよ。町の鶴吉師匠に訊いて下さい」
傳七郎は如何にも
忌々しいと言つた調子です。
「孫三郎親分、又六とか言ふ番頭は見えないやうだが」
「又六どんは店に居ますよ。相變らず帳面の方で――」
お千世は取なし顏に店の方を指しました。其處へ、
「これは親分さん方、御苦勞樣で」
三十八九、やがて四十
年輩の
小作りの愛想の良い男が入つて來ました。
「お前は又六だね、――劍術をやつたことがあるかい」
と平次。
「飛んでもない。親分」
又六は飛上がるほど驚いた樣子です。色白で
奢車で、筆跡の美しい、内氣な又六に、劍術の取合せはあまりに唐突です。
「何時頃から此の店に居るんだ」
「三年になります。その前は日本橋の佐野屋さんの帳場に居りましたが、佐野屋さんが分散した時、此の家の旦那樣に拾はれて參りました、へエ」
「一昨日のことを
詳しく聽き度いが――」
「私はどういふものかあの日は朝から熱があつて、赤い顏をして居ると言はれましたが、到頭我慢が出來なくなつて
申刻(四時)前に歸らして頂きました。晩飯も拔きまして、
葛根湯を二杯も呑んで、一寢入りとすると、
曉方御店から小僧が飛んで來ました。旦那樣が――」
「お前の家は何處なんだ」
「この裏で御座います。なアに五丁とも離れては居ませんが」
「お神さんや子供衆はあるだらうな」
「女房に早く死なれて、叔母と二人で住んで居ります」
この男は訊けばいくらでも話してくれさうです。
それから一刻あまり、灯が入つて、夕飯の濟むまで、平次は此の上もなく念入りに家の中を調べました。いざ引揚げようといふ時、
「孫三郎親分、傳七郎を擧げてくれまいか」
平次は孫三郎を物蔭に呼んで囁くのです。
「え? 傳七郎を――あの男が下手人?」
「さうだ。あれだけ證據が揃つちや、放つても置けまい」
「だつて、證據があり過ぎるぜ。傳七郎は一國者だが、惡黨や、馬鹿ぢやない」
「――俺が縛ると事
免倒だ。兎も角頼むぜ」
「そいつはいけないよ、錢形の親分。もう少し本當らしい證據がなきや、俺が笑ひ物になる」
「あれだけ證據が揃つてゐれば申分はないと思ふが――」
「だが、――その證據は皆んな
拵へ物だ」
孫三郎は
頑として聽き入れません。日頃の交際で、傳七郎の正直さを
悉く信じ切つて居る爲でせう。
「後悔するやうなことがあるかも知れないが――仕方があるまいな」
平次は諦らめ兼ねる樣子ですが、それでも自分で縛るほどの氣にはなれなかつたものかそのまま孫三郎の家へ引揚げました。
「親分、金藏の窓の
凧を取つて來ましたよ。
鐶に絲を通してあつたんで、飛んだ大骨折さ。凧は滅茶々々にこはれて居るが、
唸りは立派だ」
ガラツ八は暗くなつてから凧を持つて孫三郎の家へやつて來ました。
「成程こいつは良い凧だ。第一唸りが良いね、
雁皮で念入りの細工だ」
「ところで親分、今晩なんか仕事がありますか」
「大ありだ。孫三郎親分の子分衆と一緒に、傳七郎の身許を念入りに調べてくれ。師匠の鶴吉とどんな事になつて居るか、
金遣ひはどうか、お
優との間はどんな事になつて居るか。――待つてくれ、それから書き役の又六の方も調べるんだ。あの男の家に若い女が居ないか、化粧道具があるかないか、それを見るが宜い。
白粉でも紅でもあつたら借りて來い。一緒に居る叔母さんはどんな人間か、暮し向はどうか、日本橋の佐野屋に居る時の勤め振りもわかると宜いが、これは急のことではむづかしからう。――どつこい、まだあるよ」
「まだあるんですか、親分」
「後添のお千世、あのお内儀を調べるんだ。こいつは孫三郎親分の方が知つてゐるかも知れないが、身許から身持、此の頃の樣子と言つたところだ」
この
夥しい用事を背負ひ込んだガラツ八は孫三郎の子分二三人と一緒に飛出したことは言ふ迄もありません。
その晩、夜中近くなつて歸つて來たガラツ八の報告といふのは、――傳七郎は正直者で金離れがよく、一
徹で短氣ではあるが、町中の評判の良いことから、師匠の鶴吉とは
腐れ縁で、本人は手を切りたがつてゐるが、鶴吉の方でなか/\離さないこと、お優との間は平凡な
從兄妹同士で、それ以上に深い關係などがあらうとは思はれないこと、――それから、
「又六の所へは時々若い女も來るらしいが、叔母さんといふのは
金聾だから、又六の
内證事なんか判りやしません。暮し向は良い方で金もうんと持つてゐるさうです。家の中には紅も白粉もありましたよ。――この通り」
ガラツ八は懷ろから平次に言はれた通り、又六の家から持つて來た白粉の紙包みと紅皿を出して見せるのでした。中を開けて見ると、白粉は殆んど手もつけて居りませんが、口紅はいくらか使つた樣子で、白い紅皿の肌がほんの一部分
剥げて居ります。
「お内儀は?」
「あれは大變な女で。あんなチヤラチヤラして居るくせに、恐ろしく勘定高くて握りつ
拳で口やかましくて奉公人泣かせですよ。品川の茶屋の娘ださうで、又六とは仲が良かつたやうですが、近頃は妙に睨み合つてるさうです。傳七郎とは
反が合ひません」
そんな事がガラツ八の搜り出した筋でした。
それから半夜。翌る朝はまた事件が思はぬ新しい局面を見せて居りました。
「錢形の、大變だ。今度はお孃さんがやられた。命は無事かも知れないが」
「えツ」
孫三郎の聲に驚いて飛起きた平次は、朝の支度もそこ/\に八五郎や孫三郎と一緒に飛出して居りました。
小牧の屋敷では重なる騷ぎに煮えこぼれるやう。美しい娘のお
優が、昨夜眞夜中過ぎ、何者とも知れぬ曲者に襲はれて、短刀で二度まで刺され、床から拔け出して氣を喪つたところを、隣の部屋に寢てゐる繼母のお千世に見付けられ、危ない命を助かつたといふのです。得物は
箪笥に入れてあつた死んだ主人の短刀。それは血に染んだまゝ投げ捨ててありました。曲者は何處から入つたか、まるで見當もつきません。
「孫三郎親分、昨夜傳七郎を縛つて置けば、こんな事はなかつたんだが」
平次は傷ついた美しい娘を痛々しく見やつていかにも
口惜しさうです。
「今からでも宜からう、錢形の」
孫三郎は昨夜の失策に
懲りて、一擧に傳七郎を擧げようと
逸るのでした。
「待つてくれ、親分」
「いや、放つて置けない奴だ。伯父を殺した上に、
從妹まで――」
「その前に少し訊いて置き度いことがある。家中の者を皆んな此處へ揃へてくれ」
平次は孫三郎を
撫めて、家中の者を全部奧の一間に集めました。隣りの部屋では傷ついたお優が、外科の手當でうつら/\と眠つて居る樣子。
「皆んな揃つたら訊き度いことがある。隱さずに言つてくれ」
平次は一同の顏を見渡しました。其處には派手なお内儀のお千世を始め、老番頭忠助、書き役又六、甥の傳七郎を始め、小僧、下女まで十幾人、
固唾を呑んで
控へたのです。
「この中で一番器用なのは誰だらう、細工事などのうまい」
「又六どんだ」
小僧の一人が言下に應じました。
「有難う。ところで、この
凧は誰のだえ。誰が拵へたんだ。――なか/\
唸りの工合などよく出來てゐるが――」
「傳七郎さんだ」
小僧の他の一人が答へます。
「實を言ふと、主人を殺したのは此の凧なんだ。凧は金藏の二階の窓の
鐶に掛つてゐた。――引つかけて置いたと言つた方が宜いだらう。絲は鐶を通してあつたさうだから。夜になつて風向が變ると、土藏と土藏の
庇間を吹き拔ける風が、この凧の唸りに當つてブーンと鳴る。――御主人はそれを聽いて驚いて飛起き、土藏へ入つて見ると、中に隱れて居た曲者が飛出して、いきなり手燭を斬り落した。あツと言ふ間もない、三太刀、四太刀、滅茶々々に斬つて到頭
止めを刺し、土藏から飛出した曲者は、
血飛沫で汚れた袷を脱いで縁の下に突つ込んだ。――凧は用事が濟むとすぐ引きおろすつもりだつたが、絲が切れてうまくおろせなかつた――これを窓の鐶に殘したのは曲者の大手ぬかりだ」
あまりの事に一同は息を呑みました。平次の説明はなほも續きます。
「曲者はあの晩金が入つた土藏を開けることを知つて居た者だ。多分一寸の隙を見て土藏に
潜り込んだのだらう、そしてゆる/\二階の窓の
凧の細工をして、風の變るのを待つて居たんだらう」
平次の言葉が終るか終らぬに、
「野郎ツ、伯父の敵だツ」
其處にあつた血染の短刀を取つて、パツと又六に飛付いたのは、
甥の傳七郎でした。
「あ、待つた」
止める隙もありません。
逸りに逸つた傳七郎の短刀は逃げる又六を追つて、グサツと其の首筋へ。まことに傳七郎は火のやうな激しい氣性の男だつたのです。
× × ×
傳七郎は其の場で神妙に繩を打たれましたが伯父小牧半兵衞を殺し、
從妹のお優に傷を負はせた敵――又六を討つた經緯が明白になつて間もなく許された事は言ふまでもありません。孫三郎と平次は一應手ぬかりを叱られましたが、半兵衞殺しの下手人を明白にして、御用聞としての面目の立つたことで滿足したのです。
「半兵衞殺しは、傳七郎か又六か、どつちかに違ひないとは思つたが、どうして傳七郎でないと判つたんです。親分は前の晩傳七郎を縛らせようとしたぢやありませんか」
事件が落着してから、ガラツ八はいつものやうに平次に説明をせがむのでした、
「あの時、俺はもう
下手人は又六と判つてゐたが、困つたことにまだ證據が揃はない、さうかと言つて、傳七郎をあのまゝにして置くと、又六は又なんか
惡企みをするに違ひないと思つたんだ。傳七郎が殺されるか、お内儀がやられるか――まさかお優を殺して傳七郎に疑ひを向ける細工をするとは思はなかつたが――」
「へエ――恐ろしい野郎ですね」
「あの日又六が朝から赤い顏をして居たと聽いて、紅を塗つたんぢやあるまいかと思ひ付いたよ。あの晩金が入つて、宵には金藏を開けると前から判つてゐたから、そんな細工をして、夕方自分の家へ歸つたんだらう。
縮尻つて主人が夜中に來なければ、窓から金を持つて逃出して、泥棒のせゐにするつもりだつたのさ。うまく行つたから、主人を殺して置いて、傳七郎が家を脱出した後から入り込んで床へ血など附けて置いた。――お優を斬つたのもその
術さ。傳七郎の拔け出した後から忍び込んだに違ひない」
「
太え野郎ですね」
「金に手をつけないのは、傳七郎に疑ひをかける
術だ。主人が死んで傳七郎が
處刑になれば、あの家の金は又六の自由になる。番頭の忠助などは
木偶のやうなものだ。望みは小さくないよ。――だが、あんまり細工が過ぎて
却つて傳七郎の疑ひが薄くなつたのさ。小器用な惡黨は、
大概しなくても宜いことをして尻尾を
掴まれる」
「惡い野郎があつたものですね」
「店の金だつて、宜い加減取り込んでゐるのだらう。それにお内儀の樣子があの通りだから、主人が死ねば、自分が後釜に直れると思つたのかも知れない。お千世の浮氣つぽい樣子もよくないよ。女のヂヤラヂヤラしたのは間違を起すもとさ。――性根が固くたつて辯解になるものか」
「へエ、――馬鹿な奴だね」
「惡人は大抵馬鹿だよ。――それに
比べると傳七郎は川崎一番の正直者さ。伯父殺しの下手人が又六と判ると、ツイ
かつとなつたんだ。あの男も、師匠の鶴吉との
腐れ縁はあるが、いづれはお
優さんの聟になつて小牧の跡を取るんだらう」
平次の説明を聽くと最早疑ひを
挾む節もありません。