「こいつは驚くぜ、親分」
ガラツ八の八五郎は、相變らず
「驚くよ、八五郎が馬を曳いて來たつて、暮れ以來お手許
平次はお勝手で水仕事をしてゐる女房に聲を掛けました。
「馬なんか曳いちや來ませんよ」
八五郎の甚だ平かでないのへ押つ冠せて、
「お前と一緒に來て、路地の外に立停つた駒下駄の音はありや何んだえ。近頃流行つてゐる下駄の、それも
平次はひどく呑込んだ顏をして居るのです。
「驚ろいたなア、あつしと一緒に歩く小股の切れ上つた女は、馬と極めて居るんですか」
「まアそんな事だらうよ。お前の
「そんな間拔なものぢやありませんよ。今朝
八五郎は聲を
「折角お前を頼つて來たのなら、お前が一人で出かけるが宜いぢやないか。俺なんかの出しや張る幕ぢやなささうだぜ」
「さう言はずに親分」
「近頃はお前の方が人氣がありさうぢやないか」
「からかつちやいけませんよ」
そんな事を言ひ乍らも、平次は手早く支度をして、八五郎と一緒に外へ出ました。
「親分さん――」
何やら口の中で言つて、丁寧にお辭儀をしたのは、まだ
「六本木から獨りで來たのかえ」
平次もツイ、物の哀れを覺えました。こんな小娘が
「中ノ橋の金太親分が見張つてゐて、姉さんは一と足も外へ出られませんし、此儘放つて置くと、本當に縛られさうなんです」
「で、どんな樣子なんだ。歩き乍ら聽かしてくれ」
平次は少しでも豫備知識を、此小娘の口から引出さうとしましたが、それは何んと言つても無理なことでした。小娘は充分
だが、そのたど/\しい言葉のうちから、これだけのことがわかりました。麻布六本木の大黒屋清兵衞といふのは、
其處に引取られて、掛り人になつて居るのは、お北お吉の二人姉妹で、これは清兵衞のためには恩も義理もある
大黒屋の伜の清五郎は、少し智惠が足りない上に
大黒屋の家族といふのは、主人清兵衞、女房お杉、伜清五郎の外にお北お吉の姉妹、それに
六本木の大黒屋は、
八五郎を先に走らせて、一應中ノ橋の金太に渡りをつけさせると、
「何? 錢形の親分が來てくれた? それは有難い。お蔭で明るいうちに
そんな調子の良いことを言ひ乍らも、腹の中では相當に反感を募らせて居る樣子です。四十前後の働き盛りで、何んとなく
「錢形の親分さん、とんだ御苦勞樣でございます。何んとかして一日一刻も早く伜をあんな
岡つ引に對して、丁寧過ぎる物の言ひやうや、
年の頃は五十前後、充分に
その後ろから默つてお辭儀をしてゐるのは四十四五のトゲトゲした女で、青黒い顏、白み勝ちの三白眼、薄い唇など、
平次はそれに一と通りの挨拶をして、早速殺された伜清五郎の死體を見せて貰ひました。本人の部屋といふ奧の六疊に、まだ入棺にも及ばず寢かしてありますが、
「フーム」
平次が
「檢屍の時、刀は拔いたが、こいつが脇腹から肩へ突き貫けてゐる圖は凄かつたよ」
中ノ橋の金太は、死體の側に白布で卷いて置いてある、寸の延びた一刀を取上げて言ふのでした。
それはやくざ者などが好んで持つて歩く新刀物の
「
「廊下に捨ててあつたさうだ――家の者がやりましたと言はぬばかりに」
金太は部屋中の者の顏を見渡して苦笑ひをして居ります。
「その刀は、私の物でございます。若い時分に持つて歩いた品ですが、今では入用もないので、納戸の
死骸になつて居る清五郎は、全く
「死骸のあつた場所を見せて貰はうか」
平次は言葉少なに立ち上ります。
「此方だ」
心得顏に金太は、庭下駄を突つかけて先に立ちます。
お勝手の前を通つて、家の外廻りをざつと半分廻つたところに、突き出したやうに二階があつてその外側に、足場を組んで、材木や小道具が散亂して居りますが、ひどく血が
「死骸は此足場の下にあつたのだよ――脇腹から肩まで脇差を突き通したまゝ」
金太は足場の下、血潮の飛散つた中を指さしました。
「足場の上に居るのを、
八五郎は一かど考へたことを言ひます。
「それにしても大變な力ぢやないか。それに下から突き上げちや、下手人は頭から血飛沫を浴びたことになるが――」
平次はさう言ひ乍ら、思ひの外
「二階の部屋の中には、誰か居るのかえ」
平次が聲を掛けると、閉め切つてあつた二階の雨戸を、ガタピシさせ乍らも一枚開いて若い女が一人顏を出しました。二十歳前後でせうか、少し病身らしくあるが、妖艶な感じのする、眼のさめるやうな女です。
「――」
女は少し極り惡さうに、默つてお辭儀をしました。
「お前は?」
「北――と申します」
平次と三尺とは
「何をしてゐるのだ」
「あの、此處から出てはならぬと――あの方が」
お北の明るい眼がそつと足場の下の金太の顏を見やるのでした。
「昨夜何にか變つた音を聽かなかつたか」
「寢ようと思つた時、何にかドタリと物の落ちたやうな音を聽いたやうでもあります」
「時刻は?」
「
「清五郎の嫁は決つて居るのか」
「そんな話を聽きません」
「お前にうるさく言ひ寄つたことだらうな」
「――」
平次の問ひは
「外に、お前にうるさく言ひ寄つた者がある筈だが――」
「――」
お北はさすがに口を
「ところで、もう一度雨戸を閉めてくれ。少し見たいことがある」
「ハイ」
お北はほつとした樣子で、三尺の雨戸を閉め切りました。表がかりの贅澤な
平次は尚ほも念入りに調べましたが、中でも足場に並べた
そして繩に
「もう一度聽くが」
「ハイ」
お北はもう一度雨戸を開けて首を出しました。
「此處へ何時頃から職人が入つて居るんだ」
「五六日前からでございます。屋根から羽目へかけてひどく痛んでゐるので」
「昨日も職人が來て居たのかえ」
「薄暗くなるまで働いて居りました」
「お前達が此二階へ引取つたのは?」
「お吉は御飯が濟んで直ぐで、私は跡片付けをしてから――
「それから誰も二階へは來なかつたのだな」
「――」
お北はうなづきました。
「今朝死骸を見付けたのは誰だ!」
「たゞ辰三さんが下で大きな聲を出したので、びつくりしました。
お北の口から引出したのは、これで全部でした。
「親分、雨戸はひどい隙間ですね。清五郎はあの足場に登つて、お北の寢姿でも覗いて見たんぢやありませんか」
平次の降りて來るのを迎へて、八五郎はすつかり嬉しさうです。
「そんな事かも知れないよ」
「それをあの娘が腹を立てて、上から刺したとしたらどうでせう」
「
「え」
「いきなり雨戸を開けたら、いかな面の皮の厚い清五郎でも逃出すだらう。それに刺した傷跡は、脇腹から肩へ拔けて居るぜ」
「へツ」
「清五郎が
「成程ね」
「お前も一度足場の上に登つて隙間から覗いて見るが宜い、いろ/\面白いことがあるぜ」
「へエ、金太親分、行つて見ませうか」
八五郎と金太は足場の上に
「あの隙間は宜い
「あの障子は雨戸の隙間と合せるやうにわざ/\破つたものだらう――娘達はそんな事をする筈はないから、覗いた奴が晝のうちにあの部屋へ入つて、間違つたやうな振りをして破つたのだらう」
「そいつは
「ところで、外に何んか氣がつかなかつたのか」
「――」
「足場の踏板だよ、その板を留めた繩の結び目に氣が付かなかつたのか」
「?」
「職人はそんな結びやうをする筈はない――一枚だけ結び直してあるんだが、そいつが女結びになつて居るのだよ」
「すると?」
「足場の踏板を一枚、すぐ外れるやうに仕掛けてあつたのだよ。清五郎が
「――」
「そして、足場の下へ――丁度隙間を覗いて居る清五郎が踏板を滑つて落ちた時、その身體へ眞つ直ぐに突き立つやうに、下の横木に
平次の想像はあまりに飛躍的で、そして不氣味なものでした。斯う聽いただけでも氣の弱い者は横腹がムズムズする心持です。
「さうでもなきや、人間の身體へ、脇腹から肩へ突き拔けるほど、脇差を突立てられる筈はない。それにもう一つ――」
「?」
平次は足場に近づいて、其處に散らばつてゐる繩切れを拾ひ上げました。
「此横木にこの繩で棒でも何んでも構はない、上へ向けて縛つてくれ。そして八は上から何にか落して見るが宜い、手頃な物がなきやお前が踏板から轉げ落ちて見せても構はない」
「御免
「遠慮するなよ――
この實驗は思ひの外上首尾に行きました。八五郎が平次の羽織に木片を入れて足場の踏板から落したのが、豫想以上に
「成程こいつは驚いたね。すると下手人は――いやこの仕掛を
中ノ橋の金太も、平次の
「ところがそれには及ばなかつたらしいよ。脇差を足場の横木に縛つた繩は、上から落ちて來た人間の重みで、苦もなく切れてしまつたのだ。曲者は大して手も汚ごさずに、
「その曲者は誰です、親分」
八五郎はいきり立ちます。
これだけのことはわかりましたが、こんな手の混んだ細工をした者は、平次にもわかりません。念のため、平次はお北お吉の部屋にも入つて見ました。此處には至つて粗末な調度と、姉妹の貧しい夜の物の外には何んにもなく、わけても美しいお北が見る影もない
「お前は?」
「へエ、辰三と申します」
お北の部屋の下、階段の蔭に隱れて居た男は、平次の早い眼に見とがめられました。三十二三にもなるでせうか、
「何をして居たんだ」
「何んにもして居たわけぢやございませんが、お北さんお吉さんの姉妹が可哀想でなりませんよ」
「それはどういふわけだ」
辰三は妙なことを言ふのです。
「主人の惡口を言つちや濟みませんが、あれぢや恩人の娘だか、奉公人だか、それとも女居候だかわかつたものぢやございません」
「――」
「散々こき使はれた上、三度の食事もあてがひ
「お前は何を言ふのだ――清五郎はお北を嫁に欲しいとでも言つて居たのか」
「嫁に欲しいと言つたつて、あれぢや
「それで何うした」
「胴腹を
辰三はプツリと言葉を切つたのです。振り返ると其處へ、二十七八の多血質らしい男が、警戒的な素振りで近づいて來るのでした。
「あれは?」
「お
辰三の言葉の終らぬうちに、與之松は近づいて平次と八五郎に挨拶しました。色白の世馴れた男で、調子も何んとなくハキハキして居ります。
「お前は何時から此處に居るんだ」
平次は當らず
「三年前からでございます――尤も叔父が商賣をして居る頃は、小屋で働いて居りましたが」
この男がろくろ首か鳥娘の興行の口上言ひをして居たことは平次も聽いて居りました。
「まだ獨り身だらうな」
「へエ」
「お北が清五郎殺しの下手人で縛られるかも知れないが、お前には助ける工夫はないのか」
平次の言葉は途方もないものでしたが、それにも
「そんな馬鹿なことがあるものですか。あの人が、人なんか殺せるか殺せないか、一寸見ただけでもわかることぢやありませんか」
與之松はすつかり
「證據が揃つて見ると、それも仕樣があるまいよ。本當の下手人が名乘つて出なきや」
「私が――私が下手人だと言つたらどうします、親分さん。清五郎の奴が、身の程も知らずにあんまりうるさくお北を追ひ廻すから、見て居られなくなつて突き殺したとしたら――」
與之松はすつかり自分を投出してしまひました。
「どうして殺したのだ。脇差は胸から肩へ逆樣に突き拔けて居るぜ」
「腹立ち
「宜いよ、もう澤山だ。清五郎を殺したのはお前のやうな一本調子の人間ではない」
平次は大きく手を振つて、この純情家を追つ拂つてしまひました。それから、もう一度主人の清兵衞と、内儀のお杉に逢つて見ましたが、何んの得るところもありません。さすがの平次も日が暮れるのを合圖に一應神田へ引揚げる外はなかつたのです。
だが、此事件は此儘で濟んだわけではありません。平次と八五郎は神田から六本木まで三度も通ひ、中ノ橋の金太は毎日のやうに大黒屋へやつて來て、この清五郎殺しの
ある朝のことでした。
「親分さん、お願ひ――」
格子戸を開けて轉げ込んだのは、大黒屋の
「お吉ぢやないか、何うしたんだ」
平次はお靜に手傳はせて家の中に抱き上げ、水などを呑ませたり、背中をさすつてやつたり、息も絶え/″\に疲れ切つて居る小娘を、どうやら物が言へるまでに元氣づけると、
「親分さん、大變なことになりました」
「どうしたのだ」
「
「え」
「そして今朝薄暗いうちに、中ノ橋の親分が姉さんを縛つて行つたんです」
姉の繩目を見て仰天したお吉は、明けたばかりの街を精一杯に驅けて、六本木から神田まで急を訴へに來たのでせう。
「主人はどんな殺されやうをしたのだ」
「自分の部屋で、障子越しに脇腹を刺されて――」
十五の娘はこれだけ言つて唇を
「お
「清五郎が死ぬと、お内儀さんはひどい夫婦喧嘩をして、三日前に出てしまひました。あの清五郎さんといふ人は、本當はお内儀さんの連れ子だつたさうです」
「さうか、道理で變なことがあると思つたよ。ところで、主人はその後變つた樣子がなかつたのか」
「姉さんが困つて居りました」
お吉はモジモジし乍ら
「
「え、年が三十も違ふのに――お内儀さんもそれで腹を立てて家を出たのです。昨夜も姉さんを自分の部屋に呼びつけて、變なことばかり言つて居たさうですが、姉さんが逃げて二階の部屋へ歸つた後で、柱にもたれて一人でお酒を呑んでゐるところを、背後から障子越しに――」
お吉は餘りの
「兎も角も行つて見るとしよう」
平次はお吉と一緒に、
「中ノ橋の親分、又殺しがあつたさうだね」
「お、錢形の親分。今度は宜い鹽梅に下手人を擧げたよ――あのお北の
金太は自分の素早い手柄に
「兎も角、現場を見せてくれ」
平次はそれにはあまり取合はず、早速主人清兵衞の部屋といふのを見せて貰ひました。馬鹿馬鹿しく贅澤な、そして
「此通りだ、一人で
「女にしては手際が良過ぎはしないか」
「だがな錢形の、お北の着物に血が着いて居るのだよ」
「どんな具合に?」
「胸から
「死骸を見せて貰はうか」
平次はあまり金太の言葉には取合はずに、廊下へ出て見ました。
「死骸は此方だよ」
「待つてくれ、中ノ橋の親分。廊下には少しも血が附いちやゐないぜ、障子の
「ところが、現にお北の着物には血が着いてゐるんだから――それとも、刀を突つ立ててから障子を開けて部屋の中へ入つたのかな」
金太の論理はどうやらしどろもどろになりかけました。
主人清兵衞の死骸を見て、その後ろからの突き傷の凄まじさに舌を卷いた平次は、店へ戻つて來ると、いきなり
「與之松」
「へエ」
「お前は
平次の舌は日頃にもなく
「親分――私が惡うございました。伯父を殺したのは、此私でございます。お北さんが縛られるのを此眼で見乍ら、ツイ
與之松はヘタヘタと崩折れると、平次と金太の
「この野郎、今頃そんな事を言やがつて――何んだつて清五郎を殺した時白状しなかつたんだ」
中ノ橋の金太はいきり立ちます。
「あれも、この與之松でございます。でも、昨夜、伯父が強引にお北さんを口説いて手籠にし兼ねない樣子を見ると我慢が出來なかつたんです。私は障子越しに伯父を突きました――その時狂ひ立つた
わめき立て乍らも、與之松は金太の繩で引つ立てられて行くのでした。
× × ×
一件落着して大分經つてからのこと。
「親分あつしには
八五郎はなか/\うまい事に氣が付きました。
「その通りだよ、八。
「へエ――」
平次の言葉はあまりにも豫想外です。
「お北お吉の居る部屋の窓の外へ這ひ上つてあんな仕掛けが出來る筈はないし、清五郎が落ちて死んだ後で、
「すると?」
「繩は女結びになつて居た。それに繩には長い細い毛が一本結び目に
「すると?」
八五郎は膝を乘出しました。
「妹のお吉の細工だよ。あの娘は氣性者だし智惠も
「驚いたね、どうも」
「與之松はお北と言ひ交して居たかどうかわからないが、生命がけで惚れて居たらしいよ。清兵衞が
「成程ね」
「お北お吉の姉妹は身寄の者に引取られ、大黒屋の身上はお上に
平次はさう言つて、二三日はもとの