飯田町の地主、朝田屋勘兵衞が死んで間もなく、その豪勢な家が、自火を出して一ぺんに燒けてしまつたことがあります。火事は幸ひ一軒で濟みましたが、主人勘兵衞が死んだ後、思ひの外の大きい借金があつたりして、暮を越し兼ねての
「へツ、へツ、親分、變なことがありましたよ」
ガラツ八の八五郎相好を
「何をニヤニヤしてゐるんだ。少し顏の
口小言をいひ乍らも、錢形平次は嬉しさうでした。天氣はよし、御用はなし、退屈しきつてゐるところへ、この少々タガのゆるい子分がやつて來て、漫談放語するのは、決して惡い心持ではなかつたのです。
「だつて、親分、場所は九段の
「牛ヶ淵に河童が居るかえ」
「物の
「
「へツ、冗談でせう」
「で、その河童ぢやない――娘は、何んと言つた」
「あつしの顏を見て居りましたが、いきなり、あら八五郎親分、丁度宜いところでお目にかゝりました。私はもう
「間拔けだなア、あの邊に惡い狐が居るやうな話は聞かないけれど――」
「狐ぢやありません。ピカピカするやうな人間の
「ヒネた人間で
「いやになるなア、
「男が好いととくだね」
錢形平次と八五郎は、相變らず斯んな調子で話を運んで行くのでした。
「良い娘ですね、新粉細工に息を通はせたやうな――」
「
「何が怖いといふ、はつきりした
「暗くなつてからかい、若い娘が――」
「まだ、日が暮れたばかりで、そんなに暗くなつたわけぢやありませんが、兎も角若い娘の獨り歩きする
「それは良かつた。が、朝田屋は燒け出された筈だが、何處に住んでゐるんだ」
「左前になつたと言つても、昔からの地所持の家持ですから、町内の貸家を一軒あけさして、母親と小さい弟と、それに下男の
「外に近い身寄はないのか」
「厄介な兄が一人あるさうですよ、朝田屋の亡くなつた先妻の連れ子で、朝田屋と血の
「何處に居るんだ」
「どうせ傳馬町の
「それつきりのことか」
「娘のお縫を[#「お縫を」は底本では「お瀧を」]送り屆けた
八五郎の報告は一向取留めもありませんが、
「若い娘が、ゐても起つても、といふほど
「へエ」
この平次の感は見事に當りました。朝田屋を
その晩、八五郎を引止めて、平次は一本つけさせました。どちらも大していける口ではありませんが、話が
「今晩は、御免下さいまし」
「――」
「錢形の親分さんのお家はこちらで?」
「どなたで?」
お靜は
「名前を申上げる程の者ぢやございませんが、お目にかゝつてお願ひ申上げたいことが御座います、へエ」
「あの、お名前を仰しやつて下さらないと困りますが――」
「宜つてことよ、どうせ岡つ引の家へ來なさるお客樣だ。構ふことはねえ、此處へズイとお通し申しな」
平次は少し醉つて居りました。
「では、どうぞ」
お靜は恐る/\道を開きましたが、格子の外の男は、頬冠りも取らず、何やら決し兼ねる樣子で愚圖々々して居るのです。
「此處で結構で――ちよいと親分さんのお顏を拜借すれば、へエ」
「大層遠慮深いぢやないか、一體どんな用事があるのだ。大玄關で掛け合ひを始められちや寒くて
平次は立ち上がり乍ら、ソツと八五郎に目配せして、女房のお靜と入れ
「相濟みません、――實は
外から格子を
「急がしい身體とでもいふのかえ、
平次は薄寒さうに懷手をしたまゝ、少し
「飯田町の朝田屋のことでございます」
「何?」
「先月
「
「お寺でも首を
「誰がそんな事を言つた」
「それは申し兼ねますが」
「依りどころのない噂を、一々お上では取上げちや居られないぜ」
「でも、續いてあの火事でございます。あの時のことをよく知つてゐる近所の衆は、火は三方から一度に燃え上がつたと申して居ります。三ヶ所から火の出る自火といふものはございません」
頬冠りの男は、平次がいきなり飛出すのに備へて、格子を外から堅く押へ乍ら、恐ろしい一生懸命さで續けるのでした。
「よし/\、それ程言ふなら調べ直してやらうが――朝田屋の主人勘兵衞を殺したり、朝田屋へ火を付けた者があつたとして、それは一體誰の
「其處まではわかりません。わかりさへすれば、唯は置きませんが」
頬冠りの男の辭色は、一
「朝田屋を怨む者でもあるのか」
「とんでもない、亡くなつた主人の勘兵衞は佛勘兵衞と言はれたほど結構人でございます」
「その主人を殺したり、朝田屋を燒いたりして、誰が一體
「朝田屋の身上を狙つて居る奴か――どうかすると、あの、お縫を――」
「お縫がどうした」
「へエ、あの娘は少し綺麗過ぎます」
「あ、待ちな」
「いえ、私の申すことは、これで皆んなでございます。どうぞ朝田屋に
「もう一つ訊きたいことがある」
平次は呼止めましたが、頬冠りの男はそれを背に聞いて、路地の闇へサツと消え込んだのです。
それが丁度
それから四半刻あまり。
「今晩は、親分さん。夜分お邪魔をして濟みませんが、少しお耳に入れて置きたいことが御座います」
格子の外から聲を掛けた、第二の男があつたのです。頬冠りの男を闇の中に見送つて、障子の中に引込んだ平次は、思はず振り返つて路地の暗がりを
「お前は誰だえ?」
「飯田町の三河屋の源次郎と申します、へエ、決して怪しい者ぢやございません」
灯先へ顏を待つて[#「待つて」はママ]來ると、色の白い、
「まア入るが宜い。用事といふのを、火鉢の側で聽かうぢやないか」
「へエ、有難う御座います」
平次に迎へ入れられると、二つ三つ立て續けにお辭儀をして、後ずさりに
火鉢を
「ところで用事といふのは?」
平次は少しもどかしさうでした。發火點の遲い、テムポのない話し振りが、相對して居ると、少々退屈になります。
「外ぢやございません――今しがた此路地から出た、あの頬冠りの男、あれを親分さん御存じで――」
「いや、知らないよ」
「あれは、私のお隣りの朝田屋の伜の門太郎で御座います」
「――」
「一年前から行方
「それが何うしたといふのだ」
平次の明察も、此男が何を言はうとして居るのか見當もつきません。
「あの門太郎さんは、朝田屋の亡くなつた主人の先妻の連れ子でございます――朝田屋の
「――」
「それは門太郎が身持
「――」
「その頃から頬冠りに
「何にかあつたのか」
「何んにもあつたわけぢやございませんが、門太郎さんが相變らず朝田屋さんの廻りをウロウロして、窓から覗いたり、雨戸へ手を掛けたりして居るのを見ると、私も我慢が出來なくなりました。それにあの男は刄物などを持つて居る樣子で、朝田屋の裏口をコジ開けようとした時、ピカリと月の光を受けて光つたものがあります」
「それは何刻だ」
「
「――」
見ると襟卷も合羽もなく、
「あの男が錢形の親分さんの
言ひ終つて源太郎は、肩の重荷でもおろしたやうに、ホツと
「あ、驚いたの驚かねえの」
空つ風に吹き送られるやうに路地の外から
「何んだ、八か、もう
「大きな聲でも出さなきや、
「何をまた驚いて居るんだ」
「あの野郎ですよ、此處から眞つ直ぐに飯田町の中坂下へ行くと、朝田屋の
「假宅といふ奴があるか」
「あのお縫坊の家を三べん廻つて――變な素振りを見せたら、御用を喰はせようと思つて居るうちにドロドロと闇の中に消え込んでしまひましたよ。其邊中探したが、
「まア宜からう、又
「おや、お客樣ですか」
八五郎は思はぬ深夜の客に眉をひそめて居ります。
「とんだお邪魔をいたしました。これで私も重荷をおろして歸りますが――困つたことに、來る時は夢中で飛出しましたが、私は根が
「あ、宜いとも――お靜、お客樣に提灯を出して上げな――それより八」
「へエ」
「寒い思ひをした
平次はとんでもない事を言ひ出しましたが、それを又嫌といふ八五郎ではなかつたのです。
「宜いとも、送つて上げよう。花道から取卷を連れて
八五郎はもう提灯を持つて、もう一度格子の外へ飛出してをりました。
これは平次の感でやつたことですが、若旦那の源次郎を送つて飯田町中坂下まで行つた八五郎は、思ひも寄らぬ事件の渦中に飛込んでしまつたのです。
「あ、あれはどうした事でせう」
源次郎は往來の眞ん中に立止りました。指した方を見ると、お縫の家――八五郎の
「どうしたんだ」
「あ、丁度宜いところへ、八五郎親分」
群衆の中から八五郎の顏を見て飛出したのは土地の御用聞、
「何か間違ひがあつたのか、申松親分」
「朝田屋の
「え」
「錢形の親分へ今、使を出さうと思つて居たところだよ。八五郎親分が來てくれたのは大助かりだ」
「何時のことだえ、それは?」
「下男の猪之吉が、裏の井戸傍で
「――フム――」
八五郎は
それは丁度明神下の錢形平次の家へ、朝田屋の伜門太郎がやつて來て、格子の外で平次と話をしてゐる頃でなければなりません。
「その頃私は錢形の親分の家の、路地の外に立つて、門太郎さんと錢形の親分のお話を聽いて居りました」
側から口を出したのは、隣の若旦那の源次郎です。
八五郎は兎も角
「ま、八五郎親分」
お縫は顏を擧げると、涙にうるんだ眼に、夕刻
「これはどうしたことだ、お孃さん」
八五郎もすつかり劇的な心持になつて、お縫を
母親のお信はまだ四十七八でせうが、長い間の病苦にやつれて、五十以上にも見えますが、その痩せた首筋に卷き付いた、細引を切り解いたにしても、苦惱に
「私の
さう言つて、死骸にお詫でもするやうに、深々と首を垂れたのは下男の猪之吉といふのでせう、二十二三の[#「二十二三の」はママ]むくつけき男で、色黒い、背の低い、
錢形平次が、中坂下の現場に來たのは、それから一刻も經つてからでした。
「親分、變なことになりましたよ」
「だからお前に源次郎を送らせたのだ。どうも變なことがあるやうな氣がしてならなかつたよ」
平次は家の中に入ると、先づ直接關係のありさうもない近所の衆に引取つて貰ひ、いきなり曲者の入つたといふ、お勝手口に廻りました。
「内儀さんが殺されたのは、確かに
誰へともなく言ふと、
「それは確かでございます。いつものやうにお内儀さんの湯たんぽを
「お前は?」
「召使の猪之吉でございます」
グロテスクな
「井戸端へ行くとき、裏口の戸は閉めなかつたのだな」
「お勝手の障子を閉めますので、
平次はお勝手の雨戸に手を掛けて動かして見ましたが、成程ガタピシして、容易には閉められません。
「此處は
「お勝手は東向になつて居ります」
「あの家は?」
平次はお勝手と相對した隣家の二階を指しました。
「私の家でございます」
後ろから口を出したのは、三河屋の若旦那源次郎でした。若旦那と言つても父親がないので、これが三河屋の若主人ですが、丹次郎型の
「成程あの二階からなら、此お勝手がよく見える筈だな」
平次は妙なことを感心して居ります。
「親分」
「何んだ、八」
「
ガラツ八は物々しく平次に耳打しました。
「門太郎は何を
「先刻の通りの嚴重な
「あの男は
「へエ」
八五郎は飛んで行きました。
「井戸は何處だえ?」
「此方になつて居ります」
猪之吉は案内してくれました。家の袖を廻つて、
見ると
「お前が水垢離を取るのを、誰か見て居た者があつたのか」
「この寒さで、
振り仰いだ猪之吉の顏には、妙に突き詰めた色があります。
「お前は此家に何年奉公して居るんだ」
「十八の歳から、十五年奉公して居ります」
「給料は?」
「年に四兩の約束でございましたが、旦那樣がお達者な頃、今から五年前に、質に入つて居る田舍の土地を受出すのに、五十兩といふ大金を拜借して居ります」
「お前の
「川越でございます」
「何時まで奉公して居るつもりだ」
「川越の實家は弟に任せて居りますので、少しも心配はございません。お内儀さんがお丈夫になつて、お孃さんが嫁に行くまで、此處に置いて頂く氣で居ります」
「水垢離を取つたのは?」
「御主人の御一家が、あんまり災難續きなので、そんな事でもして、信心をしたらと思ひ立ちました。此上お内儀さんに萬一の事があつては、お孃樣が可哀想だと思ひましたが、それも無駄になつてしまひました――水垢離まで取つても信心が足りなくて神佛にも見放されたのでございませう」
「ところで、そのお孃さんに縁談の口でもあつたのか」
「いろ/\御座いましたが、長し短かしで、まだ決つて居りません」
「其處に居る三河屋の若旦那とは話がなかつたのか」
「あつたやうで御座います。火事に逢つてお隣に住むやうになつてから、何彼と三河屋さんのお世話になつて居りますが、何分――」
猪之吉はプツリと言葉を切りました。
「義理の兄の門太郎がお縫さんと一緒になりたいと言つて居たさうぢやないか」
「あれは良い方でございます。
奉公人の猪之吉は、恐らくこれ以上の事は言はなかつたでせう。
平次は
「門太郎の繩を解いてやりましたよ。すると
八五郎の報告を聽き乍ら、平次はお勝手から、殺された内儀の部屋へ、念入りに
「足跡も泥も落ちてないだらう。八」
「へエ」
「門太郎があの足拵へで中へ入らなかつた
「成程ね」
内儀の死體は、床の中に寒々と横たへられたまゝ、枕元には娘のお縫が、今更潮のやうに寄せる悲歎に溺れて、たゞさめ/″\と泣いて居るのです。
薄暗い灯の下には、
「お孃さん、少し訊きたいが」
お縫の涙のやゝ納まるのを待つて、平次は靜かに
「ハイ」
しやくり上げ乍らもお縫は、一生懸命の樣子で顏を擧げます。
「妙なことを訊くやうだが、これは大眞面目な話だ。佛樣の前で、はつきり返事をして貰ひたい、お前の返事一つで下手人がわかるのだ」
「――」
お縫は
「第一番に、お前の父親の死骸に、全身の
「そんな事はございません――それは誰かの
「それから、朝田屋の火事は放火だといふ噂もあるが――」
「それは何んとも申上げ兼ねます。猪之吉は三方から火の手が揚つたと申しますし、私も裏表から一時に火の廻つたのを見て居ります」
「此處へ引越したのは、誰が言ひ出したことだ」
「お隣りの三河屋さんの源次郎さんが、一手に引受けてお世話して下さいました」
「朝田屋の
「源次郎さんがお金を出して、一手に御自分の手に證文を買ひ取つて下すつたといふことで御座います」
お縫は悲歎のうちにも、ハキハキと話を運んで行きます。
「ところで――今のところお前の義理の兄の門太郎の外に、外から入つて母親を殺すやうなものはないと思ふが――」
「いえ、いえ、あの人ぢやございません。兄さんは少しは身持が惡かつたにしても、それは私のせゐで――あの人は決して惡い人ではございません――お母さんを殺すなんて、とんでもない」
お縫は
「猪之吉はどうだ。外から入つたのでないとすると、下手人は猪之吉の外にはないことになるが」
「飛んでもない、あの人は神樣か佛樣のやうな心掛の人でございます。此間から
「水垢離を取ると見せて、此處へ忍び込めるのは猪之吉だけではないか」
「猪之吉の水垢離のうち、私は私の部屋の窓を開けて猪之吉の姿を拜んで居ります。私は猪之吉から眼も離しません」
「それは本當か」
「――」
お縫は默つてうなづきました。娘らしくパツと赤くなつた樣子です。
「お前の部屋の窓から水垢離を取つて居るのを見て居るうち、後ろの縁側を人が通つても氣が付かないだらうな」
「――」
「八、お前此處から明神樣下の俺の家まで大急ぎで
平次はいきなり妙なことを訊きました。
「四つん這になつてなら、それ位かゝるでせうよ。眞つ直ぐに立つて驅け出す分には、四半刻(三十分)ありやお釣錢が來ますよ」
「本當か」
「やつて見せませうか」
「
「?」
「お孃さん。もう一つ訊くが、猪之吉の
「え、夜廻りの拍子木の音を聽いてから、
「八、あの野郎だ」
「
次の間で耳を澄して居た源次郎が、バタバタ逃出すところを、飛付いた八五郎に
「あツ、此野郎ですかえ。いやな色男だと思つたが」
この厄介な
この激しいが、一
「お縫、俺が間違ひだつたよ――猪之吉と一緒になつて、仕合せに暮すが宜い」
「あ、兄さん」
縁側に飛出したお縫は、さすがにしよんぼりと庭に立つて居る義兄の門太郎には飛付き兼ねました。
「俺が居ちや邪魔だ。もう二度とお前達の前には姿を見せないことにしよう――それにつけても、何時までも獨りでゐちやよくないぜ――お前は可愛らし過ぎる」
「兄さん」
お縫は柱の下に
× × ×
「源次郎は――門太郎が
「へエ、驚いた野郎ですね」
飯田町からの歸り、美しい正月九日の朝陽を浴び乍ら、錢形平次は斯う八五郎に説明しました。