「わツ、親分」
まだ明けきらぬ路地を、鐵砲玉のやうに飛んで來たガラツ八の八五郎。錢形平次の家の格子戸へ、身體ごと
「何といふ聲を出すんだ、朝つぱらから。御近所の衆は番毎
平次は口小言をいひ乍らも、事態重大と見たか、寢卷の前を掻き合せて、春の
「大變なんだ、親分。早く、早く支度をして下さい。あつしはもう腹が立つて、腹が立つて」
「腹が立つて飛び込んで來たのか。こんなに早く叩き起されて、お前の腹の始末までしなきやならないのかえ――俺は
平次はさう言ひ乍らも、八五郎の取亂した姿を眺めてニヤリニヤリ笑つて居るのです。
「親分の寢起きなんかに構つちや居られませんよ。何しろ神田から下谷一圓の御用聞が狩出されて、錢形の親分には
「何んの網だ、
「
「お前も一枚入つたのか」
「あつしもたまには仲間の義理でね」
「仲間の義理で俺を出し拔いたといふのか。まア宜いや、そんな事はどうでも構はねえが、首尾よく左傷の五右衞門を捕つたのか」
「宜い
「宜い鹽梅といふ奴があるか、間拔けだなア」
「兎に角、左傷の五右衞門の野郎が、
「フーム、それは大變なことだな」
平次は唸りました。自分だけこの捕物陣から除け者にされたのは、まことに苦笑ものですが、左傷の五右衞門を、雪隱詰にしたといふのは、大した手柄でなければなりません。
左傷の五右衞門――それはまことに恐るべき
兇賊はたつた一人ですが、仕事振りの落着き拂つた態度から押して、外に一人や二人の仲間が頑張り、見張りを兼ねて何にかの時の助勢に
何より驚く可きは、戸締りや錠前を、紙の如く切り破る手際で、門は乘越え、錠前は
荒す範圍は錢形平次の繩張内に限られ、あまり遠走りしないのは、町々の木戸や、橋番や、自身番などを警戒するためとすれば、曲者は神田明神を中心に、此邊に住んでゐるものと見なければならず、その上、時々平次に宛てて『近いうちに何町の何某の家を見舞ふぞ、隨分要心するがよからう』とか、泥棒に入つた翌る日など、『どうぢや平次親分、
その手紙は紙も墨もよく、
「――一度
「明神下といふと、此邊ぢやないか」
「親分のお膝元ですよ、曲者が潜り込んだのは間違ひもなく此町内だ。三十八人の仲間が手をわけて八方を固め、
八五郎が血眼になつて飛込んだのは、この重大報告があつた爲だつたのです。まさかと思つて、親分に内緒で
「一軒々々の家搜しは、少し無法ぢやないか。御奉行の御指圖でもなきや、そんな出過ぎたことは出來ない筈だ」
平次は
「あつしもそれを言ひ張りましたが、秋葉の小平親分は聽きやしません。日頃の鬱憤の晴らし時とでも思つたか、錢形の親分の町内に曲者が逃げ込んだとわかると、すつかり張りきつて眼の色を變へて――後のおとがめはこの小平が一人で引受けた。構ふことはねえから、一軒一軒
「成程そいつは打つちやつては置けねえ」
平次は手早く顏を洗つて、
秋葉の小平を捕頭にした、三十八人の組子に、町の彌次馬を加へてざつと六七十人の一隊は、錢形平次の家を中心に、神田明神下の町家を、
それは無遠慮で猛烈で、恥を知らない沙汰でさへありました。が、後難を恐るゝ町人達は、この無法な岡つ引陣の暴擧に抗議することなどは思ひも寄らず、中には迎合さへして、自分達の家の中を土足の
この家搜し隊の活動を
「やア、秋葉の親分、大變な騷ぎだね」
さり氣ない調子で、平次は顏を出しました。言葉には言ふまでもなく非難の響は匂ひますが、顏にも態度にも、少しの
「お早やう――錢形の親分に渡りもつけずに、町内を騷がせて濟まねえが、昨夜
秋葉の小平は少し得意さうでした。元氣さうな四十男で、日頃平次にばかり手柄をさらはれ、江戸中に御用聞がないやうに思はれて居るのが心外でたまらなかつたのでせう。
「そいつは宜い鹽梅だが、此町内と言つても、
平次の調子は穩かですが、非難の意味は充分受取れます。
「だがな、錢形の、曲者は腕の立つた浪人者か何んかで、左の頬にかなり大きい
「
「
それは嫌味でしたが、平次は默つて秋葉の小平の放言を聽く外はなかつたのです。
「それにしても、こんな彌次馬が多勢集まつちや、皆の衆の迷惑は大變だらう」
「なアに、彌次馬と言つたところで、皆町内の衆だ。井戸替へか神田祭のやうな心持で手傳つてくれるよ、なア、
秋葉の小平が後ろを振り向くと、
「へエ、今日は、錢形の親分さん」
町内の海老床の親方、喜八といふ
いや、手傳ひは海老床の喜八親方ばかりではありません。叩き大工の三五郎も、古着屋の石松も、魚屋の菊治も、
「それで何が見付かつたんだ」
平次は穩かな調子で續けました。
「何んにも見付からないから不思議さ。曲者は此町内に逃げ込んだことは確かだ。それつと言ふ間もなく三十八人の仲間で、八方の出口を
「町内の衆が多勢手傳つてゐるやうだが、これは秋葉の親分が呼んだのか」
「いや、皆んな勝手に手傳つてくれてゐるよ。いの一番は
小平が説明する側から、
「錢形の親分、おせつかいをして惡かつたでせうか。ツイ
「續いて、三五郎、石松、菊治――井戸替へと
「で、秋葉の親分の見込みは?」
「曲者は紋所はわからないが、兎も角も
秋葉の小平は指などを折つて見せるのでした。
「喰ひ詰めた浪人者でも、二本差は妙に
平次の胸にはフトこんな疑問が動きます。
「兩刀を
「暮から何千兩と
「それは仕事着だよ、錢形の、職人の
あゝ言へば
「親分、どこへ行きなさるんで?」
昌平橋を渡つて、八つ小路へ差かゝつた平次の後ろから、八五郎は泳ぐやうに追ひすがりました。
「お膝元を荒されるのを見ちやゐられないよ――平次は何をして居るんだ――と御町内の衆から顏を見られさうで」
「そんなものですかえ。で、行く先は」
「鍛冶町の
「ぢや、あつしもお供しませう」
「お前は秋葉の親分と一緒に、俺のお膝元でも荒すがよからう」
「皮肉ですね、親分」
二人はそんな事を言ひ乍ら、ツイ鼻の先の鍛冶町の上總屋の
「今日は取込みがあつて、稼業を休んで居りますが」
番頭は店を締め忘れたことに氣が付いて、あわてて入口に立ち
「質を置きに來たんぢやないよ。少し調べ度いことがあるんだ」
八五郎は平次の
「へエ、これは親分さん方、飛んだお見それ申しました」
「まア、宜い、曲者は何處から入つたか。先づ、それから見せてくれ」
「へエ、へエ、どうぞ
番頭に案内されてグルリと路地を廻ると、
潜戸を入ると裏口で、此處も同じ手口で、雨戸に穴を開けてあります。
「八、此穴をあけた刄物は何だと思ふ?」
平次は、陽に
「
「いや、肉の厚い刄物ぢや、斯うは切れないよ」
「
「やつて見るが宜い、剃刀といふ奴は、峯があるから、思ひの外使ひにくいものだ」
「
「その次は長刀に
平次はその問題を其儘にして、曲者の足跡ををたどるやうに、家の中へ入りました。
「曲者は一人でございました。
番頭の説明はなか/\よく行屆きます。
「
「
「有難う。それだけわかると、大變助かるよ。ところで主人の容態は?」
「幸ひ大したことは御座いません」
「一寸逢つて行き度いが」
「どうぞ、此方へ――取亂して居りますが」
番頭は平次と八五郎を、奧の六疊に案内してくれました。
「これは錢形の親分さん」
顏中
「おつと、動いちやいけない。其儘で宜いから、昨夜の事を
「へエ、有難う御座います。全く飛んだ災難で――昨夜と申しても、今朝
主人も思ひの外元氣で、小さい聲ですが、説明はよく行屆きます。五十前後でせう、何んとなくきかん氣らしい中老人でした。
「それから?」
「女や子供に怪我をさせてはつまらないと思ひまして、帳場にあつた金を五六十兩
「確かに刀を拔いた樣子はなかつたのだね」
「
「その傷を見せてもらへまいか」
「どうぞ御覽下さいまし、もう
主人は傍に居る女房に手傳はせて、頭から顏へ
「フーム、成程」
薄刄で切つたらしい傷は、
「親分、この傷は刀や
「薄刄の刄物だよ――いや、有難う、風を當てない方が宜い。これでいろ/\の事がわかつた」
平次は丁寧に禮を言つて外へ出ました。
神田明神下のもとの町へ歸ると、秋葉の小平は、五十何軒の町家を
「錢形の親分、遲かつたよ」
小平の聲は得意さうに彈みます。
「遲かつたといふと?」
「左傷の五右衞門の正體が判つたのさ。錢形の親分に渡りをつけなくて惡かつたが、まア勘辨してくれ、お互に十手一本の附合ひだ」
「すると?」
「この町内に腕の立つ浪人は三人、石山大八といふ方は六十過ぎの老人で、裕福に暮してゐるし、間部三十郎さんは土地に十年も住んでゐて、年は若いが神田中に知られた顏だ。殘る藤波龍之進これは一年前に此處へ越して來て、病氣と言つて滅多に外へも出なかつたといふぢやないか。町内でも知つてゐるのは、ほんの向う三軒兩隣の二三人だけ。年恰好も四十そこ/\、
「え?」
平次は驚きました。藤波龍之進は平次の家からは丁度背中合せの町裏に住んでゐるので、一年前に越して來たことは知つてゐ乍ら、まだ顏を合せる
「無理もないよ、同じ町内に住んでゐても、藤波龍之進は隣町の風呂へ行くさうだから、錢形の親分とは、滅多に顏が合はないだらう。それにしても、明神下で左傷の五右衞門を擧げちや、錢形の親分に濟まねえわけだ。八丁堀の旦那方へは、錢形の親分が手を貸したことにして置かうよ。せめてさうでも言はなきや――」
秋葉の小平は全く良い心持さうです。
「親分、親分それを默つて――――」
聽き兼ねたのは八五郎でした。が、平次はそれを眼顏で押へて、
「それはお手柄だつたな――お上の御用に遠慮はないよ――ところで、盜み溜めた金は三四千兩ある筈だが、それは見付かつたのか」
「まだ口を割らないが、
「
「それもいづれ出て來るだらう――
小平はさう言つて、懷中から黒の覆面頭巾を取出して見せるのでした。
「恐ろしく不器用な縫ひ方ぢやないか。こいつは男の仕事だ」
「藤波龍之進が自分で
「娘があつた筈だが――」
平次はさう言ひ乍ら、不器用な覆面頭巾を調べて居りましたが、フト、
「おや、この頭巾の
妙なものを見付けたのです。が、
「それぢや、秋葉の」
自分の手柄に
「親分」
不意に家から飛出したのは、何時の間にやら歸つて居た八五郎でした。
「何んだ八、相變らずお前は神變不可思議だぜ。何時の間に此處へ歸つたんだ」
「そんな事はどうでも構ひませんよ、藤波龍之進のお孃さんの
「そのお孃さんは若くて綺麗だらう」
「その通りで、そりや大したきりやうで」
「お前の顏にさう書いてあるから不思議さ」
無駄を言ひ乍ら家へ入ると、女房のお靜を相手に、大泣きに泣き乍ら訴へて居るのは、十八九の武家の娘でした。
藤波龍之進の一人娘で多與里、その可愛らしさは平次も聽いて居りましたが、顏を合せるのは始めてです。
「お前さん、藤波さんのお孃さんが、お父さんが惡い事をなさる筈がない、昨夜も現に何處へも出なかつたと仰しやるんですよ」
お靜は取なし顏にいふのでした。何時まで經つても若くて新鮮で、情愛の濃やかな女房振りです。
「親分さん、お願ひでございます。父をお助け下さい――父は西國のさる大藩の御留守居でしたが、惡人の
涙の隙から、多與里の訴へは
「お孃さん、御心配なさることはありません。お父樣が惡いことをなさらない事は、此平次がよく知つて居ります。必ず無事で戻るやうにいたしますが、その代り私のお訊ねすることに、眞つ直ぐに――包み隱しをせずにお答へ下さるでせうね」
「それはもう」
涙を
「お父樣を怨んでゐる方はありませんか。いえ/\、舊御藩中でなく、この町内の人で」
「心當りは御座いませんが。父は滅多に外へ出ませんので」
「では、お孃樣に縁談を申込まれて、斷わられた者はある筈ですが」
「それなら御座います――御近所の間部三十郎樣」
「外に」
「さア」
「お孃樣に言ひ寄つた者は」
平次も若い娘に對して言ひにくいことを言はなければなりませんでした。
「それなら二三人ございます」
「例えば?」
「御町内の方では古着屋の石松さん、
「有難う、先づ差當りそれを
「へエ」
「お前は古着屋の石松のところへ行つて、羊羹色の紋付がないか、念入りに調べてくれ」
「へエ、親分は?」
「俺は
町内の騷ぎは一應納まりましたが、まださすがに床屋へ來るほどの暇人もなく、平次が海老床へ入つた時は、親方の喜八は
「親方、ちよいと當つてくれないか」
「あ、親分さん――まだ當るほど伸びて居ないぢやありませんか」
「なアに、日暮から柳橋まで行かなきやならないんだ。この騷ぎぢや參會でもあるまいと思つたが、何んとかの五右衞門がお手當になりや、こちとらは暇だ」
「へツへツ、綺麗なところが、首を長くして待つて居るといふ寸法で。あやかりものですね」
無駄を言ひ乍らも立ち上つた喜八は、煙草をポンと叩くと、煙草盆を押やつて、手馴れた
「ところで、今朝は飛んだ骨折だつたね」
「へツ、物好きですね――あとでつまらねえおせつ介をしたものだと思ひましたよ。剃刀を持つて居ればこそ、こちとらも一人前のつもりだが、相手が腕が出來て居るさうですから、暴れ出された日にや無事で濟みません」
「さうでもあるまいよ。親方は身のこなしが型にはまつて居るから、町道場へ通つて
「とんでもない。年期を入れたのはヘボ
無駄を言ひ乍ら、喜八は平次の後ろに廻りました。手には今
平次はハツとして振り返りました。喜八の顏には、言ふに言はれぬ
上總屋に入つた曲者――左傷の五右衞門の着てゐた、羊羹色の紋附の裏は、
上總屋の裏の潜戸や、雨戸に穴をあけた刄物は、刀や
もう一度振り返ると、思ひなしか喜八の顎には、
「親方、さすがは稼業柄で良い道具を持つて居るね。その
「つまりませんよ、親分」
「いや、ヤスリで峰を
平次の手はツイと伸びて、剃刀箱を引寄せようとした時でした。その時早く――かう言つた古い言葉が、こんな時最も有效に働きさうです。平次の顎に臨んで居た喜八の剃刀が、生命を吹込まれたやうに躍動して、そのまゝ平次の喉笛へ――、
「あツ、何をする」
平次は危ふくその手首を押へて、逆に
「野郎ツ、くたばつてしまへツ」
それを見て飛込んで來た
「親分、
ガラツ八の八五郎が、ぼんやり古着屋の石松のところから引揚げて來たのです。
まんじ巴になつた激しい爭ひの後、ガラツ八が剃刀の
× × ×
左傷の五右衞門といふのは、
「藤波龍之進の娘の多與里に
「成程ね」
喜八と周吉が擧げられてから、平次は例によつて八五郎の爲に斯う説明してやります。
「あの追ひ込み騷ぎが始まつた時、喜八は自分の家へ逃げ込んだが、あんまり急で着物を着換へる隙がなかつた。幸ひ日頃姿を變へる用意に拵へた羊羹色の紋附を裏返しにして、
「へエ」
「雨戸を切つたのも、上總屋の主人を斬つたのも、
「へエ、さうですかね――それにしても秋葉の小平親分が馬鹿を見て、宜い心持でしたね」
「馬鹿野郎、人の
さう言ふ平次だつたのです。
「でも、あの多與里さんといふお孃さんは、たまらねえ可愛らしい娘ぢやありませんか」
「當つて見ろ、お前も
平次はさう言つてカラカラと笑ふのでした。