「親分、お早やうございます。――お玉ヶ池の邊に、妙な泥棒がはやるさうですね」
ガラツ八の八五郎は、朝の挨拶と一緒に、
「妙な泥棒は苦手だよ。此間もうちの三毛猫を盜んだ野郎を縛つて
少しばかり青葉が覗く縁側の障子を開けて、疊に腹ん這になつたまゝ、
「今日は良い煙草がありますよ、この通り手刻みなんかぢやありません。毛のやうに細かくて
ガラツ八はさう言ひ乍ら、懷中から半紙に包んだ一と握りの煙草を取出して、指先でちよいと
「成程こいつは良い葉だ。國分か、水戸かな、――何處でくすねて來たんだ」
「人聞きの惡いことを言つちやいけません。お玉ヶ池の變な泥棒のことを調べに行つて、
「成程、お玉ヶ池には百足屋といふ大きな煙草問屋があつたな、――だが、その
「大丈夫ですよ、そんな
「ところで變な泥棒といふのは何んだ」
平次は思ひ直して話を本筋に引戻しました。
「お玉ヶ池から小泉町へかけて、今月に入つてから五六軒泥棒に入られましたよ」
「盜られたのは?」
「それが不思議なんで、大きい家を狙つて、雨戸を外して入り、泥足で家中荒し廻るのに、大した物を盜るわけでもなく、精一杯のところで、
「泥棒の姿を見た者はないのか」
「二人三人あるやうですが、恐ろしく素早い泥棒で、
「それだけぢや
「物騷で叶はないから、何んとかしてくれと、町役人がうるさく言つてますが」
「手の付けやうはないぢやないか。盜んだ品を皆んな捨てて行く泥棒ぢや、――だが、そいつは何んか
平次は何やら考へ込んでしまひました。八五郎はその顏を眺め乍ら、プカリプカリと
この變な小泥棒事件が、思はぬ發展を遂げて、世にも奇怪な結果にならうとは、さすがの平次も氣が付かなかつたのです。
それから四五日經つて、一と雨降つた後のよく晴れた朝のことでした。
「親分、お玉ヶ池の泥棒は、到頭大變なことをやりましたよ」
ガラツ八の八五郎は、例の
「何んだ、いよ/\猫の子でも盜んだといふのか」
「冗談ぢやありません。昨夜
「到頭やつたか――今までの變な仕事は、皆んなその大仕事へ運ぶ捨石だつたに違げえねえ」
「出かけますか、親分」
「行かなきやなるまい、お玉ヶ池は鼻の先だ。それに、お前は百足屋に國分煙草一と
そんな事を言ひ乍らも、平次は手早く支度をしました。捕繩を
「あい」
後ろから戀女房のお靜が、カチ、カチ、カチと鎌を鳴らして切火を掛けてくれるのでした。
お玉ヶ池の
場所は煙草臭い店から、暗い廊下を入つた奧の一と間。女房のお貞と主人の市之助が、居間にも寢部屋にも使つて居る、薄暗い六疊で、其入口の敷居の上に、仰向に引くり返つて居る死體を、まだ檢屍前で其儘にしてあつたのです。
「これは、錢形の親分さん」
挨拶をしたのは、女房のお貞の父親で、小泉町に大きな酒屋の店を持つて居る、
「御苦勞樣で」
その後ろから
その横の方に、しよんぼりと坐つて居るのは、内儀のお貞で、二十七八の青白い顏と、品の良い物越しを特色にした、日蔭の
殺された主人の市之助は、三十二といふにしては、少し老けて見える男でした。女と酒に浮身をやつして、人知れぬ苦勞を重ねたためか、それとも身だしなみが良過ぎて、
良い男のくせに、顏は恐怖と苦痛に歪んで、妙に物凄まじく、胸の脇差は拔いてありますが、黒つぽい
「
「此處にございます」
平次の聲に應じて、三五郎は
「その刄物に見覺えはあるのか」
「兄の物でございます、何時も隣室の
「――」
平次はうなづきました。曲者は先づ隣の部屋に入つて脇差を取出し、それから此處へ來て主人を刺したことになるでせう。
「親分、死骸の手首にひどい傷がありますね」
「氣が付いたか――曲者と
「少し變ぢやありませんか」
八五郎は尤もらしく首を
「最初主人が刄物を持つて居たのさ――、曲者がその手に噛み付いたので、刄物を取落した――曲者はそれを拾つて主人を刺した、といふことになるかな」
「すると脇差を取出したのは、曲者でなくて主人といふことになりますね」
「曲者が不案内な納戸へ入つて、先づ脇差を取出し、それから主人夫婦の寢部屋へ入つたと思ふより、主人の市之助が、此節物騷だから、脇差を用意して寢て居たといふ方が本當らしくはないか、八」
「さう言へば、そんなものかも知れませんね」
八五郎は一應この説明で
「ところで、
平次は内儀のお貞を
「
「その時のことを
「私には何んにもわかりませんが、夜中にフト眼を覺ますと、私の枕元に人が立つて居りました。そしてもう少しで
お貞の話はしどろもどろです。
「その間主人はどうして居たんだ」
「どうして居たか、よくわかりません。店の方から
「曲者は」
「その騷ぎの間に逃げてしまつたことでございませう」
お貞の話の
「曲者が内儀さんの喉を狙ふ前に、主人を刺したのか。それとも、その後で、灯が消えてから組討になつて刺されたのか」
「それはよくわかりませんが――」
お貞の眼は何やら訴へるやうでした。
「曲者の風體は?」
平次は問ひを改めました。
「黒つぽい着物を着た、背の高い男で――」
「物は言はなかつたのだな」
「え」
内儀は覺束ない記憶を
「主人を狙はずに、内儀さんを狙つたわけだな」
「ところでもう一つ訊き度いが、主人は夜中に殺されたといふのに、寢卷姿ではなくて、ちやんと
「昨夜は、――あの遲く戻りましたので」
「何處へ行つたのだ」
「――」
お貞は答へ兼ねて居ります。
「それにしても、お内儀さんは寢て居るところを、喉笛を狙はれたと言つたね」
其處に大きな
「親分」
不意に八五郎は、變なものを振り舞はし乍ら飛んで來ました。
「何んだ、八」
「變なものがありますよ、――お勝手口に立てかけてあつたんですが、
八五郎が持つて來たのは、
「俺達が
「それにしちや、箒に着物を着せたのは變ぢやありませんか」
「この箒や單衣に見覺えは?」
平次はそれをお貞の方に見せました。
「一向見覺えのない品ですが」
その問ひを引取つて答へたのは弟の三五郎でした。
「お勝手はひどい泥だつたさうですよ。下女のお兼がつまらない氣をきかして、すつかり拭いたさうですが――」
「それは飛んだことをしたものだな」
平次は立上つて、其處から二た間三間手前のお勝手を覗きました。主人夫婦の部屋から其處へ來る間に、下女のお兼の部屋がありますが、あとは納戸や便所で、曲者がお勝手から六
下女のお兼といふのは、十七になつたばかり、健康でお人好しで、此上もない働きものですが、その代りこんなのは、床に入つたら最後、耳の側で鐵砲を
「お前は此家に何年奉公して居る」
「去年の春からですよ」
お兼は少し
「主人はどんな人だ」
「へ、親切な方でごぜえますよ」
「お内儀さんは?」
「良い方ですが、お氣の毒でね」
「何が氣の毒なんだ」
「お身體が弱いし、あの通り内氣な方だから、無理もないが――」
お兼はそれ以上のことを言ひません。
平次は好い加減に
お勝手の敷居がひどく
「此締りは誰がするんだ」
「私がしますだ、――
「お前が輪鍵を掛けるのを忘れたんだらう」
八五郎が顏を出します。
「そんな筈はねえだが」
下女の話を
「八、主人の身持がよくなかつたやうだ、店中の評判を聽いてくれ。それからお内儀のお貞の評判、これは近所で聽く方が宜いだらう」
「親分は?」
「俺は歸るよ、外から入つた曲者を、此處で調べやうはあるまい」
「店の者に逢つて見ちやどうです」
「無駄だらうと思ふが、――
平次はさう言ひ乍ら店へ出て行きました。帳場を預かる番頭の吉兵衞は、五十二三の禿げ頭で、これは通ひで、夜は此家に居ず、店に寢るのは
この三人は奧の事は何んにも知らず、同じ屋根の下に寢て居乍らも、お内儀などとは滅多に顏を合せることもない樣子です。
主人の弟の三五郎だけは、奧にも店にも立入り、煙草切も手傳ひ帳場も見て居りますが、これは無類の堅造で、夜分はお勝手の例の三疊に陣取り、
「それから、八」
「へエ」
「もう一つ頼みがあるよ、――此間から泥棒の入つた家を一軒々々當つて見てくれ」
「?」
「泥棒の入つた日と
「そんな事ならわけはありませんよ」
「時刻は半刻と間違つちやいけないよ、――忘れないやうに紙へ書いて來るが宜い」
「へエ、――書くのは苦手だが、やつて見ませう」
平次の考へは八五郎に
「親分、大變なことになりましたよ」
ガラツ八が飛込んで來たのは、その翌る日でした。
「又泥棒が何處かへ入つたとでも言ふのか」
平次はひどく落着いて居ります。
「お
「誰だいその下手人といふのは?」
「今から七年前――あのお内儀のお貞がまだ萬屋の娘だつた頃、
「歌松が何うしたといふんだ」
「戀の
「七年前の戀の怨みか、――大層辛抱強く待つたんだね」
「歌松が本當に下手人でせうか、親分」
「歌松は背の高い男だな」
平次は妙なことを訊きます。
「
「歌松の足袋は何文だ」
「妙なことを訊くんですね、――背が五尺八寸ありや、足袋は十二文くらゐ
「百足屋殺しの曲者は、齒の
「へエ?」
「それから曲者は五尺そこ/\の小作りの男だ、――お神樂の清吉にさう言つて教へてやれ」
「へエ」
「ところで、お前に頼んだことはどうだ」
「
「道樂者だとは聞いたが――」
「ちよいと男がよくて、
「惡い奴だな」
「その上お内儀のお貞が内氣なのを良いことにして、近頃は町内に
「
「宵のうちは妾のお染のところへ行つて居たさうですが、不用心だからと言つて、夜中に自分の家へ歸つた――とこれは弟の三五郎とお内儀のお貞さんの口が揃つて居ます」
「お内儀の方はどうだ」
「無類の評判ですよ、店の評判は言ふ迄もなく、御近所の
「弟の三五郎は?」
「兄の市之助と血を分けた兄弟とは思へませんよ、堅くて正直で、
「評判の惡いのは殺された主人の市之助だといふわけか」
「あんな評判の惡い男はありません。死んだとなると、
ガラツ八は酢つぱい顏をするのです。
「ところで、お玉ヶ池を荒し廻つた、泥棒の調べは出來たか」
「書いて來ましたがね、あつしに字を書かせるなんざ、親分も
「心配するなよ、眼をつぶつて讀むから」
「冗談ぢやねえ」
平次は八五郎が名筆を
「一緒に來るか、八」
「何處へ行くんで」
「萬屋から、お妾のお染のところへ廻らう」
「あの女は苦手ですよ親分」
「若い女は皆んな八の苦手さ」
萬屋源兵衞は神田の大町人の一人で、主人の源兵衞は一代に巨萬の富を積んだ人間に共通の、此上もなく
「お氣の毒なことで――」
錢形平次の言ふ世間並の言葉を受けて、
「
萬屋源兵衞は、一國者らしい無遠慮さで、自分の
「そんなに
「世間知らずの娘が命がけで頼むから、七年前に、大枚の持參で嫁にやつたが、持參金を費ひ盡すと、今度は毎月の無心だ。あんまり圖々しいから、此半歳ばかりは百も合力しなかつたが、ありや日本一の極道者だね――親分の前だが」
源兵衞の口には遠慮もありません。
「この先も
「はつきりさう言ひ渡してやりましたよ。妾に注ぎ込む金を貢ぐやうなものだから、私が甘くすれば、娘を泣かせるばかりで」
「成程ね」
「死んだ者の惡口を言つちや濟まないが、好きで嫁に行つた娘は、自分の不心得から出たことと、今ぢや
萬屋源兵衞の話に
お玉ヶ池――も幕末の頃は、大きな
「お前は
「まア」
入口の障子に半身を隱して、その二人の岡つ引を、存分に非難した調子で迎へたのは、二十三四の、豊滿此上もない女でした。髮の毛の
「あの晩、市之助が歸つて行つたのは何刻だ」
平次の問ひはいきなり
「夜半過ぎだつたかも知れません。急に家の事が心配になつたからと言つて――」
「今までも時々そんな事があつたのか」
「え、十日に一度、七日に一度、夜中に歸ることがありました」
「夜中に歸つた晩を覺えて居るなら、先月から順序に言つてくれ」
「そんな事を覺えちや居ませんよ」
お染はまた障子に
「そいつは大事なことだ、何んか思ひ出す工夫はないか」
平次は容易に
「お秋が覺えて居るかも知れません。あの人は物覺えの良い女ですから」
お染は引込みましたが、間もなく三十前後の恐ろしく
「旦那樣が夜中にお歸りになつたのは、先月の十日と二十三日と二十八日と、今月になつてから三日と七日、それから
この
「有難う、それで大助かりだよ、――ところでお染」
「?」
平次は問ひを續けました。
「
「そんな事も言はなきやなりませんか」
お染はすつかり
「まア、お白洲で言ふより、此處で言つた方が無事だらうよ」
「月々五兩のきめでしたが、――でも十兩にも二十兩にもなつたことがあります」
「大層張つたものだな、――ところで市之助は、近い内にお前を百足屋の家へ引取ると言つた筈だが――」
「そんな嬉しがらせを言つて居ましたけれど――綺麗なお
お染は、それはあまり當てにして居ない樣子でした。
「大變な女ですね、親分」
お染の家から出ると、ガラツ八はペツペツと
「遊び馴れた百足屋市之助が好きさうな女ぢやないか」
「ところで、下手人は誰でせう、親分」
「まだわからないのか、八」
「へエ」
八五郎はキナ臭い顏をするのです。
「百足屋へ行つて見よう、下手人はもうわかつて居る筈ぢやないか」
「それがわからないから不思議で」
二人は百足屋へ入つて行くと、平次は店に居た弟の三五郎に耳打して、女房のお貞を、人目を
「さて、――主人の市之助を殺した下手人は、この平次には判つたつもりだ。よく
「親分さん――」
三五郎は泳ぐやうな手付きをして、膝を立て直しました。が、平次は靜かにそれを止めて續けるのでした。
「百足屋市之助、――お前には兄、お内儀さんには
「まア、親分さん」
お貞はその恐しい
「いきなりお内儀を殺しては、直ぐ知れる。そこで、町内の物持を五六軒も荒し廻り、泥棒の仕業と見せようとした。
「これは主人がお染のところから夜中に歸つた晩に限つて起つたことで、お染のところの下女の言葉と八五郎の調べとピタリと合つて居る」
「――」
「泥棒は背の高い肩幅の廣いヒヨロヒヨロした男だと言はれて居るが、主人は人並外れて背の低い男だ。それは
「――」
「この邊で宜いといふとこで、主人は一昨日の晩自分の家に忍び込んだ。何處からでも入れるのに、わざとお勝手口の戸をコジ開け
「――」
「さて、主人は
平次の論告は終りました。その言葉の中ば頃から、深々とうな垂れた二人は、此時平次の前にヘタヘタと崩折れて、
「その通り、少しの違ひも御座いません。まさか實の兄とは知らず、殺す氣もなく突き出した闇の中の刄物で、私は大それた事をしてしまひました。此上はいさぎよくお繩を頂戴いたします」
三五郎はさう言つて、觀念の兩手を後ろに廻すのです。
「あれ、三五郎さん、惡いのはお前さんぢやない、――どうぞ私を」
お貞も一緒に縛られて行くつもりでせう、後ろに手を廻して、困じ果てた八五郎の膝に
「兄殺しは重罪だが、自分の家へ入つても泥棒は泥棒に違ひない、それを暗闇の中で成敗したのは
平次は靜かに八五郎を
「歸りませうよ、八丁堀の旦那衆のお
「それも宜からう」
我が意を得たりと言つた顏で、平次は立ち上がりました。三五郎とお貞――この純情な二人の男女の