錢形平次捕物控

毒酒

野村胡堂





「親分、今日は、良い陽氣ですぜ。家の中に引つ込んで、煙草の煙の曲藝をやつてゐるのは勿體ないぢやありませんか」
 ガラツ八の八五郎は、入つて來るなり、敷居際に突つ立つて、斯んな事を言ふのです。
「大きなお世話だよ、どうせお前のやうに、からけつのくせに、花見に出かけるほどの膽力はないからだよ。――陽氣が良いから、日向に引つくり返つて居ても、トロリと醉ひ心地になるぜ」
 錢形の平次は、斯う言つた無精者でした。尤も縁側に寢そべつて、街の遠音を夢心地に聽き乍ら、白雲の行きかひを、ひさしの間から眺めて居るのも滿更惡くない陽氣です。
「天道樣に照らされて、ボーツと醉心地よひごこちになるなんざ智慧がなさ過ぎますね。今日のやうな日には、何處へ行つても花さへありや杯の雨が降りますよ」
あきれた野郎だ、人の酒で花見をする氣でゐやがる」
「上野は筋の良い客が居るから、たまには小袖幕こそでまくから呼込まれるやうな都合にならないものでもあるまいと思つてやつて來ると――」
「馬鹿野郎、序幕じよまくでお姫樣に見染められる氣でゐやがる」
「それくらゐ押が強くないと、結構な花見は出來ませんよ、――ところで、その氣で上野へ出かけると、山下で大變なものに出逢でつくはしたんで」
 ガラツ八の八五郎は、何やら仕事を嗅ぎつけて來た樣子です。
「お姫樣が山下で虎になつて居たとでもいふのか」
 平次はまだ茶かし氣味です。
「殺しがあつたんですよ、――尤も斬つたのは浪人ながれつきとした武家で、斬られた方は油蟲のやうな安惡黨だから、こいつは場所次第では、無禮討でも濟んだ筈ですが、困つたことに車坂御門の側で、最初に驅け付けたのは御山おやま同心だ」
「それぢや寺社のお係りだらう、お前が花見を諦めるほどの筋ぢやあるめえ」
「それがいけねえ、車坂御門の側で血を流したに違げえねえが、死骸のあつた場所は矢張り虎門の外だ」
「話がうるさいね」
「土地の御用聞や町役人につかまつて、到頭半日丸潰まるつぶれ、――このまゝで歸つても恰好がつかねえから、一應親分の耳にも入れて」
「丁度空きつ腹の恰好もつけようといふんだらう」
「まア、そんな事で」
「お靜、聞いたらうな、八にときを上げる支度だよ」
「ハイ、もう直き出來ますが」
 平次の戀女房のお靜は、お勝手でさはやかに返事をしました。
「一體その車坂御門外の刄傷沙汰にんじやうざたといふのはどうした事なのだ。目刺めざしの燒けるうちに、ざつと筋を通して見な」
 平次はやうやとぐろをほぐして、煙草盆を引寄せました
「斬つたのは山下の御浪人で、大寺源十郎といふ人、この人は柄が小さくて、顏も聲も女の子のやうに優しいが、腕は餘つ程出來るやうですよ」
「その人なら、おれも顏くらゐは知つて居るよ」
「昨夜御切手町の藥種屋長崎屋庄六の家にウンザのケエがあつて」
「なんだ、そのフン反り返つた――てえのは」
「ウンザのケエですよ、――何んとかや、かなつて、十七文字並べる奴、都々逸どどいつ端折はしをつたの」
俳諧はいかいだらう」
「そのケエですよ、集つたのは、山崎町の酒屋倉賀屋倉松と、車坂の呉服屋中田屋杉之助、それに浪人の大寺源十郎と主人の庄六を入れて四人、子刻こゝのつ(十二時)過ぎまでパチパチやつた」
「馬鹿だなア、花合せぢやあるめえし、ヘエケエをパチパチやる奴があるか」
「素人量見ですよ、どうせあつしはそんなチヨボクレは知らねえ、――兎も角子刻こゝのつ過ぎまで噛み合つて、――これもいけませんか」
「それからどうしたのだ」
「車坂へ歸る中田屋杉之助と、山下へ歸る大寺源十郎と一緒に長崎屋を出た所で、提燈ちやうちんが一つ、長崎屋の紋の付いたのを持つて、杉之助が先に立つて來たが、途中で紙入を忘れた事を思ひ出して、中田屋杉之助がもう一度長崎屋へ引返した」
「――」
「その時、どうせ私の家は近いから、と提燈を大寺源十郎に持たせ、その上夜半から急に薄寒い小雨になつたので、――失禮だがまだ新しいから、これを――と、用心のために着て居た合羽かつぱを脱いで、辭退する大寺源十郎に着せ、中田屋杉之助は傘だけ差して長崎屋に戻り、幸ひ無事に座布團の下に入つて居た紙入を取つて貰つて、そのまゝ家へ歸つた」
「――」
「一方、中田屋杉之助の合羽を着て、長崎屋のしるしの入つた提燈を持つた大寺源十郎は、少し風邪氣味だつたので、薄寒い襟元えりもとをかき合せ乍ら、正寶寺門前まで來ると、いきなり闇の中から飛出して後ろからパツと匕首あひくちで土手つ腹を突いて來た者がある」
「聲も掛けずにか」
「え、卑怯ひけふな野郎で、鐵砲玉のやうに飛出すと、油斷をして居る大寺源十郎の後ろから身體ごと叩き付けて來たんださうです。――大抵の者なら芋刺いもざしになるところだつたが、御浪人は、腕が良いから、サツとかはした。と、前へのめるかと見た曲者は、これも恐ろしい腕利きで、クルリと立直つて、今度は正面からいのしゝ突きに、サツ、サツ、サツと突いて來たんださうで――」
「フム」
「誰だツ、名乘れツ、と言つたが物も言はない、あんまり執拗しつこく來るので、持て餘した大寺源十郎、合羽の下に隱すやうにして持つて居た一刀、引拔き樣サツと浴びせると、相手も油斷して居たものか、大袈裟おほげさに斬られて死んでしまひました。――その騷ぎを聞付けて、飛んで來たのは御山同心と、近所の衆。提燈のあかりで見ると、斬られて居るのは、何んと下谷淺草一圓にまむしのやうに嫌はれて居る、山の宿の鐵といふやくざ者。金にさへなれば、どんな事でもするといふ、箸にも棒にもかゝらぬ野郎ぢやありませんか」
 八五郎はやうやく語りをはりました。
「それつきりか」
「いえ、これつきりぢや唯の追剥おひはぎで、一席辯ずる程のこともありませんが、後で死骸を調べて見ると、鐵の野郎の懷中に、小判で十兩といふ大金があつたんだから話の種でせう」
「フム」
「小ばくちと女で身を持ち崩して居る鐵の懷中に十兩とまとまつた大金があるわけはなし。――いや、それどころではなく、近頃不漁しけ續きで昨日の晝頃まで百も持つて居なかつたのは、仲間は皆んな知つてゐるし、七にも八にも置く物はなし、鐵の野郎には一貫と纒まつた物を貸す粹興すゐきよう人もないとなると、一體此十兩は何處から出た金でせう?」
「俺が知るものか」
「もう一つ變なことに、その十兩の金を包んでゐる紙といふのは、プンプン藥の匂ひのする、長崎屋の印の入つた藥袋だとしたら、どんなものでせうね。親分」
 八五郎は膝を進めました。
「誰かの細工だらうよ、だが、長崎屋でないことだけはたしかさ、自分の店の名の入つた藥袋へ金を入れて人にやるのは變ぢやないか」
あつしもさう思つたから、三輪の萬七親分が變なことを言ふのを尻目に、此處まで飛んで來たわけです。どうしたものでせう、親分」
 八五郎は一氣に辯じて最後の問ひを投げ出しました。


「フーム、それは面白いな、俺の方にも、少しばかり思ひ當ることがあるんだが――」
 錢形平次はうなりました。火の消えた煙管を脂下がりに、滅多に見せない眞劍な顏になるのです。
「へエー、どんな事に思ひ當つたんで」
「車坂の中田屋杉之助が、變なことを言つて來たんだ――もう十日も前かな」
 平次は指などを折り乍ら續けるのでした。
「その中田屋の主人杉之助が、いきなりやつて來て、――私は惡者に附け狙はれて居るから、何んとかして下さい――といふ頼みだ、三十そこ/\のちよいと好い男だよ」
あつしも逢ひましたよ。御山同心が大寺源十郎を一應取調べて居ると、番屋へやつて來て、――曲者が狙つたのは、此中田屋に違ひありません、合羽をお貸しした上、提燈まで差上げて、飛んだ御迷惑をかけました、曲者は人違ひをしたので、大寺樣には何んの不都合もある筈はございません――と一生懸命辯じて居ましたよ」
「その男だ、色の淺黒い、苦味走にがみばしつた、ちよいと好い男の――」
「さう言へば、少しばかり親分に似て居ますがね」
「馬鹿なことを言へ」
「ところで、その中田屋がどんな事を言ふんで――」
う/\とはつきり言へるやうな、形のあることではないが、近頃誰かに附け狙はれて居るやうで、不氣味で仕樣がない――と言ふのだ」
「へエ」
「外へ出ると、夜も晝も誰かにけられるし、夜分は何んとも知れない者が、家の廻りにウロウロして居る、毎朝戸を開けて見ると、怪しい足跡で、窓の外や庇の下が踏み荒されてゐると斯う言ふんだ」
「妙な心持でせうね」
「その時はそれなりに聽き流して置いたが、山の宿の鐵などといふ命知らずの惡者をけしかけ、夜道で待ち伏せして中田屋を狙ふのはたちが惡いな、――俺はそんな細工をする奴は大嫌ひさ」
 平次は此得體の知れない事件に對して、妙に不氣味さと義憤を感じた樣子です。
「行つて見ませうか、親分」
 八五郎はさそひにかゝりました。
「よからう、お前の言ひ草ぢやないが、今日は家に引つ込んでゐるやうな陽氣ぢやないやうだ」
 手早く仕度をした平次は、午後の街へ飛出しました。後ろからは長んがいあごを撫で乍らガラツ八の八五郎がフラフラと跟いて行くのです。
「道順から言ふと、山下の御浪人の家が先ですよ。それから車坂御門の現場で、三番目が、中田屋で――」
 ガラツ八は案内顏になります。
「いや、中田屋が先だ、――火元は其邊らしいよ」
「そんなもんですかねエ」
 八五郎が先に立つて、中田屋の暖簾のれんくゞると、
「入らつしやい」
 白雲頭の小僧が一人、それでも威勢よく聲を掛けました。二間間口の淋しい店で、主人の杉之助が、小唄につたり、俳諧はいかいひねつたり、商賣が身につかないのもうなづけます。
「主人は居るかい」
「へエ?」
 よくやつて來るさし賣りか押借おしがりとでも思つたか、小僧は急には取次がうとしません。
「神田の平次と八五郎が來たと言つてくれ」
 後ろから平次が聲を掛けると、奧でそれを聞いたものか、主人の杉之助は、少しあわてた樣子で飛出して來ました。
「これは親分樣方、御苦勞樣でございます。まア、どうぞ此方へ」
 二人を奧の一と間に案内します。さう言へば少し錢形平次に似てゐるかも知れません。三十前後の一寸好い男で、唯の町人といふよりは、世にいふ通人とか藝人などに、一脈相通ずるもののある、あく拔けのした人柄です。だが、それは――少し卑下ひげし過ぎるにしても、愛嬌のある取りなしでした。
 奧の一と間――と言つても、店から居間をへだてたばかりの六疊で、さすがに住よげに、氣取つた調度を竝べて居りますが、何んとなくそれは間に合せもので、世帶の苦しさは品々の配置にもみ出して居ります。
 平次と八五郎の姿を見ると、丁寧に一禮して、お茶の仕度でもするらしく、ツと立つた女がありました。
「妹のお島と[#「お島と」はママ]申しますが」
 振り返つてニツコリする顏は二十六七、大年増と言つて宜い年配ですが、淋しいところはあるにしても、兄の杉之助に似て、拔群ばつぐんきりやうです。
「昨夜は、飛んだことがあつたさうだな」
 平次はわだかまりのない調子でした。
「へエ、全く驚きました。山の宿の鐵といふのは氣味の惡い男で、よく店へさし賣りに來ました。錢が少ないといきなり怒鳴るくせがあつて、幾度持て餘したか知れません。そのまむしのやうな男が、私を狙つて居ようとは――」
 杉之助はゴクリと固唾かたづを呑むのです。
「お前を狙つたに相違あるまいな」
「大寺樣に合羽をお貸ししたのが惡う御座いました」
「それにしてはをかしな事があるが――」
「へエ?」
「お前を狙つた者が、この店を通り越して、ずつと先の車坂御門外まで跟けて行つて、大寺といふ御浪人に斬つてかゝつたさうではないか」
「何んかの思ひ違ひで御座いませうな――合羽と提燈に釣られたのでございませう」
 杉之助は事もなげに言ふのです。
「お前を狙つて居る者があるとは、此間も聽いたが、そんなに人樣に怨まれる覺があるのか」
 平次は訊きました。
「いえ、それがどうしても思ひ當りません。呉服屋はして居りますが、こんな小さい店で商賣敵といふ程のものはなし、附合ひで隨分遊びもいたしますが、深間も馴染なじみも御座いません」
「お前は、その年でまだ配偶つれあひはないのか」
「ございましたが、去年の春亡くなつて、それから、まだ後添は決りません。話は隨分ございますが、長し短かしで、へエ」
「妹といふのは」
「これは一度縁付きましたが、話し合ひで別れました。縁付いた先は山崎町の酒屋で、へエ、倉賀屋の倉松さんでございます」
「さうか」
 自分の話になると、さすがに、氣がさしたものか、妹のお鳥は、お茶を盆のまゝ兄の方に滑らせて、さつさとお勝手に姿を隱しました。物越しは、物の影のやうに靜かですが、青白い顏にも、異常に赤い唇にも、妙に魅惑的みわくてきなところのある女です。
「その妹の離縁になつたわけは」
「そればかりは申上げられませんが」
 杉之助の顏は苦澁くじふになります。
「それはまたどういふわけだ」
「妹の耻になることは、この兄の口からは申上げ兼ねます――」
「それはお前の揖ではないか、つまらぬ事でお上に疑ひがかゝるかも知れないが」
「疑ひと仰しやると」
「お前は昨夜、誰かに狙はれて居ると知つてわざと紙入を忘れたり、合羽や提燈を大寺氏に持たせたかも知れないではないか」
「飛んでもない親分」
 中田屋杉之助はこの突つ込みにはひどく弱つた樣子です。
「兄さん」
 そつと唐紙が開いて、杉之助の袖を引いたのは妹のお鳥でした。
「默つて居ろ、お前は」
「でも、見す/\兄さんがお困りになつて居るのを――」
「宜いよ、判つて居るよ」
 その袖を振り拂ふのを、きわけるやうにお鳥は顏を出しました。蒼白い顏は少し逆上のぼせて、隱された美しさは、激情にあふられたやうに人に迫るのです。
「親分さん、お聽き下さい、この私はろくろ首なんださうです」
「お鳥、お鳥」
 兄杉之助の牽制けんせいも何んの甲斐もありません、激情にあふられたお鳥は、耻も外聞も振り捨てて、遂に言ふべきことを言つてしまつたのです。
 平次と八五郎は、互に顏を見合せるばかり、暫らくは言葉もありません。


 平次は、この陰慘いんさんな空氣の中から逃出すと、八五郎を先に立てて、御切手町の長崎屋に向ひました。
「驚いたね、親分。あの綺麗な首が拔け出して、行燈の油でもめる圖と來ちや――」
 ガラツ八は首を縮めて、ペロリと舌を出すのです。
洒落しやれた藝當ぢやないか、どうだい、お前の女房に世話をしようか」
「御免かうむりやせう。夜中にフラフラ浮出した首が、屏風びやうぶの上なんかに載かつて居た日にや、睦言むつごとの見當が付かねえ」
「馬鹿だなア――だが、倉賀屋も殺生な惡名をつけたものだなア」
 平次は妙に感にへて居ります。
 無駄を言ひ乍らも二人は御切手町の生藥屋――長崎屋の店は遠慮して、裏口から入つて居りました。
「これは、親分さん方」
 早くも八五郎を見付けたのは、先刻まで係り合ひで引出されて居た主人の庄六でした。二十七八の少し野暮つたいところはありますが、柄の大きい、眉のひいでた、知的な感じの男です。
「昨夜は飛んだ事だつたね」
 平次は如才ないと思ふほど平明な態度で切出しました。
「全く驚きました。でも、考へやうでは中田屋さんは提燈を貸して、引返したから助かつたやうなものでございます。大寺さんだから鐵の野郎をあべこべに負かしたんで」
「そんなものかも知れない、――ところで運座うんざはどんな具合だつたえ、――俺は俳諧も都々逸どどいつも知らないが」
「大した名句も出ませんが、それでも幸ひに私の出來がよくて、飛んだ花を持たせて頂きました」
「中田屋の忘れて行つた紙入といふのは、何が入つて居たんだ」
「座布團の下にあつたので、中田屋さんの物とすぐ氣が付きました、中は調べもいたしません」
「ところで、妙なことを訊くやうだが、近頃中田屋と倉賀屋の仲はどうだ」
「サア」
 長崎屋は一寸答へにしぶりました。
「世間の噂では、あの妹のお鳥といふのが不縁になつてから、あまりよくないと言ふことだが」
「何と申しましても、あんな事のあつた後ですから――でも先代からのお附合ですから、今更顏をそむけても通れず、私共もまた、出來るだけ折を見て、お二人の仲を元々のやうにして上げ度いと骨を折つて居ります」
 長崎屋庄六は、これだけの事を言ふのも精一杯でした。
 平次は其處を宜い加減に切上げて、山崎町の倉賀屋へ廻るつもりでしたが、裏口を出ると何處へ潜つて居たか、八五郎が飛んで來て、
「店を覗いて下さいな、親分、大變な代物しろものが居るから」
 平次のたもとを引くのです。
「何んだ、ウハバミの黒燒でもあるのか」
「まア、だまされたと思つて一と眼」
 八五郎に尻を押されるやうに、平次は到頭暖簾のれんを掻きわけました。
「入らつしやい」
 小僧が二人、プーンと匂ふ店の空氣の中に、雛壇ひなだんから借りて來たやうに竝んで居りますが、突當りの百味だんすの前、帳場格子の中には、十八九の娘が一人、筆の穗先ほさきを噛んだまゝ、何やら思案をして居るではありませんか。
「――」
 二人の顏を見ると、驚いたやうに筆を置いて、默つてお辭儀をしました。丸ぽちやの健康さうな、眼の大きい娘、そして愛嬌のある赤い唇には、ポツチリ墨が附いて、それが又となく可愛らしく見えるのです。
 暖簾のれんを潜つて飛込んだものの、平次も八五郎も此處では何を訊く當てもありません。
 商賣はどうだ、――風雅の藥には何が良い――花見の相談はないか――と言つたまとまりのつかない事を訊いて、平次にうながされるやうに外へ出ました。
「良い娘でせう、親分。多與里たよりと言つて十九のやくだ。兄の庄六も良い男だが」
「あの娘を見せて何うしようと言ふのだ」
「眼の保養ですよ、親分、十手捕繩の役得」
「馬鹿だなア」
「でもろくろ首のお鳥の方が美人といふんでせうね。あれはすごいが、これは可愛い方で、あつしは誰が何んと言つても此方こつちへ札を入れますよ」
「止せよ、馬鹿々々しい。堅氣の娘が、岡つ引の女房になるかならないか、口惜くやしかつたら當つて見ろ」
「ところが、あの娘はもう約束濟みなんで」
「何處だ、約束した先は?」
「中田屋ですよ。仲人なかうどが入つて、結納まで取交したといふことですが、十九の厄だから今年はいけないとかで、延々のび/″\になつて居るんで――尤も、あのろくろ姫の噂で、長崎屋の方で嫌氣がさして居るとも言ひますがね」
「それは氣の毒だな」
「其處へ倉賀屋が割り込んで、こいつは金づくで、ろくろ姫の後釜に、あの多與里たよりといふ娘を狙つて居るとも言ひますよ。倉賀屋は下谷で何番といふ大金持で、中田屋へも長崎屋へも、かなりの金を廻してゐるといふことですから、自然押しもきくでせう」
「フーム」
「ことに長崎屋は、身上の半分は倉賀屋のもので、倉賀屋が一つかぶりを振ると、あの藥屋の屋臺はガタガタにくづれる」
「――」
「ところで、もう一つ惡いことに、長崎屋のあの多與里といふ娘が、中田屋の主人に滿更ぢやないと來て居るんで、へつ、厄介な話ですね」
 八五郎は又首をちゞめて舌を出すのです。
 其處から山崎町の倉賀屋へ廻つて見ましたが、これは言はば事件の埒外らちぐわいに居るやうなもので、大した話もありません。主人の倉松は三十五六の大家の主人らしい寛厚な感じのする働き者、店構への立派さ、住居の行屆いた調度など、さすが下谷で何番と言はれる伊達者だてしやだけのことはあります。
「昨夜は飛んだ事があつたさうで、驚いて居りますよ。中田屋さんに怨のある者?――そんな事は考へられません。中田屋さんはあの通り如才のない人で」
 倉松は何を訊いてもたくみに外らすだけです。
 念のため先妻のお鳥を離別したわけを突つ込むと、
「それだけは御勘辯を願ひます。たつてと仰しやれば、家風に合はなかつたからと申す外は御座いません」
 ともつとも至極の挨拶です。
 其處を宜い加減に切上げて、山下に向ふ途中、ガラツ八は相變らずの早耳でさぐつたことを平次に報告するのでした。
「――倉賀屋の主人は、中田屋を怨む者の心當りはないなんてウマい事を言ひますがね、あの店の小僧にそつと訊くと、近頃中田屋から大變な掛け合ひが來て居るさうですよ。何んでも妹に難癖をつけて追出したつぐなひに、今までの借に棒を引いた上、何百兩とかの手切れを出せといふんださうで――」
「それを出し惜んで、山の宿の鐵などを頼みさうな男でもないが――」
 平次は倉賀屋倉松の人柄に惚れ込んだ樣子です。
 山下の浪人大寺源十郎は留守、これはしかし逢つたところで、大した手掛りもなかつたでせう。
「此先又何んか變な事がなきや宜いが――」
 平次はこの事件の底を流れる無氣味な暗流に氣付いたらしく、そんな事を言ひ乍ら割り切れない心持で引揚げるのでした。


 それから三日目、かねての約束があつたので、今更變替もならず、倉賀屋、長崎屋、中田屋の主人に浪人の大寺源十郎が加はり、女二人――お鳥と多與里たより――に小僧三人、それだけの人數で、向島に花見船を出しました。
 此間の運座の會は長崎屋のもよほし、今度の花見は倉賀屋の受持で、騷々しいからと幇間ほうかん末社は呼ばず。
 お酌は美しい女が二人、お燗番かんばんは中田屋杉之助自分でうけたまはり、小僧三人に雜用をさせて、晝少し過ぎに大川橋から漕ぎ上つた船が、向島の土手の賑ひを右手に眺めて歌ひ乍ら、踊り乍ら、そして飮み乍ら、水神の靜かな場所を選んで岸に寄せたのは、もう夕景近くなつてからでした。
 これから夜櫻を左手に眺めて大川を下り、宵のうちには下谷の店へ引揚げようといふ寸法、折からあつらへたやうに櫻の梢に夕月が昇つて、醉も興も、まさに絶頂でした。
「さあ、いよ/\下りだ、此處でかねて用意の良いのを開けよう」
 倉賀屋は特に取寄せたといふなだ一本、それを三本の徳利に入れて、お燗番の杉之助が念入りに燗をつけました。
 こんな席になると、一番貧乏でも、多藝で愛嬌があつて、酒の強い中田屋が人氣者でした。
 隱し藝が又一とわたり。
「さア、皆さん、盃を乾したり乾したり、今度こそは倉賀屋さんが特別に取寄せたといふ灘の生一本、黄金こがねせんじ汁のやうな酒だ、一杯飮むと十年くらゐづつは生き延びようといふ代物しろもの、――先づ施主せしゆの倉賀屋さんから」
 中田屋が立つて自分で酌をしました。
「と、と、と、散ります散ります」
「次は大寺さん、それから長崎屋さんと言ひ度いが、困つたことに長崎屋さんは下戸げこで、一滴もいけずか」
「有難い、頂戴いたす」
 倉賀屋倉松と大寺源十郎の兩人、二三杯づつ立て續けに呑みほすと、
「中田屋さん、お前さんも酌ばかりして居ずに、附き合つちやどうです」
 倉賀屋の倉松は空つぽになつた杯を置いて中田屋をうながします。
「え、頂戴しますよ、――あツ、徳利を川へ落してしまつた。仕樣がないなア、どれ二本目のを」
 小僧が差出した二本目の徳利、それから大きいのへ充分に注いで。見事に呑み乾した中田屋杉之助、
「――ひどく辛いやうな氣がしますが、――倉賀屋さんの前だけれど」
 暫らく首をかしげて居ります。
「そんな筈はないが、――どれ」
 手を延ばしてその徳利を取上げた倉賀屋のひぢへ、そつと觸つた者があります。
「――」
 見ると、それは多與里の手でした。そつと指した方を見ると、
「あツ」
 中田屋杉之助の顏は眞つ蒼、――そのあゐのやうな額に油汗が浮かんで、恐ろしい苦惱の色が鞭打むちうつたやうに顏中を走ると、胸を押へてクワツと吐いたのは一塊ひとかたまりの血潮です。
 船の中は引つくり返るやうな騷ぎですが、薄暗くなりかけた水神では、急場の醫者も間に合ひません。
 中田屋杉之助は、うしてろくな手當も受けず、美しい妹お鳥の膝に抱かれて、もだえ死に死んでしまひました。
 騷ぎを聽いて土地の御用聞が驅け付けた時は、何も彼も後の祭り。滿開の櫻のこずゑに、芝居の書割のやうな月が白々と掛つて、遠い花見の賑ひが、淺ましく淋しく、そしてうとましく響いて來るのでした。


「親分、到頭大變なことになりましたよ」
 ガラツ八の八五郎が、親分の平次に、この事件を報告して來たのは、翌る日の朝でした。
「倉賀屋の花見船の騷ぎなら、先刻下つ引が飛んで來て教へてくれたよ」
「ぢや出かけませう」
「何處へ行くんだ。向島へ行つたところで船は空つぽだぜ」
 平次は動かうともしません。
「矢張り中田屋が狙はれて居たんですね。下手人は何奴でせう」
「それを今考へて居るんだ」
「徳利に殘つた酒をあとで調べると、南蠻なんばん仕込みの恐ろしい毒が入つて居たさうですよ。その毒藥は江戸中の生藥屋にも滅多にないが、長崎屋庄六は少し持つて居るんださうで、今朝三輪の萬七親分に縛られて行きましたよ」
「それは可哀想だ、――で、庄六は何んと辯解をして居るか、聞いたか」
「毒藥は私の店にあつた品だが、誰が盜み出したか、そこまでは解らない、と言ふんださうで。もつともお許しのない毒藥を持つて居るのは、藥種屋でも禁制だが、長崎屋のは鼠捕ねずみとりに使ふために仕入れたので、それで鼠捕り團子を拵へて、船に賣込むんだといふことですよ」
「成程な――そんな事もあるだらう」
「下手人は矢張り長崎屋でせうか、親分」
「イヤ、違ふ、長崎屋なら、江戸中で自分のところにしかないと知れ渡つて居る毒藥は使はない筈だ」
「ぢや?」
「待つてくれ、急いでも駄目だ、お前に頼み度いことがあるんだが――それは昨日船の中に居た人間を一人々々訪ねて、中田屋が毒酒を呑んだ時の人間の坐つて居た場所と、徳利を置いてあつた場所、酒樽の場所などを出來るだけこまかに書いて貰ひ度いんだ――言ふ迄もないことだが、一人に一枚づつ書かせるんだぜ、他人の書いたのを見せると、かへつて迷はせるから、お互に書いたのを見せないことだよ」
「へエ」
「それさへありや、俺は此處に坐つて居ても下手人を言ひ當てるよ」
「へエ」
 八五郎はに落ちないやうな顏をしましたが、それでも文句も言はずに飛出しました。
 それから半日、
「さア、これで宜いでせう、――繪圖面は九枚出來ましたよ。男四人、女二人、小僧三人、それに船頭二人で總勢十一人のうち、一人は死んで、一人は縛られたから、これで皆んなで」
 竝べた船中見取圖は九枚、いづれも半紙一枚づつに書いたものですが、見比べて行くと人間の記憶は似たり寄つたりで、人の位置も徳利の場所も、皆んな覺えてるのは一人もありませんが、それでも自分の居た場所の兩隣と正面くらゐは知つて居るので、九枚あはせると何うやらその時の船中のくはしい見取圖は出來上がります。
「眞ん中に男が三人竝んで居て、女二人は其兩側か。お鳥は大寺源十郎の側で、其次が倉松だ。多與里は兄の庄六と死んだ中田屋の間に居る――中田屋の次は小僧が二人、船頭、その中に七輪をゑてあつたわけだな」
「――」
「徳利は皆んなで十本、たるが二つ、あとはお重詰だ。七本の徳利は無地で竝酒が入つて居た――上酒の入つて居る三本の徳利は模樣入りで――一本はまだ酒が入つたまゝ七輪の側にあつたし、これには毒が入つて居なかつたのだな。一本は杉之助の側にあつた、あれは毒の入つて居る呑みかけの徳利。あとの一本は? 何? ――杉之助が船縁ふなべりから川へ落した? それは倉賀屋と浪人の大寺といふ人が呑んで、いくらも殘つては居なかつたといふのか」
「――」
「八、もう一つ頼みがある」
「へエ、何んでもやりますよ、腹さへこさへれば」
「よく減る腹だ、――お靜、八に飯の仕度をしてやつてくれ」
「仕事は何んです、親分」
 八五郎は照れ隱しらしく聞き返しました。
「船はその時水神の岸にもやつてあつたと言つたな」
「へエ」
「あの邊なら底は淺いし、水も綺麗だ、その中田屋杉之助の落した徳利を探して來てくれ」
「やつて見ませう」


 八五郎が、同じ模樣の徳利を、水神の船着場の水の中から搜し出して來たのは、翌々日の朝でした。
「潮の引くのを待つて、拾つて來ましたよ、この徳利に間違ひありませんが、中には酒の氣も殘つては居ませんよ」
 八五郎の持つて來た徳利といふのは、藍繪あゆゑの竹を描いた瀬戸の良い徳利で。
「これだよ――これが見たかつたのだ」
 平次が期待したのは、水の中に沈んだ徳利の酒の臭ひではなくて、その首を縛つた、細い/\白木綿糸だつたのです。
「それはどんな禁呪まじなひです、親分」
「外の二本の徳利と見分ける爲だよ」
「でも、その木綿糸で縛つた徳利にも、もう一本の七輪の傍に置いてあつた目印のない徳利にも毒はなかつたんですぜ」
「その通りだ、其處が面白いところだよ、――俺はちよいと長崎屋へ行つて來る、お前も行つて見ないか」
「行きませう、――あの娘が泣いて居ますよ」
 平次とガラツ八は、眞つ直ぐに長崎屋へ行くと、奧の一と間に妹の多與里たよりを呼びました。
 兄の庄六が三輪の萬七に縛られて行つてからは、店の仕事も手につかず、多與里はたゞ泣いてばかり居る樣子です。
「兄を助けたかつたら――」
「――」
 平次はその泣きじやくる多與里と膝を突き合せるやうに言ひました。
「お前のした事を正直に話してくれ」
「?」
「徳利の目印のことだ、お前は何にか知つて居るに違ひない」
「え、皆んな申上げます、――中田屋さんが、おどけた事を言ひ乍ら、たもとから木綿糸を出して一本の徳利の口をしばるんです。――あの人は、油斷のならない人だと、私は何時でも思つて居りました、ですから――」
「?」
「私は、その徳利の木綿糸を解いて、外の徳利の首へ付けたんです。たゞ、それだけの事でした。あんな事にならうとは、夢にも思ひません」
 多與里は自分のした事の結果の恐ろしさにおびえて泣くのです。
        ×      ×      ×
 此物語はこれで終ります。
 間もなく長崎庄六は、錢形平次の計らひで許され、此事件には到頭下手人は揚がらなかつたのです。
「さア解らねエ、山の宿の鐵をけしかけたり、徳利に毒を入れて、中田屋を殺したのは、一體誰です、親分」
 ガラツ八の八五郎がキナ臭い鼻を持つて來たのも無理のないことでした。
「中田屋だよ」
「へエ? 中田屋を殺した奴ですよ」
「だから中田屋杉之助が中田屋杉之助を殺したのだよ」
「へエ?」
「最初山の宿の鐵が、大寺といふ浪人に殺された時から俺は變だと思つたよ、――その時もさう言つた筈だ。合羽かつぱ提燈ちやうちんを借りたにしても、大寺源十郎が鐵に襲はれたのは、車坂の中田屋の前をズツと通り過ぎてからだよ。中田屋と間違へて鐵が斬りかけたのでないことは確かだ――さうかと言つて、山の宿の鐵は腕の良い武家をねらふ筈もなからう」
「?」
「それに、中田屋は長崎屋に紙入を忘れて居るが、紙入は座布團の下に入れてあつたといふぢやないか。誰が一體大事な紙入を他所の家の座布團の下などに入れて置くと思ふ――座布團の上に置くと直ぐ見付けられて家を出ないうちに呼留められるから、大寺源十郎に合羽も提燈も貸せないことになる――」
「何んだつて中田屋は、鐵を大寺なんて人に噛みつかせたんでせう」
「自分が誰かに狙はれてると思はせて置いて、次の大仕事をするためだよ。その時はもう、中田屋は毒を手に入れてゐたかも知れない。長崎屋へ始終出入りして居たといふから、あの百味たんすの赤い印の附いたのを拔いて、かねて聞いた恐ろしい毒を少しばかり盜むのは何んでもないことだ」
「へエ」
「そして大寺源十郎にカスリ傷くらゐ負はせるつもりだつたらうが、大寺といふ人は、弱さうに見えて思ひの外の腕達者で、鐵の野郎があべこべにやられた。中田屋も大寺源十郎の腕前は知らなかつた」
「――」
「だが、狙はれて居るのは自分と思はせるには充分じうぶんさ。次は花見船の毒だ、倉賀屋と大寺源十郎くらゐを殺し、自分も少しは毒に中つたやうな顏をするつもりだつたと思ふよ。長崎屋は下戸で酒は一滴ひとしづくも呑まないから、これは下手人にする」
「――」
「毒を入れた徳利には木綿糸で印をつけて置いた。そんな事はお燗番かんばんの杉之助の自由自在だ。が、その目印の糸を、多與里に附け替へられたとは知らなかつた。倉賀屋や大寺源十郎に呑ませたのを毒酒と思ひ込んで居るから、間違つた振りをしてその徳利を川へ落した。そして自分は二本目の徳利の酒を毒酒と知らずに呑んだ。これで中田屋殺しの下手人は、中田屋杉之助といふわけがわかつたらう」
「へエ、恐ろしい野郎ですね、何んだつてそんな事をしたんでせう」
「倉賀屋に不義理の借金がかさんだのと、妹が不縁になつたのをうらんで居た上、今度は自分が長い間心に掛けて居た長崎屋の妹の多與里が、いよ/\倉賀屋へ嫁に行くことになりさうなので、あんな大外れた事を企らんだのだらう。それから中田屋の妹のお鳥だ」
「――」
「あの女がろくろ首だといふのは嘘だらうと思ふ、そんな化物はある筈もないし、本當なら、いくら何でも本人のお鳥が進んで言ふ筈はない。あれは、ろくろ首よりももつと外聞の惡いことで、倉賀屋から追出されたことと思ふよ。――さア、それは何んだか、俺にはわからないが」
 平次はさう言つて首をひねるのです。





底本:「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年11月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1947(昭和22)年4月特別号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年3月4日作成
2017年3月4日修正
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