「親分、今日は、良い陽氣ですぜ。家の中に引つ込んで、煙草の煙の曲藝をやつてゐるのは勿體ないぢやありませんか」
ガラツ八の八五郎は、入つて來るなり、敷居際に突つ立つて、斯んな事を言ふのです。
「大きなお世話だよ、どうせお前のやうに、
錢形の平次は、斯う言つた無精者でした。尤も縁側に寢そべつて、街の遠音を夢心地に聽き乍ら、白雲の行きかひを、
「天道樣に照らされて、ボーツと
「
「上野は筋の良い客が居るから、
「馬鹿野郎、
「それくらゐ押が強くないと、結構な花見は出來ませんよ、――ところで、その氣で上野へ出かけると、山下で大變なものに
ガラツ八の八五郎は、何やら仕事を嗅ぎつけて來た樣子です。
「お姫樣が山下で虎になつて居たとでもいふのか」
平次はまだ茶かし氣味です。
「殺しがあつたんですよ、――尤も斬つたのは浪人
「それぢや寺社のお係りだらう、お前が花見を諦めるほどの筋ぢやあるめえ」
「それがいけねえ、車坂御門の側で血を流したに違げえねえが、死骸のあつた場所は矢張り虎門の外だ」
「話がうるさいね」
「土地の御用聞や町役人につかまつて、到頭半日
「丁度空きつ腹の恰好もつけようといふんだらう」
「まア、そんな事で」
「お靜、聞いたらうな、八に
「ハイ、もう直き出來ますが」
平次の戀女房のお靜は、お勝手で
「一體その車坂御門外の
平次は
「斬つたのは山下の御浪人で、大寺源十郎といふ人、この人は柄が小さくて、顏も聲も女の子のやうに優しいが、腕は餘つ程出來るやうですよ」
「その人なら、おれも顏くらゐは知つて居るよ」
「昨夜御切手町の藥種屋長崎屋庄六の家にウンザのケエがあつて」
「なんだ、そのフン反り返つた――てえのは」
「ウンザのケエですよ、――何んとかや、
「
「そのケエですよ、集つたのは、山崎町の酒屋倉賀屋倉松と、車坂の呉服屋中田屋杉之助、それに浪人の大寺源十郎と主人の庄六を入れて四人、
「馬鹿だなア、花合せぢやあるめえし、ヘエケエをパチパチやる奴があるか」
「素人量見ですよ、どうせあつしはそんなチヨボクレは知らねえ、――兎も角
「それからどうしたのだ」
「車坂へ歸る中田屋杉之助と、山下へ歸る大寺源十郎と一緒に長崎屋を出た所で、
「――」
「その時、どうせ私の家は近いから、と提燈を大寺源十郎に持たせ、その上夜半から急に薄寒い小雨になつたので、――失禮だがまだ新しいから、これを――と、用心のために着て居た
「――」
「一方、中田屋杉之助の合羽を着て、長崎屋の
「聲も掛けずにか」
「え、
「フム」
「誰だツ、名乘れツ、と言つたが物も言はない、あんまり
八五郎は
「それつきりか」
「いえ、これつきりぢや唯の
「フム」
「小ばくちと女で身を持ち崩して居る鐵の懷中に十兩と
「俺が知るものか」
「もう一つ變なことに、その十兩の金を包んでゐる紙といふのは、プンプン藥の匂ひのする、長崎屋の印の入つた藥袋だとしたら、どんなものでせうね。親分」
八五郎は膝を進めました。
「誰かの細工だらうよ、だが、長崎屋でないことだけは
「あつしもさう思つたから、三輪の萬七親分が變なことを言ふのを尻目に、此處まで飛んで來たわけです。どうしたものでせう、親分」
八五郎は一氣に辯じて最後の問ひを投げ出しました。
「フーム、それは面白いな、俺の方にも、少しばかり思ひ當ることがあるんだが――」
錢形平次は
「へエー、どんな事に思ひ當つたんで」
「車坂の中田屋杉之助が、變なことを言つて來たんだ――もう十日も前かな」
平次は指などを折り乍ら續けるのでした。
「その中田屋の主人杉之助が、いきなりやつて來て、――私は惡者に附け狙はれて居るから、何んとかして下さい――といふ頼みだ、三十そこ/\のちよいと好い男だよ」
「あつしも逢ひましたよ。御山同心が大寺源十郎を一應取調べて居ると、番屋へやつて來て、――曲者が狙つたのは、此中田屋に違ひありません、合羽をお貸しした上、提燈まで差上げて、飛んだ御迷惑をかけました、曲者は人違ひをしたので、大寺樣には何んの不都合もある筈はございません――と一生懸命辯じて居ましたよ」
「その男だ、色の淺黒い、
「さう言へば、少しばかり親分に似て居ますがね」
「馬鹿なことを言へ」
「ところで、その中田屋がどんな事を言ふんで――」
「
「へエ」
「外へ出ると、夜も晝も誰かに
「妙な心持でせうね」
「その時はそれなりに聽き流して置いたが、山の宿の鐵などといふ命知らずの惡者をけしかけ、夜道で待ち伏せして中田屋を狙ふのは
平次は此得體の知れない事件に對して、妙に不氣味さと義憤を感じた樣子です。
「行つて見ませうか、親分」
八五郎は
「よからう、お前の言ひ草ぢやないが、今日は家に引つ込んでゐるやうな陽氣ぢやないやうだ」
手早く仕度をした平次は、午後の街へ飛出しました。後ろからは長んがい
「道順から言ふと、山下の御浪人の家が先ですよ。それから車坂御門の現場で、三番目が、中田屋で――」
ガラツ八は案内顏になります。
「いや、中田屋が先だ、――火元は其邊らしいよ」
「そんなもんですかねエ」
八五郎が先に立つて、中田屋の
「入らつしやい」
白雲頭の小僧が一人、それでも威勢よく聲を掛けました。二間間口の淋しい店で、主人の杉之助が、小唄に
「主人は居るかい」
「へエ?」
よくやつて來るさし賣りか
「神田の平次と八五郎が來たと言つてくれ」
後ろから平次が聲を掛けると、奧でそれを聞いたものか、主人の杉之助は、少しあわてた樣子で飛出して來ました。
「これは親分樣方、御苦勞樣でございます。まア、どうぞ此方へ」
二人を奧の一と間に案内します。さう言へば少し錢形平次に似てゐるかも知れません。三十前後の一寸好い男で、唯の町人といふよりは、世にいふ通人とか藝人などに、一脈相通ずるもののある、あく拔けのした人柄です。だが、それは――少し
奧の一と間――と言つても、店から居間を
平次と八五郎の姿を見ると、丁寧に一禮して、お茶の仕度でもするらしく、ツと立つた女がありました。
「妹のお島と[#「お島と」はママ]申しますが」
振り返つてニツコリする顏は二十六七、大年増と言つて宜い年配ですが、淋しいところはあるにしても、兄の杉之助に似て、
「昨夜は、飛んだことがあつたさうだな」
平次は
「へエ、全く驚きました。山の宿の鐵といふのは氣味の惡い男で、よく店へさし賣りに來ました。錢が少ないといきなり怒鳴る
杉之助はゴクリと
「お前を狙つたに相違あるまいな」
「大寺樣に合羽をお貸ししたのが惡う御座いました」
「それにしてはをかしな事があるが――」
「へエ?」
「お前を狙つた者が、この店を通り越して、ずつと先の車坂御門外まで跟けて行つて、大寺といふ御浪人に斬つてかゝつたさうではないか」
「何んかの思ひ違ひで御座いませうな――合羽と提燈に釣られたのでございませう」
杉之助は事もなげに言ふのです。
「お前を狙つて居る者があるとは、此間も聽いたが、そんなに人樣に怨まれる覺があるのか」
平次は訊きました。
「いえ、それがどうしても思ひ當りません。呉服屋はして居りますが、こんな小さい店で商賣敵といふ程のものはなし、附合ひで隨分遊びもいたしますが、深間も
「お前は、その年でまだ
「ございましたが、去年の春亡くなつて、それから、まだ後添は決りません。話は隨分ございますが、長し短かしで、へエ」
「妹といふのは」
「これは一度縁付きましたが、話し合ひで別れました。縁付いた先は山崎町の酒屋で、へエ、倉賀屋の倉松さんでございます」
「さうか」
自分の話になると、さすがに、氣がさしたものか、妹のお鳥は、お茶を盆のまゝ兄の方に滑らせて、さつさとお勝手に姿を隱しました。物越しは、物の影のやうに靜かですが、青白い顏にも、異常に赤い唇にも、妙に
「その妹の離縁になつたわけは」
「そればかりは申上げられませんが」
杉之助の顏は
「それはまたどういふわけだ」
「妹の耻になることは、この兄の口からは申上げ兼ねます――」
「それはお前の揖ではないか、つまらぬ事でお上に疑ひがかゝるかも知れないが」
「疑ひと仰しやると」
「お前は昨夜、誰かに狙はれて居ると知つてわざと紙入を忘れたり、合羽や提燈を大寺氏に持たせたかも知れないではないか」
「飛んでもない親分」
中田屋杉之助はこの突つ込みにはひどく弱つた樣子です。
「兄さん」
そつと唐紙が開いて、杉之助の袖を引いたのは妹のお鳥でした。
「默つて居ろ、お前は」
「でも、見す/\兄さんがお困りになつて居るのを――」
「宜いよ、判つて居るよ」
その袖を振り拂ふのを、
「親分さん、お聽き下さい、この私はろくろ首なんださうです」
「お鳥、お鳥」
兄杉之助の
平次と八五郎は、互に顏を見合せるばかり、暫らくは言葉もありません。
平次は、この
「驚いたね、親分。あの綺麗な首が拔け出して、行燈の油でも
ガラツ八は首を縮めて、ペロリと舌を出すのです。
「
「御免
「馬鹿だなア――だが、倉賀屋も殺生な惡名をつけたものだなア」
平次は妙に感に
無駄を言ひ乍らも二人は御切手町の生藥屋――長崎屋の店は遠慮して、裏口から入つて居りました。
「これは、親分さん方」
早くも八五郎を見付けたのは、先刻まで係り合ひで引出されて居た主人の庄六でした。二十七八の少し野暮つたいところはありますが、柄の大きい、眉の
「昨夜は飛んだ事だつたね」
平次は如才ないと思ふほど平明な態度で切出しました。
「全く驚きました。でも、考へやうでは中田屋さんは提燈を貸して、引返したから助かつたやうなものでございます。大寺さんだから鐵の野郎をあべこべに負かしたんで」
「そんなものかも知れない、――ところで
「大した名句も出ませんが、それでも幸ひに私の出來がよくて、飛んだ花を持たせて頂きました」
「中田屋の忘れて行つた紙入といふのは、何が入つて居たんだ」
「座布團の下にあつたので、中田屋さんの物とすぐ氣が付きました、中は調べもいたしません」
「ところで、妙なことを訊くやうだが、近頃中田屋と倉賀屋の仲はどうだ」
「サア」
長崎屋は一寸答へに
「世間の噂では、あの妹のお鳥といふのが不縁になつてから、あまりよくないと言ふことだが」
「何と申しましても、あんな事のあつた後ですから――でも先代からのお附合ですから、今更顏を
長崎屋庄六は、これだけの事を言ふのも精一杯でした。
平次は其處を宜い加減に切上げて、山崎町の倉賀屋へ廻るつもりでしたが、裏口を出ると何處へ潜つて居たか、八五郎が飛んで來て、
「店を覗いて下さいな、親分、大變な
平次の
「何んだ、ウハバミの黒燒でもあるのか」
「まア、
八五郎に尻を押されるやうに、平次は到頭
「入らつしやい」
小僧が二人、プーンと匂ふ店の空氣の中に、
「――」
二人の顏を見ると、驚いたやうに筆を置いて、默つてお辭儀をしました。丸ぽちやの健康さうな、眼の大きい娘、そして愛嬌のある赤い唇には、ポツチリ墨が附いて、それが又となく可愛らしく見えるのです。
商賣はどうだ、――風雅の藥には何が良い――花見の相談はないか――と言つた
「良い娘でせう、親分。
「あの娘を見せて何うしようと言ふのだ」
「眼の保養ですよ、親分、十手捕繩の役得」
「馬鹿だなア」
「でもろくろ首のお鳥の方が美人といふんでせうね。あれは
「止せよ、馬鹿々々しい。堅氣の娘が、岡つ引の女房になるかならないか、
「ところが、あの娘はもう約束濟みなんで」
「何處だ、約束した先は?」
「中田屋ですよ。
「それは氣の毒だな」
「其處へ倉賀屋が割り込んで、こいつは金づくで、ろくろ姫の後釜に、あの
「フーム」
「ことに長崎屋は、身上の半分は倉賀屋のもので、倉賀屋が一つかぶりを振ると、あの藥屋の屋臺はガタガタに
「――」
「ところで、もう一つ惡いことに、長崎屋のあの多與里といふ娘が、中田屋の主人に滿更ぢやないと來て居るんで、へつ、厄介な話ですね」
八五郎は又首を
其處から山崎町の倉賀屋へ廻つて見ましたが、これは言はば事件の
「昨夜は飛んだ事があつたさうで、驚いて居りますよ。中田屋さんに怨のある者?――そんな事は考へられません。中田屋さんはあの通り如才のない人で」
倉松は何を訊いても
念のため先妻のお鳥を離別したわけを突つ込むと、
「それだけは御勘辯を願ひます。たつてと仰しやれば、家風に合はなかつたからと申す外は御座いません」
と
其處を宜い加減に切上げて、山下に向ふ途中、ガラツ八は相變らずの早耳で
「――倉賀屋の主人は、中田屋を怨む者の心當りはないなんてウマい事を言ひますがね、あの店の小僧にそつと訊くと、近頃中田屋から大變な掛け合ひが來て居るさうですよ。何んでも妹に難癖をつけて追出した
「それを出し惜んで、山の宿の鐵などを頼みさうな男でもないが――」
平次は倉賀屋倉松の人柄に惚れ込んだ樣子です。
山下の浪人大寺源十郎は留守、これは
「此先又何んか變な事がなきや宜いが――」
平次はこの事件の底を流れる無氣味な暗流に氣付いたらしく、そんな事を言ひ乍ら割り切れない心持で引揚げるのでした。
それから三日目、
此間の運座の會は長崎屋の
お酌は美しい女が二人、お
これから夜櫻を左手に眺めて大川を下り、宵のうちには下谷の店へ引揚げようといふ寸法、折から
「さあ、いよ/\下りだ、此處で
倉賀屋は特に取寄せたといふ
こんな席になると、一番貧乏でも、多藝で愛嬌があつて、酒の強い中田屋が人氣者でした。
隱し藝が又一とわたり。
「さア、皆さん、盃を乾したり乾したり、今度こそは倉賀屋さんが特別に取寄せたといふ灘の生一本、
中田屋が立つて自分で酌をしました。
「と、と、と、散ります散ります」
「次は大寺さん、それから長崎屋さんと言ひ度いが、困つたことに長崎屋さんは
「有難い、頂戴いたす」
倉賀屋倉松と大寺源十郎の兩人、二三杯づつ立て續けに呑みほすと、
「中田屋さん、お前さんも酌ばかりして居ずに、附き合つちやどうです」
倉賀屋の倉松は空つぽになつた杯を置いて中田屋を
「え、頂戴しますよ、――あツ、徳利を川へ落してしまつた。仕樣がないなア、どれ二本目のを」
小僧が差出した二本目の徳利、それから大きいのへ充分に注いで。見事に呑み乾した中田屋杉之助、
「――ひどく辛いやうな氣がしますが、――倉賀屋さんの前だけれど」
暫らく首を
「そんな筈はないが、――どれ」
手を延ばしてその徳利を取上げた倉賀屋の
「――」
見ると、それは多與里の手でした。そつと指した方を見ると、
「あツ」
中田屋杉之助の顏は眞つ蒼、――その
船の中は引つくり返るやうな騷ぎですが、薄暗くなりかけた水神では、急場の醫者も間に合ひません。
中田屋杉之助は、
騷ぎを聽いて土地の御用聞が驅け付けた時は、何も彼も後の祭り。滿開の櫻の
「親分、到頭大變なことになりましたよ」
ガラツ八の八五郎が、親分の平次に、この事件を報告して來たのは、翌る日の朝でした。
「倉賀屋の花見船の騷ぎなら、先刻下つ引が飛んで來て教へてくれたよ」
「ぢや出かけませう」
「何處へ行くんだ。向島へ行つたところで船は空つぽだぜ」
平次は動かうともしません。
「矢張り中田屋が狙はれて居たんですね。下手人は何奴でせう」
「それを今考へて居るんだ」
「徳利に殘つた酒をあとで調べると、
「それは可哀想だ、――で、庄六は何んと辯解をして居るか、聞いたか」
「毒藥は私の店にあつた品だが、誰が盜み出したか、そこまでは解らない、と言ふんださうで。
「成程な――そんな事もあるだらう」
「下手人は矢張り長崎屋でせうか、親分」
「イヤ、違ふ、長崎屋なら、江戸中で自分のところにしかないと知れ渡つて居る毒藥は使はない筈だ」
「ぢや?」
「待つてくれ、急いでも駄目だ、お前に頼み度いことがあるんだが――それは昨日船の中に居た人間を一人々々訪ねて、中田屋が毒酒を呑んだ時の人間の坐つて居た場所と、徳利を置いてあつた場所、酒樽の場所などを出來るだけ
「へエ」
「それさへありや、俺は此處に坐つて居ても下手人を言ひ當てるよ」
「へエ」
八五郎は
それから半日、
「さア、これで宜いでせう、――繪圖面は九枚出來ましたよ。男四人、女二人、小僧三人、それに船頭二人で總勢十一人のうち、一人は死んで、一人は縛られたから、これで皆んなで」
竝べた船中見取圖は九枚、いづれも半紙一枚づつに書いたものですが、見比べて行くと人間の記憶は似たり寄つたりで、人の位置も徳利の場所も、皆んな覺えてるのは一人もありませんが、それでも自分の居た場所の兩隣と正面くらゐは知つて居るので、九枚
「眞ん中に男が三人竝んで居て、女二人は其兩側か。お鳥は大寺源十郎の側で、其次が倉松だ。多與里は兄の庄六と死んだ中田屋の間に居る――中田屋の次は小僧が二人、船頭、その中に七輪を
「――」
「徳利は皆んなで十本、
「――」
「八、もう一つ頼みがある」
「へエ、何んでもやりますよ、腹さへ
「よく減る腹だ、――お靜、八に飯の仕度をしてやつてくれ」
「仕事は何んです、親分」
八五郎は照れ隱しらしく聞き返しました。
「船はその時水神の岸にもやつてあつたと言つたな」
「へエ」
「あの邊なら底は淺いし、水も綺麗だ、その中田屋杉之助の落した徳利を探して來てくれ」
「やつて見ませう」
八五郎が、同じ模樣の徳利を、水神の船着場の水の中から搜し出して來たのは、翌々日の朝でした。
「潮の引くのを待つて、拾つて來ましたよ、この徳利に間違ひありませんが、中には酒の氣も殘つては居ませんよ」
八五郎の持つて來た徳利といふのは、
「これだよ――これが見たかつたのだ」
平次が期待したのは、水の中に沈んだ徳利の酒の臭ひではなくて、その首を縛つた、細い/\白木綿糸だつたのです。
「それはどんな
「外の二本の徳利と見分ける爲だよ」
「でも、その木綿糸で縛つた徳利にも、もう一本の七輪の傍に置いてあつた目印のない徳利にも毒はなかつたんですぜ」
「その通りだ、其處が面白いところだよ、――俺はちよいと長崎屋へ行つて來る、お前も行つて見ないか」
「行きませう、――あの娘が泣いて居ますよ」
平次とガラツ八は、眞つ直ぐに長崎屋へ行くと、奧の一と間に妹の
兄の庄六が三輪の萬七に縛られて行つてからは、店の仕事も手につかず、多與里はたゞ泣いてばかり居る樣子です。
「兄を助けたかつたら――」
「――」
平次はその泣きじやくる多與里と膝を突き合せるやうに言ひました。
「お前のした事を正直に話してくれ」
「?」
「徳利の目印のことだ、お前は何にか知つて居るに違ひない」
「え、皆んな申上げます、――中田屋さんが、おどけた事を言ひ乍ら、
「?」
「私は、その徳利の木綿糸を解いて、外の徳利の首へ付けたんです。たゞ、それだけの事でした。あんな事にならうとは、夢にも思ひません」
多與里は自分のした事の結果の恐ろしさに
× × ×
此物語はこれで終ります。
間もなく長崎庄六は、錢形平次の計らひで許され、此事件には到頭下手人は揚がらなかつたのです。
「さア解らねエ、山の宿の鐵をけしかけたり、徳利に毒を入れて、中田屋を殺したのは、一體誰です、親分」
ガラツ八の八五郎がキナ臭い鼻を持つて來たのも無理のないことでした。
「中田屋だよ」
「へエ? 中田屋を殺した奴ですよ」
「だから中田屋杉之助が中田屋杉之助を殺したのだよ」
「へエ?」
「最初山の宿の鐵が、大寺といふ浪人に殺された時から俺は變だと思つたよ、――その時もさう言つた筈だ。
「?」
「それに、中田屋は長崎屋に紙入を忘れて居るが、紙入は座布團の下に入れてあつたといふぢやないか。誰が一體大事な紙入を他所の家の座布團の下などに入れて置くと思ふ――座布團の上に置くと直ぐ見付けられて家を出ないうちに呼留められるから、大寺源十郎に合羽も提燈も貸せないことになる――」
「何んだつて中田屋は、鐵を大寺なんて人に噛みつかせたんでせう」
「自分が誰かに狙はれてると思はせて置いて、次の大仕事をするためだよ。その時はもう、中田屋は毒を手に入れてゐたかも知れない。長崎屋へ始終出入りして居たといふから、あの百味たんすの赤い印の附いたのを拔いて、
「へエ」
「そして大寺源十郎にカスリ傷くらゐ負はせるつもりだつたらうが、大寺といふ人は、弱さうに見えて思ひの外の腕達者で、鐵の野郎があべこべにやられた。中田屋も大寺源十郎の腕前は知らなかつた」
「――」
「だが、狙はれて居るのは自分と思はせるには
「――」
「毒を入れた徳利には木綿糸で印をつけて置いた。そんな事はお
「へエ、恐ろしい野郎ですね、何んだつてそんな事をしたんでせう」
「倉賀屋に不義理の借金が
「――」
「あの女がろくろ首だといふのは嘘だらうと思ふ、そんな化物はある筈もないし、本當なら、いくら何でも本人のお鳥が進んで言ふ筈はない。あれは、ろくろ首よりももつと外聞の惡いことで、倉賀屋から追出されたことと思ふよ。――さア、それは何んだか、俺にはわからないが」
平次はさう言つて首を