菊屋傳右衞門の花見船は、兩國稻荷の下に着けて、同勢男女十幾人、ドカドカと廣小路の土を踏みましたが、
「まだ薄明るいぢやないか、橋の上から、もう一度向島を眺め
誰やらそんなことを云ふと、一日の行樂をまだ
「そいつは一段と面白からう、酒が殘つて居るから、
そんな事を言ひ乍ら、氣を揃へて橋の上に引返したのです。
暮れ殘る夕暮に、大川の
橋の上は水の面も見えぬまでに、さんざめく船と船、これから夜櫻見物に漕ぎ出るのでせう。まことに『上見て通れ兩國の橋』と言つた、低俗な道歌も、今宵だけはピタリとした氣分です。
「成程こいつは洒落れてゐるぜ、サアサア店を擴げたり擴げたり」
兩國橋の上には、いろ/\の物賣りが陣を布いて、橋の上から水肌まで、桃の皮を
菊屋傳右衞門は、横山町の大きな金貸しで、五十年輩の酒肥りのした老人ですが、それを圍んで、欄干に
暫らく薄れゆく夕明りを
やがて
「さて、そろ/\歸るとしようか」
主人の傳右衞門が聲を掛けた時でした。花見歸りらしい幾十人かの大きい團體が、揉みに揉んでドツと本所の方から橋の上へ襲つて來たのです。
「危ない/\」
「退いた/\」
「何んといふことだ」
「隨分亂暴な人達ねエ」
女達が不平たら/\、
「ウーム」
恐ろしいうめき聲と共に、ガクリと
「旦那、どうしました」
それを抱き上げるやうに覗き込んだのは、番頭の孫作と隣家の主人――柳屋の幸七でした。
「
幸七が聲を
だが、遠縁の
「旦那、どうしました。氣分でも惡いんですか、旦那」
後ろから抱き上げると、何やらぬらりと手に附くもの、僅かに殘る薄明りにその手を
「あツ、血」
驚いたのも無理はありません。
「何? 血?」
と孫作。
「大變ツ、旦那を突いて逃げた奴があるんだ」
幸七は年甲斐もなくひどく取亂して居りましたが、思ひ直した樣子で、
「
提灯を持つて行く人を呼びかけます。
だが、此時代の人はひどく掛り合ひを恐れたもので、事件が容易でないと見ると、一度集つた彌次馬も、バラバラと逃げ腰になつてしまひます。
「仕樣がないなア、怪我人があるんだ、灯を貸して下さい」
逃げて行く二三人を追ひ掛けた幸七は、五六間も追つ驅けて、
「あツ旦那」
「
番頭の孫作と、柳屋の幸七は、左右から抱き起しましたが、主人傳右衞門は、一
傷は左の胸らしく、其處から噴出した血は下半身を染めて、橋板の上に流れて居りますが、此凄まじい光景を取卷くのは、菊屋の同勢だけで、其處にはそんな大それた事をしさうな顏もありません。
「退いた/\」
其處へ驅付けたのは、清五郎と文次を案内に、橋番所の役人と、此邊を繩張にして、花時の警戒に當つて居たガラツ八の八五郎、それに彌次馬の一隊でした。
「ざつと
その晩遲く、親分の錢形平次のところへ
「で、
平次は變らず粉煙草をせゝり乍ら、乘り出し氣味です。
「怪しいと言へば、皆んな怪しいが、怪しくないと言へば、皆んな怪しくないので――」
「心細いなア、そんな事ぢや、何時まで經つても星は擧がらないぜ、――例へば、現場に何にか捨てて行つたものでもなかつたのか」
「
「何方の方へ離れて居た?――」
「西兩國の方へ六七間ですよ、――
「匕首の鞘は眞つ直ぐか、曲つて居るのか」
「かなり曲つて居ますよ、ちよいと不氣味なやつで」
「曲りの強い
「それにしちや、
ガラツ八もなか/\うまい事に氣が付きます。
「川へ放つたんだよ、
「成程ね」
「ところで、殺された主人の隣には誰が居たんだ」
「左隣には菊屋の
「その中に下手人が居ると、先づ誰だと思ふ」
「兩隣に居る清五郎か幸七ですね」
「二人は眞つ先に疑ひがかゝるわけだ――」
「すると、下手人は離れて居た奴ですね」
「さう物事を手輕にきめてはいけない、――ところで、身體に血のついてゐるのは誰と誰だ」
「幸七と孫作は死體を抱き起してゐますから、此二人は一番ひどく、若い女共を
「外に氣の付いたことはないのか」
「それつきりで」
「お前にしちや、それでも行屆いた方だ」
「お前にしちや――ですかい、親分」
八五郎は少しばかり
「不足らしい顏をするな」
「へツ」
「念入りに調べる者なら、傷口の
「――」
「まだあるよ、こいつは一番大事なことだが、兩國稻荷の下に舟をつけて、一度陸に上がつてから、暗くなるといふのに、兩國橋に引返して、橋の上から向島の遠見の花を見ようなどと醉興なことを言ひ出したのは誰か、――それを訊き度かつたんだ」
「へエ」
ガラツ八はまさに一言もありません。成程さう言はれるとその通りで、一應急所々々は突つ込んだつもりでも、平次の眼から見ると
「まア宜い、其處まで行屆けば、お前も一本立の御用聞だ、――十手一梃の
平次は話題を轉じました。
「評判のよくない親爺ですよ。誰の[#「誰の」はママ]金貸ならあんなに人に憎まれもしないでせうが、恐ろしく利息の高い金を貸して、血の出るやうな取立てをするくせに、妙に慈悲善根がつたことが好きで、町内の義理とか、氏神の祭禮などには、恐ろしく
「フーム」
「氏神の玉垣を寄附する時も、親柱五本に菊屋傳右衞門の名を
「妙な道樂だな」
「慾が深いくせに、人によく言はれ度いんですよ。乞食に米をやつて、町内中へふれ廻さしたり、金のあるに任せて、恐ろしく贅澤な眞似をする。――金貸しの癖に
「廣しと雖も――と來たね、何處でお前はそんな學を仕入れた」
「これがあつしの地ですよ、へツへツ」
「良い氣なもんだ――その怨んでゐる者の中でも、うんと怨んでゐる者は誰だ」
「
「大變な親爺だな」
「まだありますよ、番頭の孫作は、うんと溜め込んだのを
「成程、珍らしい
「それで自分だけ三度の膳に贅を盡して、何んとか樣へ寄附しては、でつかい札を建てさせるのばかり見得にして居るんだ。さぞ後生が良いでせうよ」
八五郎はひどくプリプリして居ります。菊屋傳右衞門の生活態度が、よく/\氣に入らなかつたのでせう。
翌る日平次は、八五郎と一緒に横山町の菊屋を覗いて見ました。主人傳右衞門の遺骸を納めて、
番頭の孫作や、手代の伴造の追從顏をするのを宜い加減にあしらつて、平次は先づ主人傳右衞門の死骸を見せて貰ひました。
「これは何んでせう、親分」
ガラツ八の八五郎は、佛樣の前に飾つた机の上に、
「小判のやうだね、いくら佛樣の大好物でも、お
錢形平次も此判じ物には驚いた樣子です。
「へエ、それは小判で五十兩ございます。變な
番頭の孫作は尤もらしい調子で口を
「
「默つて居ろ、八」
「へエ」
平次は八五郎の
「そのワケといふのは何んだ」
「お隣りの柳屋の幸七さんが、
「そいつは固いことだね、――默つて居たら、知らずに濟んだかも知れないのに」
八五郎はまたさもしい口を
「いえ、帳面がありますから、默つて居ても、帳消しになるわけぢやございません」
番頭はまた番頭らしいことを言ひます。
「ところで、菊屋の
平次は問ひを變へました。
「大したもので御座います、――現金が三千兩、貸し金が一萬兩、地所家作は二三十ヶ所も御座いませうか」
「家督はどうなる」
「いづれ
「すると、主人が死んで一番喜ぶのは誰だ」
「――」
孫作は默つてしまひました。
「あれは誰だ」
中背の良い男――二十三とも見えるのが、何やら道具を持つて土藏から出て來ます。
「清五郎と申します。亡くなつた主人の遠縁の者で」
「此處へ呼んで貰はうか」
「へエ」
孫作が行つて何やら
「御苦勞樣で御座います、親分さん方」
挨拶だけは、思ひの外
「昨夜兩國の橋の上で一番酒を呑んだのは誰だえ」
平次の問は豫想を絶します。
「
「呑まないのは」
「男共では私が
「その代り
「酌はお市がやりました、――幸七さんもすつかり浮かれて酌をして居たやうで」
「橋へ行つて、遠くから花見をしようなどと、
「そいつはわかりませんが、――誰か言ひ出すと、一も二もなかつたやうです。皆んな飮み足りなかつたんですね」
清五郎の表情は
「お前は主人を怨んでゐたといふが本當か」
平次は短兵急に突つ込みました。
「怨んでゐたわけぢや御座いませんが――」
清五郎の顏にあり/\と苦澁の色の表はれるのを、平次は見のがす筈もありません。
續いて手代の伴造にも逢つて見ましたが、これは三十四五の鼠のやうな男で、何を訊いてもヘラ/\と笑ふだけ、馬鹿なのか利巧なのか、一向平次に要領を得させません。
「主人を怨む者?――飛んでもない、家の中にそんな人間があるものですか、貸金の取立てこそやかましい人でしたが、慈悲善根といふと、人一倍はずんだ方で、奉公人達も皆んな心からお慕ひ申して居りました、へエ」
こんな事をヌケヌケ言へる男です。
娘のお吉は二十歳といふにしては
勘當された若旦那の許嫁お延は一つ歳下の十九、これは可愛らしい娘でしたが、
「
女共を集めて置いて、平次の最初の問は斯うでした。それを聞くと、お延とお市は妙に顏を見合せて居りますが、容易に言はうとはしません。
「そいつは大事なことだぜ、橋の上へ
「默つて居ろ、八」
平次は驚いてその口を
近所の娘、お舟とお六にも逢つて見ましたが、これは何んにも知らず、最後に丁度菊屋にやつて來た、隣の小料理屋で、此事件には一番よい觀察者の地位に居た筈の、柳屋幸七とその女房のお角を物蔭に呼んで見ました。
亭主の幸七は四十五六、小意氣な
「錢形の親分さん、御苦勞樣でございます」
幸七は如才なく小腰を屈めました。
「五十兩の大金を佛樣の前に
「へエ、お恥かしいことで。新店で資本を入れ過ぎて、菊屋さんから、二年越し
「この無盡は?」
「町内の無盡で、昨夜の
と言つた調子です。
「ところで、昨夜の兩國の騷ぎのことだが、お前には少しも下手人の心當りはないのか」
「一向氣が付きませんが――」
「向島で一日中後を跟けた者が無かつたのか。その時は氣が付かなくとも、後で思ひ合せて、幾度も/\土手で逢つた顏といふのはなかつたのか」
平次の質問はさすがに
「さうですね、――さう言へば、一人、若い男が――
幸七の記憶は次第に
「その顏を見なかつたのか」
「何分頬冠りをして、顏を
「他に誰か、その男に氣の付いた者はないのかな、家の者は兎も角、――
「皆んな浮かれ切つて居りました、殊に鳶頭は虎になつて、往來の人をつかまへては盃を差して居た位ですから」
幸七は
「有難う、そいつは大變役に立ちさうだ、ところで、昨夜西兩國へ船をつけてから、もう一度橋の上へ行かうと言ひ出したのは誰だ――お前が一番氣が付いたさうだが――」
「そいつは――」
「女共――ことに下女のお市は知つて居たさうだが、言はないよ」
八五郎は口を容れました。
「清五郎さん――いやあの人は呑んでゐない。
「そんな事で宜からう、――いや、足留めをさせて氣の毒だつたな、――八、鳶頭を搜して來てくれ」
平次は幸七夫婦に別れて、庭の方へ行きました。其處にはもう八五郎が、鳶頭の文次をつかまへて、話の口火を切つて居ります。
狹い庭で、せゝこましい植込の上へ、土藏の
「鳶頭に聽くと、菊屋の關係の者で、恐ろしく背の高いのは、
八五郎は早くも先を潜つて居りました。
「その若旦那の姿を、昨日向島の土手で見掛けなかつたかい、頬冠りをして居たさうだが」
「見かけませんね、――あつしは若旦那とは仲良しでね、少しくらゐ醉つて居ても、若旦那を見落すやうなことはありませんよ。
「
「可哀想に一年越し潮來に島流しですが、預けられて居るのは
「すると、何だつて勘當になつたんだ」
「其處まではこちとらにはわかりませんが、――お延さんと滅法仲が良いくせに、道樂が過ぎたやうで――女道樂ぢやありません、繪も描く、
「そんな事か」
平次は少し
「あんな結構な若旦那はありませんよ。女と酒が大嫌ひで勘當された若旦那は、神武天皇以來初めてだらうつて町内の噂ですよ」
「もう一つ訊き度いが、昨夜、兩國橋へ引つ返さうと言ひ出したのは、誰だえ」
「あつしだつたかもしれませんよ、――いや待つて下さいよ、誰か言ひ出したんで、あつしもついそんな氣になつて、眞つ先に橋へ引返したが――」
「その言ひ出したのは男か、女か」
「男ですよ――ハテ、誰だつたかな」
鳶頭の記憶も此邊はすつかり
平次は後のことを八五郎に任せて、一應引揚げることにしました。それを追つかけるやうに、
「潮來へ人をやつて見ませんか、親分」
ガラツ八も其處までは氣が付きます。
「やつて見ようと思ふ――が、そいつは多分無駄だらうよ、俺の見當では、橋の上に殘つた奴が下手人に間違ひあるまいと思ふ」
「へエ?」
「向島の土手で、菊屋の同勢の跡をつけ廻した人間があるにしても、菊屋の同勢が船で兩國へ着いて、直ぐ引返すとは氣が付くまい」
「心得た者なら、先へ廻つて兩國の船着き場で待つて、橋へ一緒に引返す
八五郎はもう一つ智惠を絞りました。
「頬冠りの男は、船が出てからまで、向島土手で見送つて居たといふぜ、それから人混みの中を駈け出して、船より先に西兩國の船着場に來る工夫はないよ、嘘だと思ふなら、
「成程ね」
斯う言はれると、頬冠りの男が下手人でないことは、あまりにも明かです。
その晩、通夜の席へ、菊屋の伜傳四郎は歸つて來ました。
「親の言ひ付けには
近所の衆や親類達へ、丁寧な挨拶です。
もと/\無理な勘當と知つてゐるので、それを非難するものなどがあるわけもなく、其場から傳四郎は指導者とも
それを迎へて一番喜んだのは許嫁のお延で、
變死人のことですから、世間への聞えも如何といふので、半通夜で近所の衆は歸し、裏表の戸も締めさして、あとは近い親類だけが殘りました。それも夜中過ぎは眠る人が多く、お勝手に一人殘つてお茶番をして居た下女のお市も、夜半過ぎになるとすつかりくたびれて、他愛もなく、居眠つて居りました。
翌る朝、一番先にお勝手へ來たのは、いつものやうに、朝の支度を手傳ふお延でした。
「おや?」
近づいて見ると、僅かに
「あつ、お市さんが――誰か來て下さい」
お延は悲鳴をあげてしまひました。
「何んだ/\」
飛出して來たのは、通夜の人達――眞つ先に立つたのは、
騷ぎは一瞬にして煮えくり返りました。
「あつ、戸を開けるんぢやない、鍵が掛つてゐないか」
お勝手口を開けようとした清五郎は、八五郎に叱り飛ばされました。
「締つては居るが、
「待つてくれ、俺はちよいと戸締りと外廻りを見てくる、――後は番頭さん、頼むぜ、――第一番は醫者を呼ぶんだ」
お市の死體はもう冷たくなつて居て、呼び生ける
ふり仰ぐと土藏の壁だけを殘して、あとは嚴重な黒板塀をめぐらし、眞新しい忍び返しが、中空に無氣味な
八五郎は大急ぎでお勝手に取つて返しました。其處から奧へは一方口で、ツイ鼻の先には、お通夜の人も七八人居たのですから、店からも奧からも、その關所を通らずに此處へ入る道理はなく、曲者はお勝手から入つたのでなければ、お通夜の人の中に
間もなく、町内の本道(内科醫)が坊主頭を先に立てて來ましたが、冷たくなつた死體ではどうしやうもなく、醫者の歸つた後には家の者と泊り客が全部で十數人、お互に白い眼で見張り合ひ乍ら、無氣味な時が經つばかりでした。
それから
「八、何んとしたことだ、お前が見張つて居て」
「へエ、面目次第もありません、――お勝手でワザをするとは氣が付かなかつたんで」
八五郎の
「でも、お前が、泊つてゐたお蔭で、後の調べは助かるだらう。どんな樣子だつたんだ、
平次にそれでも、八五郎の腐つてゐるのを引立てるやうに、斯う話しかけました。
「御通夜には何んの變りもありません。夜中過からはお市も顏を出さなかつたし、手洗に立つた人の外には、皆んな居眠りして居ましたよ。御近所の衆と、通夜の坊主は宵のうちに歸してしまつたし、氣の置ける人も居なかつたんでせう」
「小用に立つたのは、誰と誰だ」
「一度や二度づつは皆んな立ちました」
「それから」
八五郎はそれに應へてお延が死體を發見してから、内外の戸締りを見て廻つた事を話し、
「醫者が來て、殺されたのは
「首を締めて居た前掛は――」
「私ので御座いました」
ガラツ八に、ジロリと顏を見られると、清五郎は尻を引つ叩かれたやうにあわてて名乘つて出ました。
「親分さん、――清五郎に間違ひがある筈はありません、それは私が引受けますが――」
口を出したのは背の高い三十男で、何となく此家の空氣にそぐはぬ
「お前は?」
「あ、申遲れました、私は此家の伜の傳四郎で御座います」
「さうか、お前は清五郎を
「庇ふわけぢや御座いませんが、――清五郎は良い男で御座います。私とは無二の仲で、それに、自分の前掛で人の首を締めるやうな馬鹿な下手人もないだらうと思ひますが」
傳四郎も少し出過ぎたのを後悔して居る樣子ですが、
「お前は一昨日向島へ行かなかつたのか」
平次は全く別のことを訊ねました。
「いえ、何處へも參りません」
「何處に居たんだ」
「橋場の友達の家に居りました――
これは結構過ぎるほど結構な
「お延さんに訊き度いが――」
「ハイ」
人の後ろに小さくなつて居たお延は
「お市は昨夜何にか言はなかつたのか」
「いえ」
「一昨日、兩國橋に引返さうと誰が言ひ出したか――お市はそれを知つて居たと思ふ」
平次は愈々最後の問ひを投げかけたのです。
「え、幾度も私に何にか言ひ度さうにして居ましたが、――まア/\言はない方が無事だらう、明日の天道樣を拜んだら又氣が變るかも知れないが――と、到頭言はずにしまひました」
「フーム」
平次はひどく殘念さうです。
「親分、手掛りはそれですつかりなくなつたわけですね」
八五郎は、狹い庭に降り立つた平次の後を追つて來ました。
「いや、手掛りはうんとあるよ、――
「何を當るんで? 親分」
「まア、默つて來るが宜い」
木戸を出ると、忙しさうに入つて來たのは鳶頭の文次です。
「お早う御座います、夜分」
「大層早いんだね、鳶頭、早速だが少し訊き度いことがあるが」
「へエ」
「菊屋の主人に女道樂はなかつたのか」
平次の問ひは相變らず八五郎の豫想を絶します。
「ありましたよ。あの年で、その病氣があるんで、隨分諸方の怨も買つたやうです」
「近いところでは?」
「大きい聲では言へませんが、お隣の柳屋の
「よしつ、八」
「へエ」
「下手人はわかつたよ」
「誰です」
「あの忍び返しを越して來た奴だよ」
「へエ?」
「向うの物干しから、此方の物干しへ板を渡したのさ、達者な奴なら板でなく丸太でも渡れるだらう。物干臺から物干臺へ、精々一間半位なものだ。忍び返しの上を樂に越せるぢやないか、二間位の板か丸太があつたら」
平次と八五郎は隣の柳屋へ飛込みました。
其處には
「お早う御座います、親分さん方、何んか御用で」
幸七のケロリとした顏には、
平次は默つて裏口へ廻りました。
「八」
「二間以上のものはありませんね、親分」
「――」
「干物竹ぢや猫の子が渡る位のものです」
八五郎はまた無駄を言つて居ります。
「八、此
平次は新しい土に交つて、塀の下に掃き寄せられた
「へエ」
八五郎の感の惡さ。
「二つ三つに引つ切つた板か丸太がある筈だ、搜して見ろ」
「それならありますよ。四寸角の材木が三本、皆んな四五尺のですよ。物干から物干へは屆きませんが」
八五郎は縁の下から、三本の材木を引張り出しました。
「それだ」
「切口が泥だらけですよ」
「匂ひを嗅いで見ろ、新しい木の匂ひがするだらう。泥も新しいぢやないか、その材木で物干臺から物干臺に渡つて菊屋に行き、歸つて來てすぐ
「あゝ、逃げ出した樣子ですよ、親分」
「大きな聲で怒鳴れ。眞晝の横山町だ、逃げ
「御用ツ」
八五郎の蠻聲が、逃げて行く幸七とその女房のお角の後を追ひます。
× × ×
間もなく幸七夫婦は處刑され、傳四郎とお延は祝言をして菊屋を繼ぎました。清五郎とお吉が一緒になつたことも言ふまでもありません。
大分經つてから八五郎のせがむまゝに、平次は
「幸七は惡い野郎だが、恐ろしく智惠の廻る奴さ。女房のお角とぐるになつて菊屋の主人から金を引出したが、段々それが
「へエ」
「傷口が上向で、胸へ眞つ直ぐに突き立つたのは、右側に居るものの仕業だ。左側に居ると傷口へ近いやうだが、匕首を
「――」
「それから、幸七が
「成程ね」
「下女のお市を殺したのは口を
錢形平次も舌を捲いて居ります。そして最後に斯う續けるのでした。
「幸七は惡人だが、殺された傳右衞門も隨分イヤな人間さ、あんな人間とは附き合ひ度くないな。伜の傳四郎は良い男だよ、馬鹿な道樂を少し