「親分、金儲けを好きですか」
ガラツ八の八五郎、また飛んでもないことを言ひ出すのです。
櫻は過ぎたが、遊び足りない江戸の人達は、ゆく春を
相變らず神田明神下の平次住居の段、親分は
「
平次は腹を立てる張合もなかつたのです。
「でも、今晩お
「何んだえ、その寶掘りてえのは?」
「親分は御存じないんで、そいつは
「生意氣なことを言ふなよ。お前は近頃、油斷大敵だの、燈臺下暗しだの、妙なことを言ふやうだが、何處で仕入れて來るんだ」
「
それは神田宮本町の大地主、金貨で肥り過ぎた身上を、近頃は扱ひ兼ねてゐると言はれる程の、寶屋清右衞門の居候で、野
馬鹿の宇八といふのは、町内の厄介者、本人は決して馬鹿ではないと威張るのですが、調子が變で、
その頃は『居候の名人』といふものがあつたとさへ言はれて居ります。器用に障子を
「成程、近頃お前の樣子が變だと思つたら、悧巧者の吉太郎といふ振り附けがあつたのか、あんな男の眞似をしてゐると、人には調法がられるが、段々縁遠くなるばかりだよ」
平次にして見れば、八五郎が何時まで獨りでゐるのが氣になつてならなかつたのですが、近頃は街の人氣者になり過ぎて、嫁の口も聟の口も、持つて來る者のなくなりかけてゐるのが、子分思ひの惱みだつたのです。
「安心して下さいよ。八さんと一緒になり度いといふのが三四人はあるから、いづれあの
そんなことを言ふ八五郎です。お勝手の方では、平次の女房のお靜が、たまらなくなつて吹き出してゐる樣子。
「その氣で居るから、お前といふ人間は何時までも若いんだらうよ。ところで寶掘りはどうしたんだ、燈臺下暗しの
「そのこと、そのこと」
「忘れちやいけねえ」
「櫻の馬場で、今晩暮れ六つを合圖に寶掘りが始まるんですが、親分も行つて見ませんか。運がよく小判でも掘り當てると、こいつは一つ呑めますぜ」
「佐渡の國なら金を掘る話は聽いたが、江戸で通用金の小判を掘る話は初耳だよ」
「へエ、親分が知らなかつたんですか、現に此間――と言つても、まだ櫻の咲いてゐる頃、向島に一度、
「聽いたやうな氣もするが、花見の
平次はそんな遊びの相手になるほど暇ではなかつたのです。
「花見の趣向には違ひありませんが、こいつは矢張り
「驚いたのは
「それに一分金を掘り當てた奴」
「そいつは、勘進元の仲間ぢやなかつたのか」
「親分はさすがに目は屆くが、大丈夫、仲間ぢやありません。三河島の百姓で、親孝行で評判の良い男」
「それから?」
「向島では
「小判を景品に出しちや、少しくらゐの入りぢや追つくまい」
「多分、花見の客が落したのを、寶搜しで拾つたのだらうといふことでした。勸進元の山の宿の喜三郎も
「その小判を拾つたのは誰だえ」
「馬鹿の宇八で」
「成程」
「尤も馬鹿の宇八は一と月經たないうちに、その一兩の小判を
「それで、三度目は櫻の馬場か」
「花は散つてしまつて、向島も飛鳥山も毛虫だらけ、當分人寄せも出來ないと思つて居ると、二三日前から馬鹿の宇八が神田中を觸れて歩きましたよ。丁度今日の暮れ六つ、櫻の馬場に寶搜しが始まる――とね、今度は木戸錢は要らねえ、心願の筋があつて、小判三枚と小粒を十枚隱して置く、望みの者は勝手に搜せ――とね」
「心願の筋があつて――と。馬鹿の宇八は本當に言つたのか。燈臺下暗しの
「確かに言ひましたよ。あつしも現に聽いたんだから、間違ひはありません」
「さて、八」
「へエ?」
平次は急に改まりました。
「今晩は何んか始まるに違ひないよ」
「寶搜しで?」
「寶搜しの外に、何んか
「へエ、猫の玩具ね」
「それから、山の宿の喜三郎と、馬鹿の宇八を搜し出して、寶搜しがお仕舞になるまで見張らせろ」
「そいつは少しむづかしいぞ」
「櫻の馬場を、掘り散らしたら、うるさいことになるかも知れないが、俺とお前はその騷ぎに入らずに、明神樣の境内と、
「へエ」
この意味は八五郎には一向わかりませんが、兎も角一應は承服して、その夜に備へました。
寶掘りといふものは、どんなに
由井ヶ濱の海水浴場の寶掘りは、今でも時々行はれ、まことに
明治の三十年代、ある大新聞社が計畫して、東京を中心に、日本各地で寶掘りをやつたことがあります。その第一回は確か明治三十五六年の頃、新聞の記事の中に謎を隱して『淺草でなく鐘は何處』と言つた第一句から、二句、三句と判じて、上野山内の黒門に小判形の寶を隱し、それを
十圓の勸業債券といふと、今の金にして、一萬圓にも匹敵したでせう。東京中の彌次馬が上野に集まつて、山下から山内の
その新聞の寶搜しの第二問は『美しき女神の門』といふので、池の端の辨天樣の門のやうに
平次が關係した、この時の寶掘りも、最初は大したことでもなかつたのですが、兎も角飛鳥山の一角を
神田明神と聖堂の間、葉櫻で圍まれた一角に、その日の晝過ぎから集まつた彌次馬が、ざつと二三千人、日の暮れるまでは、互に
寶は決して深くは埋めて居ないのですが、
「あつたツ」
「小判を一枚掘り當てたさうだ」
「どれ」
人は八方から集まりましたが、掘り當てた若い男は、それを掻きわけて、何處かに姿を隱してしまひました。
「まだ二枚殘つて居る」
「其處は俺の繩張りだ、退いてくれ」
「寶搜しに繩張りがあるか。野郎ツ」
「何をツ」
中には喧嘩まで始まる騷ぎでした。
四邊がとつぷり暗くなると、中には
「二枚目が見付かつた」
「
「向うでは丁銀が一枚」
掘り出した噂が傳はると、寶掘りの熱は加はるばかり。
「もう一枚小判がある筈だ」
「三枚一ヶ所に
「夜の明けるまでやつて見よう」
斯う言つた、寶搜し根性の彌次馬の熱心さは、想像以上のものがあります。これを仕事に振り向けたら、さぞ
最初から小判が出ないか、又は三枚の小判が、一ぺんに出てしまへば、此騷ぎはなかつたでせう。夕方から宵へかけて、二枚の小判が出て、あとの一枚がなか/\出なかつたばかりに、彌次馬の未練は夜半過ぎまで引きずられたのです。若し、計畫的にやつたことであつたら、これは實に巧妙極まる作戰でした。
小判一枚と言つても、純金四匁、今の評價で一萬圓以上になるでせう。一と口に小判と言つても、その頃の小判は非常に
大地主で金貸の寶屋清右衞門は、苦々しさが一杯でこの騷ぎを見て居りました。困つたことに、寶屋の裏は櫻の馬場の土手の下で、寶搜しの騷ぎは手に取るやう。家中の者は、主人の眼玉をのがれるやう、一人拔け、二人拔け
寶屋の家に殘つたのは、主の清右衞門と娘のお島だけ、そのお島は風邪の氣味で
「あツ」
主人の清右衞門は、ハツと氣が付くと、天地
「靜かにしろ。命までは取ると言はない」
ドスのきいた、變な聲が、耳のそばで囁きました。どうせ作り聲でせう。
「――」
清右衞門は、さう言はれなくとも、靜かにする外はなかつたのです。スポリと
「騷ぐな。いや、口をきくと、土手つ腹へズブリと行くぞ。立つて倉へ案内するのだ。
曲者は二人のやうです。一人は中年の男、圖太い聲でわかりますが、もう一人は、肌ざはりが柔かくて、プーンと鼻へ來る
「手荒なことをするな、――鍵は此處にある」
腰をさぐつて、清右衞門は大振りな鍵を取出しました。
「これつきりか」
「あとは私の手で開く」
清右衞門は少し
「さア、歩け」
厭も應もありません、眼隱しをされたまゝの清右衞門は、後ろから
「此處だよ」
清右衞門は、土藏の
曲者の一人は默つてその錠に鍵を差し込むと、土藏は至つて手輕に開けられます。
「さア、金のあるところへ案内しろ」
「――」
清右衞門は足さぐりで、默つて入りました。續いて二人の曲者は、
土藏の板敷の上を歩いて、清右衞門はフト妙なことに氣がつきました。身體はガタガタ顫へて、齒の根も合はない癖に、心氣は水の如く
現に二人の足音が、妙なリズムになつて、清右衞門の耳に響くのです。靜まり返つた土藏の中、その四本の足の踏み出す、特別のリズムが、
「金箱は何處にあるんだ。四つも五つも持出しやしない、たつた一つで澤山だ」
又も
「此處だ。
曲者は聲に應じて梯子段の下の隱し扉を開けた樣です。ガタガタと重いものを動かす音。二人は千兩箱を一つ取おろして、
「宜いか」
「――」
「それぢや御主人、一と箱借りて行くぜ。どうせ此世では返せまい、あばよ」
あとは眞の闇、兩手を後ろ手に
「あつた/\、三枚目の小判が見付かつたぞ」
誰やらが大きい聲で觸れると、櫻の馬場の一角に、バラバラと寄つて來た人波、其處に小判が落ちてでも居るのかと思ふやうに、暫らくは渦を卷きます。
「何んだ、つまらねえ」
「これで明日の仕事を休めば、飛んだ
「ざまア見やがれ」
バラバラと彌次馬の大群は、夜の町に散つて行きます。
寶屋の雇人達も、これで漸く本心に立ち
手代の與左吉、下女のお作、これは寶掘りのチヤムピオンで、それに
どか/\と家へ入つた七人、主人に顏を合せるのが、さすがに後ろめたいと思つたか、默つてそれ/″\の部屋に引取りましたが、下女のお作は、居候の吉太郎と共に、一應戸閉りを見て廻つて、さて、お孃さんのお島が、氣分が惡くて寢て居るのへ、外から聲を掛けました。灯が點いて居るのに、返事がありません。
「お孃樣、どうなさいました」
下女のお作は、心安だてといふよりは、日頃の不作法さで、廊下から障子をサツと開くと、
「あ、大變ツ」
一ぺんにのけ
一瞬、寶屋の上下は、
「旦那は? 早く旦那に申上げなきや」
番頭の庄六が漸くそれに氣がつくと、手代の與左吉は、奧の主人の部屋に飛びましたが、暫くすると、つまゝれたやうな顏をして、呆然と戻つて來るのです。
「旦那がいらつしやらない」
「そんな馬鹿なことがあるものか」
「
「搜して見ろ」
家中の者は、娘のお島のことも氣になりますが、それよりは、姿を隱した主人を見付けるのが急務になりました。
「寢間着に
「
「外ではないか」
それは併し、無駄な努力でした。土藏は二た戸前とも、嚴重に外から閉つて居り、主人清右衞門の
この騷ぎを聽いて、櫻の馬場の寶探しに、何にか異變がありはしないかと、宵から張つて居た錢形平次は、八五郎と一緒に乘込んで來ました。それはもう眞夜中過ぎの
「あ、錢形の親分、丁度宜いところで」
平次の顏を見ると、番頭の庄六は
「こんなことにならなきや宜いがと思つたら、矢張り」
平次は自分の家から數丁とも離れて居ない櫻の馬場に、
「お孃さんが殺されました」
「それも聽いたが、現場を見せてくれ」
番頭に案内されて行くと、寶屋の廣い
斯うなつては最早醫者も藥も及びません。平次は這ひ寄つて、八五郎に抱き起させました。
「可哀想に」
それは
柄は大きい方、この眞夜中に裝ひ
傷は左の
「灯が點いては居たのだね」
「行燈が灯いて居りました」
「この騷ぎの中に、お孃さんは、寶搜しにも行かなかつたのか」
「少し風邪の氣味だと仰しやつて、――尤も小判の一枚や二枚を、泥だらけになつて搜すやうな御身分でもありません」
番頭は言ふのです。尤も至極な言葉ですが、平次にはそれが
「風邪を引いたものが、紅白粉で、晝の着物のまゝ、夜中過ぎの部屋に坐つて居るだらうか」
「さア、其處までは」
番頭の智惠はすぐ行止ります。
「御主人はどうしたんだ」
「
「それは放つて置けまい」
平次は立上がりました。事件のあまりにも容易ならぬ形相に驚いた樣子です。
其處に集まつた、七人の顏を
平次は默つてその行き着く先、土藏の
「此處の鍵は?」
「旦那が腰につけていらつしやいます」
「外には」
「代りの鍵は私がお預りしてあります」
「開けてくれ」
番頭の庄六が鍵を持つて來ると、何んの苦もなく土藏が開きました。そして其處には、散々氣を
清右衞門は弱り果てて居りました。宵から夜半過ぎまで、頭に風呂敷を
「何、お島が殺された」
清右衞門の驚きは、痛々しいほどでした。六十歳の老人、長い間の滿ち足りた生活が、此處に眞つ黒な溝で斷ち割られ、一瞬失望のドン底に
暫らくは涙もない老人の深い嘆きを、七人の家の子郎黨は、默つて見詰める外はありません。
「行つて見よう」
「大丈夫ですか、旦那」
「何が何んであらうと、此眼で見なきや、本當と思へない」
「あ、お島、矢張りお前は」
娘を抱き上げて清右衞門は、聲のない
「御主人、誰が斯んなことをしたのです。心當りはありませんか」
と平次。
「ない、ない。人に殺されるやうな娘ではなかつた」
「でも此通り」
「
清右衞門――日頃貧乏人を虫ケラのやうに見下す寶屋の主人は、平次の前へ深々と頭を下げるのです。
「旦那、お氣の毒なことです」
「だから、今すぐでも
「――」
「今直ぐ縛つて下さい。夜の明ける前に下手人を擧げて下されば、寶屋の
主人の清右衞門は娘の死骸をかき抱き乍ら、此時始めて滿面の涙にむせ返るのです。
「御主人、少し待つて下さい、必ず下手人は擧げて見せるが、今となつては」
平次は此事件のむづかしさを
「私はもう、明日といふ日を待つ氣になれない。無駄だらうが親分、明日まで待てば、私は死んでしまひます」
「――」
「今夜のうちに下手人を搜し出し、この藏の前で縛らせて、私は寶屋の身上を投出して、
娘の死骸を抱きしめ抱きしめ、清右衞門はわめくのです。
「では、念のために、日が暮れてからのことを
平次はこの動亂の中にも、組織的な問ひを
が、その答と言つたところで、まことに頼りないものでした。お島の婿は、養子の草之助に決つて居り、寶屋を怨む者と言つても心當りがなく、今晩千兩箱を持つて行つた二人組の泥棒は、全く聲に覺えがなく、一人はたしかに女であるらしい外には、何んの
二人の足音に、不思議に一種のリズムがあつたと言つたところで、シンコペーテイングな調子は、説いてもわからず、話しても呑込ませやうはありません。
丁度その時でした。外から一隊の人數が、ドカドカと押込んで來たのです。
「錢形の親分、この
先に立つたのは、顏の古い御用聞で、事毎に平次と張合つてゐる、中年男の
「おや、三輪の親分」
平次はあつけに取られました。下谷の奧から、山谷あたりをかけて繩張りにして居る、三輪の萬七の出る幕ではありません。
「寶掘りは
「それはもう」
「あの時から調べ掛つて、山の宿の喜三郎が、馬鹿の宇八を使つてやつた
「――」
「これ丈けの細工をするために、飛鳥山と向島は
「お孃さんを殺したのは?」
平次はツイ問ひ返しました。
「行きがけの駄賃さ。千兩箱を持出したところを、お孃さんに見付けられて、聲でも立てられては大變と、ブツリとやつたんだらう」
「それにしては、お孃さんが、此夜中に床も敷かず、紅白粉で、
「そんなことを、俺が知るものか。若い娘の身だしなみは、こちとらに見當もつかないよ」
「いや、お孃さんは、風邪を引いたと言つて外へも出ず、あの騷ぎもよそに、誰かを待つて居たんだ」
「それが、どうしたといふのだ」
三輪の萬七は少し喧嘩腰でした。
「それに、土藏から千兩箱を奪つた二人組の一人は女だつたと、御主人が言つて居る。もう一つ」
「勝手にしろ。俺は兎も角、夜が明けさへすれば、喜三郎と宇八を擧げて、番所で叩いて見る」
「それぢや、夜の明ける迄、この俺に任せてくれるだらうな」
「宜いとも。二人共恐ろしく口が固いが、石を抱かせる前に口を割らせるのも、せめて錢形の
三輪の萬七は言ひたいだけのことを言つて、一と間へ引揚げるのです。
「親分、大丈夫ですか」
三輪の萬七の後ろ姿を見送つて、八五郎はソツと囁くのです。
「少しも大丈夫ぢやないよ。でも、斯うなれば行がかりだ、夜の明ける迄に、下手人を
錢形平次も心細いことを言ふのです。
「ところで、最初に喜三郎に訊き度いが」
平次は喜三郎の繩尻を持つて居るお
「どうぞ、御勝手に、――頼むぜ、八
お神樂の清吉は、喜三郎の繩尻を八五郎に渡して、親分の萬七の後を追ふやうに別間に退きました。どうせ大したことは出來ないと言つた、
「ねえ、おい、山の宿の」
「へエ、へエ」
平次に呼ばれて、喜三郎は
「正直のことを言つてくれ。正直に言ひさへすれば、お前の命は助けてやる」
「へエ、お願いたします。みんな申上げます。私は決して惡いことをしなかつたとは申しませんが、首を切られるやうな事をした覺えはございません」
「寶さがしの
「それはもう、決して私でないとは申しません。二十四文の木戸を取つて、小粒を二つ三つ掘らせました。それでも人氣に
「待てよ、向島の
「私はそんなことをした覺えは御座いません。花見客の落したものでも御座いませう」
「誰かが、わざと寶搜しの中へ小判を投げ込んで、次の
「そんな事があつたかも知れません。現に私のやつた寶搜しは、飛鳥山と向島の二度だけで、今晩の
「それは間違ひあるまいな」
「小判三枚も拾はせては、商法になりません」
「成程な」
「私の
喜三郎の言ふのは、どうも
「それぢや、宇八に訊かう」
「へエ」
馬鹿の宇八は、八五郎に負けないほどの長んがい顏を一倍長くしました。
「お前は寶搜しで、何をやつた」
「寶搜しがあるといふことを、親方に頼まれて、精一杯觸れただけだよ」
「親方といふのは」
「向島と飛鳥山の時は、山の宿の親方に頼まれたが、今夜の櫻の馬場のことは、
「他の人、――そいつは大事だ、誰だ」
「知らねえよ、――女の人だつたが、若くて綺麗な人だらうと思つたよ」
「誰だえ、それは?」
「顏を隱して、そつと頼んだから、何處の誰か、知らないよ」
「何にか、お禮を貰つたのか」
「小粒と青錢を一と
「その人に
「俺の泊るとこをよく知つて居て、二度くらゐ路地で逢つたよ」
これでは手のつけやうもありません。
平次は暫らく考へて居りましたが、八五郎と下つ引二人を、何やら言ひ含めて八方に散らしました。
もう曉方近く風は薄寒くなりますが、三輪の萬七と約束した
平次は子分の者に二人の繩付を預けて、もう一度家中の者に逢つて見る氣になりました。主人清右衞門は、娘の死に打ちひしがれて、何を訊いても、はか/″\しくは行きませんが、養子の草之助は思ひの外ハキハキして、
「お島が死んでしまへば、他人の私は此家から出る外はありません。寶屋の後を
と諦めた調子で言ふのです。二十五といふ血氣盛んな
お島の聟になつて、寶屋を繼ぐ筈だつたとすれば、成程身を引くのが當然で、これはお島の死によつて一番大きな
手代の
「私は若旦那と一緒に飛出して、始終傍に居りました。實は二つ目の小判を見付けたのはこの私で、――此通り此處に持つて居りますが、それで引揚げようとすると、若旦那は、一つ見付けたものなら、此邊にもう一つあるかも知れない、とさう申しますので、二人で又搜しました。それから間もなく若旦那と別れ/\になりましたが、三つ目の小判を誰か見付けたとき、又二人は一緒になつて家へ入りましたが」
さう言ふ與左吉は、お島の死骸を直したりしたらしく、手にも着物にも少し血が附いて居ります。
お富といふのは二十七八の平凡な女で、これは出戻りの
下女のお作は三十七八の
吉太郎といふ居候は、
最後に番頭の庄八、これは平凡な中老人で、
「
こんな事を言ふのです。
「ところで、皆んなの居た場所を、この櫻の馬場の繪圖面に
平次は半紙を持つて來さして、ザツと櫻の馬場の繪圖面を描き、それに、七人の居た場所を印させました。
「それからもう一つ、皆んなの手を見せて貰ひ度い」
それは不思議な頼みでしたが、目の前に出した七人の十四本の手を見比べて、平次は恐ろしく細かく、
こんな事をして居るところへ、八五郎が、何やらキナ臭さうな顏をして入つて來ました。
「わかりましたよ親分」
さう言ふのを、そつと物蔭へ引つぱつて行き乍ら、
「齒こぼれのある
「手代の與左吉ので」
「それから」
「與左吉の拾つた小判は、若旦那が懷ろから取出して、そつと
「――」
「居候の吉太郎は、あんな不景氣な男ですが、飛んだ働き者で、掛り人のお富と馬鹿に仲が良いさうで」
「フム」
「もう一つ。今夜、お孃さんのお島さんと、手代の與左吉は、寶搜しの騷ぎの最中、そつと逢ふ約束だつたんですつて」
「誰がそんな事を言つた」
「下女のお作ですよ。お孃さんは若旦那の草之助を嫌つて、手代の與左吉に親しくして居たんですつて」
「よし、もうわかつた」
「何がわかつたんです、親分」
「お孃さんを殺した
「へエ?」
「外の人の手は、泥の上に血が附いて居たが、たつた一人、血の上に泥のついた手をして居るのがあつた。
「あ、若旦那」
「その通りだ、來いツ」
八五郎が飛んで行つた時、逃出さうとする若旦那の草之助は、それを引留めようとする居候の吉太郎と、取つ組み合つて居りました。
「親分、お氣の毒だが、此處で若旦那を
さう言ふ居候の吉太郎の顏は
「ところで、千兩箱を盜つたのも、若旦那ですか」
八五郎は若旦那の草之助を縛つた後で、平次に囁きます。
「いや違ふ。默つて居さへすれば、寶屋の身代が轉げ込む草之助が、そんな事をする筈はない」
「すると?」
「待て/\、主人に訊き度いことがある」
平次はもう一度主人に逢つて、何やら
「その通りですよ、私が風呂敷を冠せられて聽いた足音は」
それは正常な二つの足音に
「八、主人を倉の中へつれ込んで千兩箱を持出したのは、女と、もう一人は足の惡い男だ。慾は深いが、千兩箱を一つづつは持てなかつたわけだ」
「よし、あの
八はもう一度店へ飛んで行きました。が、その時はもう平次と八五郎の話を
「何んといふことだ」
ぺツ/\と
「締めろ。三輪の親分も何にか手柄をしなきや引つ込みがつくまい。お前は若旦那の草之助を引立てて
「おや、もう夜が明けましたね」
「丁度良い舞臺だ」
平次と八五郎は、吉太郎とお富を三輪の萬七とお神樂の清吉に任せて、宮本町の往來へ乘出しました。
櫻の馬場はメチヤメチヤに掘り荒されて、人間の慾の皮のやうに