「困つたことがあるんだがな、八」
よく/\の事でせう、錢形平次は額に煙草を吸はせて、初秋のケチな庭を眺めるでもなく、ひどく
「なんです、
日に一度づつはやつて來るガラツ八の八五郎、今日は
「馬鹿だなア。女出入りは
「へエ、あつしの智惠はローズ物ですかね」
「不足らしい顏をするな」
「それにしても、今日は風當りが強すぎやしませんか。額の八の字に、吸口の
八五郎はさう言ひ乍ら、彼岸過ぎの陽の這ひ寄る縁側に、ドタリと腰をおろしました。
「大きい聲ぢやいへねえが、――俺は町方の御用聞だ。大名や旗本屋敷へ行くほど嫌なことはねえのさ」
「物を頼んだ上に威張るから、武家屋敷と聽いただけでもムヅムヅしますよ。こちとらは祿も
八五郎と來ると、平次に輪をかけた武家嫌ひでした。
「ところが、ポンポン斷わるわけにも行かねえことがある。八丁堀の笹野の旦那が、
「へエ」
八丁堀の笹野の旦那、
「
「成程ね」
「瀬尾淡路守樣は、南の御奉行樣とは
「へツ、そいつは飛んだ面白い仕事かも知れませんよ。乘込んで行つて、三千五百石の大旗本の屋臺がガタピシするのを眺めるのも
八五郎は飛んだ人の惡いことを言ひます。
「馬鹿野郎、そんな氣で行つちや、間違ひの
平次は決心が付いたものか、立上がつて支度を始めました。八五郎の
「親分、そいつは情けねえ、あつしも連れて行つて下さいよ。武家の惡口なんざ、忘れても言ふこつちやありません」
「何んだ、氣が變つたのか。お前は此處で猫の
「からかつちやいけませんよ」
八五郎はまさに敗北でした。それでも平次の後についていそ/\と小日向に向ひます。
美しく晴れた晝下がり、初秋の陽はまだ存分に暑いのを、置手拭で
裏門から入ると、門番の
「錢形の親分、さア、どうぞ。殿樣はことの外お待兼ねだ」
などと如才がありません。不斷なら木で鼻をくゝる奴だがと、八五郎は肩を
「ちよいと伺ひ度いが――御門番」
「何んなりと」
平次は門番の老爺の前に、愛想よく立ち止りました。
「この御門は
「正
「若殿樣の御指圖があれば?」
「飛んでもない」
門番の老爺は
恐らくそのやかましい門限も、
「若殿が昨夜御出かけになつた刻限を御存じだらうな」
平次はそれが訊き度かつたのです。
「それが不思議でな、――有りやうは近頃殿樣直々のお指圖で、若殿樣を外へ御出ししない事になつて居たのぢや。昨日も
老門番は頑固らしく首を振るのです。
その一歩も外へ出なかつた筈の若殿金之進は、何處から潜り出て、塀外で殺されたのでせう。
平次は默つて引下がる外はありませんでした。
其處から眞つ直ぐにお勝手へ行くと、其處には用人の平山平助といふのが、丁寧に出迎へて居ります。いかに丁寧なあしらひでも、三千五百石の大身の見識で、さすがに町方の御用聞を、玄關にも通し兼ねるのでせう。八五郎は少々
「八、お前は外の樣子を念入りに見て來るが宜い。お屋敷の中は言ふ迄もなく、御近所の噂も出來るだけ掻き集めるんだ。頼むよ」
「心得た、親分」
八五郎はこの尤らしい用人に、一つ
「これは/\錢形の親分。先づ、先づ」
などと言ふのを、
「殿樣に御眼通りを願ふ前に、若樣の御遺骸を拜見し度いので」
平次は一應の註文をつけました。
「成程尤もなことで、どうぞ此方へ――」
廊下を幾曲り、小大名の中屋敷ほどの豪勢な構への中を奧深く進んで、とある八疊の前に平次は案内されました。中には若い女が二人と中年の女が一人、まだ入棺も濟まぬ若殿金之進の死骸を挾んで、愚痴やら
中年の女といふのは、當主瀬尾淡路守の奧方で、殺された金之進の母親時野で、四十二三のまだ色つぽさの殘る武家風らしくない女でした。
二人の女の一人は養女のお豐で、これは遠縁の者。金之進の
もう一人はお紋と言つて十八、これは世にも可愛らしい小間使でした。豐かな頬と、滑らかな眼と、
平次の顏を見ると、三人の女は
平次はそんな事は氣にも留めない樣子で、
それは良い血統――と世間に思ひ
長い世代に
それは何代に亙る父系の
その好い男の若い武家が、自分の刀で自分の首筋を突き拔けるほど、縫はれて、蟲のやうに殺されてゐるのです。
「これを見付けられたのは?」
「近所の衆多勢の騷ぐのを聽いて、
平山平助はこの上もなく丁寧でした。
「その喜助とやらは?」
「中間部屋に居る筈だ。呼んで來ようかな」
「いや、後で、皆んなにお目にかゝりませう、――若樣お
「下水の中で、ひどく汚れたので、取敢へず清らかなお召と替へたのだが――」
喉笛の傷の凄まじさに似ず、羽二重の小袖に血潮の
「若樣は昨夜、何處へ行かれたので?」
平次の問ひは至極平凡ですが、用人平助に取つて、それは一番厄介な急所らしくもありました。
「それが、その、何分お若いので」
何分お若い金之進は、夜中にフラフラと遊びに出る癖などがあつたのでせう。
平次は若殿の首筋の傷をもう一度念入りに調べました。左側から眞つ直ぐに突つ込んだ刀が、見事に右の耳の下へ突き拔けたほどの傷で、これは掛け矢か何にかで叩き込まなければ、人間の手で付けられる傷ではありません。
「若殿、御武藝のたしなみは?」
「至極の手の内で御座るよ。一刀流の折紙で町人や下郎に
その町人下郎に怨みを結んでゐるのでせう、平山平助は語るに落ちます。
それにしても、横から
若殿がその時帶びて居た兩刀は、拭ひをかけて別室に置いてありましたが、取寄せて見るといづれも相當の
「これは何處にありました」
「門前の下水の
平山平助はさすがに聲を落します。
「腰には確かに
「
武士としてはそれは自慢になる死にやうではありません。
だが、平次はこの男から突つ込んだ事を訊き出すのを
「平山樣、――お屋敷の中を、勝手に歩いても構はないでせうな」
「それはもう、平次親分」
「何處の部屋へ飛び込んで、何をやらかしても、無禮とがめをしないといふお約束をして下さいませんか」
「さア」
平山平助は二の足を踏みました。それは用人の權限外のことのやうでもあります。
「いけませんか、御用人」
「それは殿樣にお目にかゝつて直々申上げては何うぢやな」
「それをやつて居ると、今日中には
清和源氏の
平次は用人の平山平助の不滿らしいのを後に殘して、當てもなく廊下を踏んで居りました。この家に
「錢形――とやら」
「――」
女部屋の前へ行くと、そつと側へ寄つて來て囁く者があります。聲だけは惡くないアルトですが、顏は
「親分、――お紋に氣をつけて下さい、あの人は若樣の御
「それは?」
平次に反問する隙も與へず、
「?」
平次は默つてそれを見送つて居りました。果して、容易ならぬ
有合せの庭下駄を突つかけて、泉石の
「?」
平次はもう一度首を
何處の屋敷でも、不淨門などはあまり出入りするものではなく、掛金も錠も
若殿の金之進は、夜な/\此處から外へ出たのでなければ、誰かを引入れて居たことでせう。
念のために手を掛けて見ると、海老錠は嚴重におりて居て、鍵が無ければ開けられさうもありません。
「御用人、此處の鍵は?」
平次はうさんな鼻をヒクつかせ乍ら、それとはなしに
「この間から、それが紛失して、
平山平助心得たことを言つて居ります。
「それは不自由なことで」
「いや、何とか早く申付けよう」
「
「何んぢやな」
「私がこの海老錠の鍵を見付けて差上げませうか」
「ほう、親分がね?」
平山平助の顏には、妙に
「それから、不淨門の側、一間ほど南へ寄つた塀に、こんな泥の附いて居るのを御存じでせうな」
「いや、一向氣が付かぬが」
「下の草を踏み荒した上、塀には引つ掻きの跡まで着いて居ります」
「?」
「それより先に、さう/\鍵を搜すのだつた」
平次は不淨門を背にして、グルリと一と廻り、
「平次親分、手輕に言ふが、鍵はもう一と月半も前からないのだよ」
「一と月半?」
「左樣、丁度月見の晩――庭の
「なんだ、この燈籠ぢやないか」
平次は植込みの中をわけて、一基の雪見燈籠に近づくと、腰を屈めてその火屋の中に手を入れました。
その手に搜り出された鐵の丈夫な鍵が、石燈籠の
「何んだ、そんなところに?」
平山平助は
「その月見の晩に、何にか變つたことでもなかつたでせうか」
「御町内から江戸川
この酒好きらしい用人は、一と月半前の盛宴を思ひ出して
見付けた鍵で不淨門を開けて、外へ出ると、
「親分、いろ/\の事がわかりましたよ」
待ち構へたやうに八五郎が飛んで來るのです。
「待て/\、お前の話を聽く前に、見定めて置き度いことがある」
平次は不淨門の外を一とわたり見て歩きました。
「おや、大變な血ぢやありませんか」
八五郎は
「若殿は此處で殺されたのだよ」
「へエ、そんなら、何んだつて、死骸を表門前へ運んで、下水の中なんかに投り込んで置いたのでせう」
「それはわけのある事だらう。多分多勢の人に見せて、
「ひどい事をしますね」
何が何んであらうと、死骸を
「ところでお前の方は何うだ」
平次は表の方へ廻り乍ら、話題を變へました。後ろからはもう、
「散々の評判ですよ。若殿だか馬鹿殿だか知らないが、ありや色氣違ひの
「恐しく評判が惡いな」
「ちよいとノツペリして居るのと、三千五百石の旗本の跡取といふのを餌にして、若い女の撫で斬りですよ。世間の女はまた何んだつて、あんなお
「腹を立てるなよ八。そのうちに八五郎さんのやうな人でなくちや――と言つた、女
八五郎がポンポンすると、時々平次のチヤリが入ります。二人の掛け合ひは何時でも斯うでした。
「先づ許嫁のお豐といふのは、親類の娘で義理はあるが大の不きりやうだ」
「それは俺も見た」
「お小間使のお紋といふポチヤポチヤしたのを手籠にして、大騷動をしたといふことだが、金で話をつけてこれも何うやら納まつた。納まらねえのは、あの味噌摺用人の伜の平山平三郎といふニキビの化物――お紋を追ひ廻して、すつかり
「フーム」
「金之進はそれだけぢや我慢しねえ。先月の月見の晩、奧方――この奧方がまた何處の化猫だかわからねえが――その奧方の思ひ付で、町内の若い娘を集めて、お庭で盆踊りをやらかした」
「それも聽いたよ」
「その中に江戸川の
「その通りだ、若い女の子の噂となると、とても八には叶はないよ」
「馬鹿殿樣がお百合に夢中で、深草の少將をきめて居たんださうで、最初のうちはお百合も相手にしなかつたが、相手の
「――」
「近頃ぢや親がすゝめるやうにして、馬鹿殿樣の間拔けな合圖があると、娘を外へ出してやるんだといふから腹が立つぢやありませんか、親分」
「俺へ喰つてかゝつても仕樣があるめえ。
「チエツ、御免
「間拔けだなア、そこで話の筋を早く通してくれ。合の手が多過ぎるぜ」
「その煎餅屋の娘にはまた、凄い荒神樣が附いて居るんで、關口の鎌六と言や、まだ年は若けえが、山の手きつての良い顏だ」
「まさか、その關口の鎌六が下手人らしいといふわけぢやあるまいな、八」
「あれが怪しくなかつた日にや、外に怪しい者なんかありやしませんよ。毎日毎晩
「待つてくれ、若殿の傷は匕首でも出刄庖丁でもないよ。間違ひもなく自分の刀でやられて居るんだ。それも長いのを首筋へ突き拔けるほど刺されて居るぜ。匕首ぢやあんな事が出來るものか」
「?」
「それによ、刀は横へ眞つ直ぐに刺してあるんだ。眼をつぶつて居るところを、掛矢か何んかで叩込む外に、あんな藝當は出來ないよ」
「驚きましたね、どうも。關口の鎌六でなきや用人の伜の平三郎はどうです」
「同じことだよ」
「平三郎は近頃半病人のやうだと言ひますよ。戀に眼が
「仲が惡い?」
「まるで敵同士ですよ」
「若殿と仲の好いのは誰だ」
「
「お前は關口の鎌六や、用人の伜に逢つて見たか」
「まだ鎌六には逢つちや居ません。おや、向うから來るのは喜助ぢやありませんか。お紋の兄の、
跛足と言つても大した事ではありませんが、二十七八のまだ若い男で、こんな仕事をさせて置くのは勿體ないやうな小意氣な男でした。
「喜助」
「へエ、へエ、御苦勞樣で」
「お前は何時から此處に奉公してゐるんだ」
「丁度一年になります」
「若殿とは大そう仲が良かつたやうだな」
「飛んでもない、そんな事を申しては勿體ないことで――いろ/\お目を掛けて頂きました。へエ」
「妹のお紋さんは、何時から奉公して居るんだ」
「これは二年半になります、――生れは傳通院前で、へエ。もとは相當に暮した呉服屋ですが、兩親が亡くなつて今では歸る家も御座いません」
「その店の名は何んと言つた」
「
「ところで、これから何處へ行くのだ」
「いろ/\買物を申付けられました。音羽まで參りますが」
「奧へは俺が申上げよう、――暫らく外へ出ないやうにしてくれ」
「へエ、私もその方が勝手で、では御宰籠を御門番へ預けて參ります」
喜助は背負つて居た御宰籠を下ろすと、門番に頼んで、その小屋の隅の方に片寄せました。
それを見定めると、平次と八五郎は江戸川へ降りて
「瀬尾樣の若樣は、毎晩のやうに入らつしやいます、――口笛を吹いて合圖をなすつて、私は外へ出ると、この下に
これだけの事を言はせるのに平次はどんなに骨を折つた事でせう。時々八五郎が助太刀してくれなかつたら、平次は何んにも訊かずに引揚げたかもわかりません。
「若樣は一人で來られるのか」
「いえ、毎晩お供があつた樣子です。私には顏も見せませんでしたが、關口の鎌六さんがうるさいので、岸の上から見張つて居る樣子でした」
「それはどんな男だ」
「少し足の惡い――」
平次と八五郎は顏を見合せました。言ふ迄もなくそれは、瀬尾家の御宰の喜助でなければなりません。
「親分、矢つ張り鎌六ぢやありませんか。行つてしよつ引いて來ませうか」
八五郎が驅け出しさうにするのを平次は押へました。
「鎌六が金之進の刀を奪ひ取つて、首筋に突き拔けるほど刺すうち、瀬尾の若殿はぢつとして居るだらうか」
「さう言へばさうですが――」
「それよりお前は一と走り傳通院前へ行つてくれ」
「へエ」
「三年前まで繁昌した上總屋の跡がどうなつたか聽きたい。それから伜の喜助のこと、娘のお紋のことなど」
「わけはありません、ほんの半刻で行つて來ますよ」
「では頼むよ、俺は門番の小屋の中で待つて居る。あゝそれから、お
「へエ」
平次が門番の老爺と火鉢を挾んで坐り込むのを見ると、八五郎は早くも飛んで行きました。
「親分、一刻とはかゝらなかつたでせう」
八五郎が歸つたのは、それでももう秋の陽の落ちかけた頃でした。
「よし/\、歩き乍ら聽かう」
平次は門番小屋を出ると、庭の小砂利を踏んで八五郎と並びます。
「まづ第一に――」
「俺に言はせてくれよ、八」
「へエ」
「喜助の言つたのは皆んな本當だらう。上總屋は三年前に沒落して、兄の喜助は背負ひ小間物屋になり、妹のお紋は十五で小日向の瀬尾家に奉公に出た――と」
「その通りですよ、それから」
「お紋と喜助とは兄妹といふことになつて居るが、實は全く他人だらう。喜助は養子かな、それとも手代かな、良い男ではあるが、お紋と少しも似て居ない」
「へエ、天眼通ですね」
「二十七の若い者が、少しばかり足が惡いにしても、旗本屋敷へ御宰に入り込むなどといふのは、外に
「――」
「あれは
「――」
「喜助へさう言つてくれ、もう何處へ行つても構はないとな。それから次第によつては、妹のお紋も一緒に行つても宜からうとな」
「へエ、そんな事を言つても構ひませんか」
「宜いとも、俺が引受けるよ」
平次はポンと胸などを叩いて見せるのです。
× × ×
それから間もなく、門番のところに預けてあつた御宰籠を背負つた喜助は、妹のお紋の手を取るやうに、瀬尾家の門を出て、薄暮の中に消えて行きました。
「あの御宰籠の中には、血だらけになつた
平次はそれを指さして、八五郎に囁くのです。
「それぢや親分」
飛び出さうとする八五郎。
「放つて置け。俺達は町方の御用聞だ」
「へエ」
「若殿の金之進は、
「矢つ張り喜助が下手人だつたんですか親分?」
「喜助は煮えくり返る腹の蟲を押へて、若殿の放埒の相手になつて居たのだよ。不淨門から出るのを手傳つたのは喜助だ。昨夜若殿がお百合と逢引して居る間にソツと此處へ歸つて來て、不淨門を内から締めてしまひ、自分は塀を越して外へ飛出し、もとの江戸川へ行つたのだ」
「へエ」
「いざ歸らうとなつて不淨門へ來たが、門は内から締めたから開かない。そこで喜助は自分の身體を
「――」
「
「成程ね、ところで喜助とお紋はどうなるでせう」
「俺の知つたことか、二人は遠い他國へ行つて一緒に暮すだらうよ、――俺はこんな殺しに掛り合ひ度くない。早く歸つて景氣づけに一本つけさせようぜ」
平次は氣樂さうに家路へ急ぎました。