「八、丁度宜いところだ。實は今お前を呼びにやらうかと思つてゐたところよ」
「へエ、何んか御馳走でもありますかえ」
錢形平次は、斯んな調子で八五郎を迎へました。この頃の暑さで、江戸の惡者共も
「呆れた野郎だ。御馳走ならお前を呼ぶものか、一人で喰ふよ」
「へエ、御親切なことで」
「今のは小言だよ、――
「有難いことで」
「たまには年寄の言ふことも聽くものだよ。叔母さんは苦勞人だ、なか/\面白いことを言つたぜ」
「へエ?」
「
「へエ」
「聞けばお前は、晝の着物のまゝで、床にもぐり込んだり、
「叔母さんはそんな事を言ひましたか」
「あんな
「色氣の方は滿々としてゐるんだが」
「尚ほ惡いやな」
平次は叔母に頼まれただけの小言を一と通り取り次ぎましたが、これが誠に儀禮的で、言ふ方も言はれる方も一向身につきません。
「その
ガラツ八は妙なことを言ひ出しました。
「知つてるとも、公儀御用の御鞍打師だ。鞍打師は外にもあるが、人間が一國で几帳面で、義理堅くて口やかましくて、早い話が、うるさい方では江戸一番と言はれた男だ」
「そのうるさい男が、金が溜つて商賣が繁昌して、娘が綺麗で申分のない暮しをして居るのに、毒を呑んで
八五郎はこんな人じらしな事を言つて、長んがい顎を撫で廻すのです。
「貧乏人が死に急ぎするとは限るまいよ。金持だつて死に度くなる事があるだらうぢやないか」
「あつしが一向死に度くならないところを見ると、それも一と理窟ですがね。――
「さう言はれると、行つて見なきやなるまいかな、八」
「矢の倉は錢形の親分の繩張り内ですよ、辻萬兵衞の死んだのが殺しだつた日にや困つたことになりますよ、親分」
「
そんな事を言ひ乍らも、事件の妙な匂ひを感じたものか、平次は出かける支度をしました。
矢の倉の辻萬兵衞、――公儀御鞍打師で、職人ではあるが、それは大した見識でした。わけても主人の萬兵衞は、一と
その辻萬兵衞が、寢卷を着たまゝで毒死するといふことは、八五郎の頭で考へても、これは唯事ではありません。
矢の倉の御鞍打師、辻萬兵衞の店へ着いたのは、晝を少し廻つたばかりの時刻。
主人の死が尋常でないといふ噂が立つて、
「八五郎親分、重ね/″\御苦勞樣だね」
威勢よく迎へてくれたのは、近頃養子に迎へられた早川馬之助でした。もとは武家だつたさうで、武藝のたしなみも相當らしく、身のこなしが
案内されて店に續く仕事場の裏、主人萬兵衞の部屋に二人は通りました。八五郎は朝のうちに一度やつて來て、ひと通り眼を通した上、怪しいと睨んで其儘にして置くやうにと嚴重に言ひ置いた筈ですが、部屋へ入つた
「此處へ誰か人を入れたのか」
八五郎は恐ろしく不機嫌です。
「矢張り佛の世話もしなきやならない。それに家の者の身になると、線香くらゐはあげ度くなりますよ」
馬之助は丁寧ではあるが、嚴重な答辯振りです。
「何にか變つたことでもあるのか、八」
平次は取りなし顏に口を容れました。
「枕元の盆がなくなつて居ますよ。
八五郎は其邊をキヨロキヨロ見廻して居りますが、その臭い土瓶や湯呑は部屋の中の何處にも姿を隱してありません。
「あ、それなら、
佛の枕元に、首うな垂れて
「お前は其處で何をして居たんだ」
「へエ、佛樣のお
國松はさう言つて顏を伏せるのです。眼の細い、鼻の大きい、顎の張つた、充分實直らしい男ですが、そのかはり若さも
平次はそれに取合はずに、床の傍に
「――」
たつた一と眼で、ハツと息を呑んだのも無理はありません。それは猛毒で死んだ者によくある、恐ろしい
「何んと言ふことだ」
平次は今更腹を立てる張合もありません。死骸の前にあつた土瓶と湯呑――その中には
「行つて搜して來ませうか。土瓶の中には
「それも大事だが、それより家中の者を皆んな此處へ集めてくれ、一應顏を見て置き度い」
「へエ」
八五郎は飛んで行くと、折から驅け付けてくれた土地の下つ引と力を
尤も近所の衆や今朝やつて來た親類の者を除けば大した人數ではありません。
主人萬兵衞の死んだ後では、この家の心棒になつて居るのは、お菊といふ一人娘で、これは矢の倉小町と言はれて十九、無口でおつとりして、親の萬兵衞の口やかましかつたのを、この娘の品のよさで割引くやうな、世にもすぐれた江戸娘でした。
ひどく打ち
その隣に居るのは妾のお常、早く女房に別れた萬兵衞は、不自由さと淋しさを
番頭の市五郎は四十五六、これは
鞍打の仕事をして居るのは
金次は唯の職人で、年季を入れた腕と、手堅い人柄を買はれて、萬兵衞にも調法がられて居りました。男前も平凡、物言ひも尋常、親方の萬兵衞の
養子の馬之助は二十五、武家上がりで、切れ者で、ちよいと良い男で、そして愛嬌者でもありました。武家の出といふ、拔くことの出來ない自尊心が、性根の底にコビリ着いて居なかつたら、隨分人にも好かれ、女の子にも騷がれる男かも知れません。
もう一人の職人の國松は、
あとは十五になる小僧の喜太郎と、四十五の出戻り女で、この家に十年も奉公して居る下女のお早だけ。喜太郎はませた利口な少年で、お早は
以上九人、佛と平次と八五郎と中心にして縁側まで居列びました。
「この中に、間違ひもなく、主人萬兵衞を殺した者が居るのだ」
平次はズラリと並んだ顏を見渡しました。綺麗なの、醜いの、平氣なの、
これはいつもの平次のやり方とは全く違つた方法でした。九人の容疑者を一室に
「最初はお菊さんに
「?」
平次の言葉につれて、お菊はその美しい顏を擧げました。父の死といふ恐しい悲歎の
「第一にお
平次の問ひは極めて常識的でした。
「そんな人がある筈もありません。父さんは皆んなによくしてやらうと、一生懸命でした」
娘のため、奉公人のため、世間のため、そんな事ばかり考へて、日頃口やかましかつた父親の態度は、生きてゐるうちこそ多少
「ところで、お孃さんの祝言は、どういふ事になつて居ました」
平次の問ひは露骨で不作法でさへありました。
「そいつは無理だよ、錢形の親分。お菊さんは可哀想に眞つ赤になつて居るぢやないか」
横から口を
「――それぢや、お前さんから訊きませうか」
平次の調子のさり氣なさ。
「お菊さんは十九の
「成程ね、――ところで、
「それはある筈はない、口やかましいと言つたところで申分なくよく出來た人だ」
「すると、御主人は人に殺されたのではなくて、
平次は一歩突つ込んだのです。
「そんな馬鹿なことが――」
氣色ばんだのはむくつけき男の國松でした。
「それぢや、順序を立てて訊くが、よく考へて返事をして貰ひ度い」
「――」
一座は何んとなくシーンとしてしまひます。
「先づ、この家には、石見銀山の鼠捕り藥などがなかつたでせうか」
「そんな物騷なものはありません。主人は人間にも毒になるやうな藥を置くよりは、鼠の暴れる方がまだしも安心だと言つて居ました」
お常の言葉が終らぬうちに、八五郎に耳打をされて、二人の下つ引が外へ飛び出しました。町内の生藥屋を一軒々々歩いて、この家の者に石見銀山を賣らなかつたかどうか、確かめさせたのです。が
「そこで、店中の者で、近頃主人と
平次が九人の者の表情を讀むと、多勢の眼は期せずして、妾のお常の面上に集るのでした。
「あれ、私は別に喧嘩をしたわけぢやありませんよ。唯ちよいと何時までも奉公人
多勢の視線が
「ところで、昨夜、この部屋へやつて來て、主人に逢つたのは誰と誰だえ」
平次は局面を轉回しました。
「私は夜の御飯を持つて來ましたが」
下女のお早でした。
「その時主人は何にか言はなかつたか」
「少し
「それつきりか」
「へエ」
「その後で此處へ來たのは」
「金次さんと馬之助さんと御新造さんと國松さんで」
下手人の疑ひは、次第に局限されて、お常、馬之助、金次、國松の四人に限定されさうです。
「藥は誰が持つて來たんだ」
「それは私の仕事でした。でも私は石見銀山なんか入れやしません」
お常は妙に
お常が藥を持つて來たのは
近頃仲違ひをして居る上、病弱で年を老つた主人の萬兵衞は、近頃あまりお常を寢室に近寄せずに、閑寂な
「その後で此處へ入つたのは?」
「私は一日の帳尻を見せに來たが、それは毎晩のことで不思議でも何んでもない。帳尻と言つても新しい註文のない日は、古い註文とその品の出來具合を話すだけだ」
馬之助は斯う言ひます。
「あつしは呼び付けられて叱られた方で、あんまり
金次は小
「何を叱られたんだ」
「少し道樂が過ぎるといふだけで。毎々のことで、馴れつこですがね」
金次は斯んな事を云つて居るのでした。
「その後で私が參りました。毎晩のことで足を
さう言ふのは國松でした。
「
「その時は茶碗は伏せてありました、まだお藥を召上がらなかつたと思ひます。何時も夜中に
國松はシトシトと説明するのです。
併しそれだけの事では、誰が下手人とも見當が付かず、錢形平次も指を喰はへて引揚げる外はなかつたのです。
「主人の部屋へ一番後で入つたといふ、あの國松といふ男が怪しいぢやありませんか。それに毒藥の
引揚げて歸る途中、八五郎は八五郎らしい事を言ひました。が、平次は、
「そんな手輕なものぢやないよ」
それを取り合はうともしません。
大概の事件は一日のうちに片付けて、女房のお靜の晩酌のサービスを滿喫する平次ですが、この時ばかりは
「御免下さい。矢の倉から參りましたが――」
やがて
「なんだ、お前さんは、國松ぢやないか」
迎へ入れた八五郎も、少しばかり豫想外でした。それは辻萬兵衞の秘藏弟子で、昨夜萬兵衞に最後に逢つたといふ、内弟子の國松の萎れ返つた姿だつたのです。
「親分、私は大變なことをしてしまひました」
國松はさう言ひ乍ら、ヘタヘタと平次の前に崩折れてしまひました。
「何を言ふのだ、まさかお前は主人の萬兵衞を殺したといふわけぢやあるめえ。まア一杯呑んで元氣をつけて、ゆる/\話して見るが宜い」
「それが親分」
平次はもう或る程度の
「主殺しは
「それが、親分。――私は主人を殺したも同樣でございます。どうぞ、この私を縛つて、突き出して下さいまし。お願ひ」
國松は疊へ手を突くと、卑屈な態度で平次を拜んだりするのでした。
細い眼、グロテスクな鼻、一生懸命になると
「話して見るが宜い。一體お前は何をしたといふのだ」
「親分、――私はあの家に十二年も奉公をして居ります。その間、どんな目に逢つたか、親分始め世間樣も、全く御存じのないことで」
「いや知つて居るよ。公儀御鞍打師の辻萬兵衞は、やかましいのと
「うまいわけでございます。食物と
「――」
「私は親の道樂で、
「――」
「ありやうを申上げると、私は
「――」
「その上、親分さん、私のたつた一つの目當て。あの可愛らしいお孃さんのお菊さんに、
「――」
それに比べると、この男の見すぼらしさは何んといふことでせう、國松の嘆きは誠に深刻を極めました。振り仰いだ顏は涙に濡れて、不甲斐もなく
「私は主人を殺さうと思ひました、――でも臆病な私は磔刑柱が眼の前にチラ付いて、思ひきつてそんな事をする氣にもなれなかつたのです、――ところが、昨夜といふ昨夜」
「――」
國松はゴクリと
「晝のうちに散々に叱り飛ばされて、此上の我慢が出來なくなりました。豫々用意した
「――」
「今朝になると、あの通り主人は死んで居りました。誰が殺したか、私にはよく解つて居ります。でも、土瓶の中に毒を投り込んであるのを知り乍ら、默つて
國松は平次の膝にすがりつかぬばかりに、不思議なことを口説き立てるのです。
「よし/\。お前を縛るのはわけもないが、それより俺は本當に主人を殺した奴の正體が知り度いよ。誰だえ、それは」
平次は當然の問ひを投げかけたのです。
「一つも證據がございません、親分」
「證據がない?」
「あの通り如才がなくて腕つ節が強くては、私などにはどうすることも出來ません。それより親分、この私を縛つて下さい。私は見す/\主人を見殺しにしてしまひました」
何といふ解らなさでせう、國松はなほも平次に
「どうだ八、驚いたらう」
しを/\と歸つて行く國松を見送つて、平次は八五郎に斯う言ふのでした。
「變な野郎ですね。ありや一體何が目當で來たんでせう」
「自分が下手人でないといふことを、俺に呑み込ませ度かつたのだよ」
「へエ、それにしちや手數のかゝつた細工ぢやありませんか」
二人の話はそれつきりでしたが、矢の倉辻家の事件は、それだけでは納まらなかつたのです。
その晩、眞夜中頃。
死骸に魔がさしたといふことは、言ひ傳へにはよくありますが、御通夜の衆がどんなに膽をつぶしたか、それは想像も及びません。
毒死と決つて、まだ入棺もしなかつたので、通夜と言つてもほんの二三人だけ。それも夜中過ぎは眠りかけて正體のある人も居なかつたのですから、
「あつ、助けてエ」
「お化けエ」
女子供が悲鳴をあげたのは無理もないことです。
店二階に寢て居た、養子の馬之助は、此騷ぎに眼を覺まして、おつ取り刀でガバと起きると、
これは實に江戸開府以來の怪事件とも言ふべきでせう。死人が逆さ屏風の中からフラフラと起ち上がつたのも變ですが、後で氣が付いて見ると、主人萬兵衞の死骸は屏風の中に寂然と横たはつたまゝで、少しの動いた樣子もなく、そして養子の早川馬之助だけが、二階の梯子の下で、自分の刀で見事に
土地の下つ引の報告で、錢形平次と八五郎が、矢の倉に驅け付けたのは、その翌る日の早朝でした。
「八、お前は奉公人達の持物を調べてくれ、
「へエ」
八五郎が下つ引と一緒に飛んで行くのを見送つて、平次はそつと娘のお菊を物蔭に呼びました。
「お孃さん、隱さずに言つて下さい。近頃お孃さんに、變な素振りをした者はありませんか、店中の者で」
それは十九の娘に問ひかけるには、隨分突つ込み過ぎましたが、今はもう遠慮をして居る時ではありません。
「金次が變なことをしました」
「國松は?」
「あの人は、遠くから私を
「有難う。さう打明けてくれると助かります。ところで亡くなつた主人に身體の似てゐるのは?」
「肥つてゐる國松は、時々父さんの眞似をして、皆んなを笑はせて居りました」
「もう一つ、近頃お父さんと馬之助さんとは何にか仲がうまく行かなかつたやうですね」
「え」
「離縁の話でもあつたのですか」
「お父さんが頑固過ぎるし、――馬之助さんも遊び過ぎました。祝言前から店の金を持出すやうでは――と、お父さんがひどく小言を言つて居ました」
お菊の口から引出せるのは、これくらゐが精一杯です。
表二階――
その上梯子は明かに動かした
「親分」
八五郎が勢ひ込んで飛んで來ました。
「何んだ、八」
「娘へ宛てた色文を温めて居るのは、金次の野郎ですよ」
「それから」
「血の附いた着物なんか、ありやしません」
「風呂場か、流しを見たか」
「いゝえ」
「下女のお早に訊いて見ろ。誰の着物か知らない洗濯物が
「へエ?」
「梯子を引いて置いて、騷ぎに驚いて二階から飛び降りる馬之助を、下から突き上げた奴があるんだ。頭から血を浴びたに違ひない」
「へエ?」
「まだ解らないのか、――死人が歩き出して階下は割れつ返へるやうな騷ぎだ。二階で寢て居た馬之助は、枕元に置いてあつた刀を持つて二階から降りたが、梯子が引いてあるとは知らないから、恐しい勢ひで階下へ落ちた。其處を狙つて下から突き上げたのだ。少しくらゐ腕があつたつて、助かりやうはない」
「それは誰です、親分」
「死人に化けて
「へエ?」
「血を浴びた着物を風呂場か流しで洗つた奴だ」
平次の
× × ×
「驚きましたね。あの江戸一番の正直者らしい顏をした國松が下手人とは?」
事件が一段落になると、八五郎は平次に此事件の
「國松――考へやうぢや可哀想な男よ。辻萬兵衞はあの男を仕込むといふことにして、いぢめ拔いて、良い心持になつて居たのだ。意地の惡い
「へエ」
「國松はそれを、世間體だけでも、有難く受けなきやならなかつたんだ。藝人などが弟子を仕込むのに、ひどいいぢめやうをするのも皆同じことだ。嫁が年を取つて
「――」
それは恐るべき
「國松は我慢がなり兼ねて、主人に毒を盛る氣になつたのだらう。ところがその晩自分より一と足先に、主人の
「へエ」
「迷ひに迷つた
「――」
「がつかりして歸つた國松は、無性に馬之助が憎くなつたことだらう。主人の萬兵衞を殺して娘のお菊をせしめるのが、どうにも我慢が出來ないが、證據がなくて取つて押へることもならず、それかと言つて、馬之助は腕つ節が強いから、正面から向つて勝てやう筈はない。いろ/\考へた末、その脇差を
「ひどい野郎ですね」
「大騷ぎになつて、二階に寢て居る馬之助が眼を覺まし、降りようとしたが眞暗な上に梯子を引いてあるから、見事に階下へ落ちた。階下で待つて居た國松は、突き上げて一と太刀に殺し、頭から浴びた血を風呂場で洗ひ落したといふ順序だらう」
「へエ、驚きましたね」
「だから
「へツ、こちとらは
こんな事を言ふ八五郎です。