錢形平次捕物控

眞珠太夫

野村胡堂





 江戸の閑人ひまじんの好奇心は、途方もないところまで發展しました。落首と惡刷りと、グロテスクな見世物が、封建制の彈壓と、欝屈うつくつさせられた本能の、已むに已まれぬ安全べんだつたのかも知れません。
 錢形平次のところへも、おびたゞしい忠告と、皮肉と、當てつこすりと、中傷の手紙が舞ひ込みます。それを一々取合つても居られないのですが、中にはどうかして、思ひも寄らぬ事件に發展するものもないではありません。
 栗唐くりから一座の、眞珠太夫の噂も、近頃平次の注意をいた一つでした。何しろ、善惡共に滅茶滅茶の評判です。惡口の方は、商賣敵の陷穽かんせいにきまつて居ますが、漠然と江戸中に擴がつた、眞珠太夫の人氣も大變なものです。これだけの人氣をたつた三月くらゐの間に掴んだのは、切支丹きりしたんの魔法使ひではあるまいか、と飛んだことを言ふあわて者もあつた程です。
 眞珠太夫といふのは、泰西たいせいのヴイナスの傳説のやうに、越中の國で蜃氣樓しんきろうを吐く大はまぐりを見付け、磯へ引あげて一と晩砂濱へ置くと、中から、玉のやうな女の兒が生れたといふのです。
 長ずるに從つて、それは美しくも悧發にもなりました。琴棋きんき書畫いづれもおろそかなものはなく、わけても、踊りと唄は習はざるに體得して、これが、大變な魅力になりました。
 長く信州の山の中に隱れてゐたのが、この正月江戸へ出て來ると、たつた三月の間に、氣の早い江戸つ兒を、すつかり捕虜とりこにして了ひ、最初は町々の寄席よせを歩いて居りましたが、凄まじい人氣に押しあげられて、三月になると兩國に小屋を借り、『娘手踊栗唐一座』といふ大看板だいかんばんを掲げてしまひました。
 あんまり評判が凄まじく、それに伴ふ中傷も多くなつて、捨て置き難い有樣になつたので、平次は到頭八五郎を檢分にやる氣になりました。そんなことはまた、好きで/\たまらない八五郎です。
 少し遲れた櫻が、三月になつてもつぼみがふくらみかけただけ、閏月うるふづきを控へて、お祭騷ぎの好きな江戸つ兒達は、花を待つのがもどかしさうでした。
 それから三日、恐ろしく手間取つて八五郎が歸つて來ました。
「親分、今日は。御無沙汰いたしました」
 手拭を肩から外して、それでほこりだらけの足でも拂ふのかと思ふと大違ひ、押し頂くやうに、月代さかやきを撫で廻す八五郎です。
「御無沙汰過ぎるよ。兩國へひとつ走りのつもりでやつたのは三日前だぜ」
「相濟みません。念入りに調べたもので」
「越中の國まで行つて、大蛤でも調べたのか」
「そんなわけぢやありませんがね。何しろあの眞珠しんじゆ太夫の人氣には驚きましたよ」
「お前もその魔法に掛つて、三日も金縛りになつたんだらう」
「へツ、魔法とやらに掛り度えくらゐのもので――取つて十八といふんだから、まだ本當に小娘ですが、その綺麗なことと言つたら」
よだれを拭けよ、八」
「相濟みません。噂をしてこれくらゐだから、眞物を見ると氣が遠くなつて、唄を聽いたり踊りを見たりすると――」
 八五郎の語彙ボキヤブラリーには、形容の言葉もなくなつて、唯もう兩手を、ワヤワヤと宙に泳がせるのです。
「三日も立てつ續けに眼を廻して居たんだらう。まア宜い。それからどうした」
眞珠しんじゆ太夫とはよく言ひましたね。身體がき通つて、うぶ毛が銀色に光つて、本當に桃色眞珠で拵へたやうな娘ですよ。あんまり肌が綺麗だから、他の者の附けて居る白粉も紅も小汚なく見えるくらゐ。その踊りと來たひにや」
「もう澤山だが、お前の踊りの眞似は案山子かゝしに魔が差したやうで、氣味がよくねえ」
「それに聲が良い――」
「もうわかつたよ。切支丹の魔法でも、若い男を生け捕つて、精血を絞るんでもなささうだ。唯の娘の子の綺麗なのは、こちとらに用事はねえ。――俺のところへ來た手紙では、その眞珠太夫にこがれた男は、何人となく死んでゐるといふから、唯事でないやうに思つたのよ」
「綺麗に生れついたばかりに、男を焦れ死にさしたところで、それだけぢや罪にもとがにもなりませんね」
「大の男が、女の子に焦れただけで、さうもろく死ぬものだらうか。お前は情事いろごとにかけちや本阿彌ほんあみだと言つてるが、どんなものだ」
「へエ、あつしも焦れ死にした覺えはありませんがね」
「間拔けだな」
 八五郎の報告は、相變らずこの調子です。
 とも角も、眞珠太夫の人氣は、江戸中の評判で、湯屋でも床屋でも、共同井戸でも、男も女もその噂で夢中でした。鈴木春信の描いた笠森お仙、喜多川歌麿の描いたお北など、一世を風靡ふうびした美人も少なくはありませんが、栗唐くりから一座の眞珠太夫もまた、それに劣らぬ評判を取りました。
 但し、掛り合ふ男は、必ず死ぬ――といふ噂も根強く、確かな證據はないのですが、妙に無氣味な陰翳があつて、この美しい娘太夫を、益々怪奇な、そして美しいものに仕上げてしまつたのです。


「サア、大變」
 八五郎の大變が飛び込んで來たのは、それから三日目の朝でした。平次は朝飯を濟ましたばかり、今日の日程を考へて、お茶を呑んでゐるところへ、八五郎は隣りの赤犬と一緒に沓脱くつぬぎあごを並べるのです。
「何が大變なんだ。お前と附き合つて居ると、一日に一ぺんづつは、ヒヤリとさせられるよ。壽命の毒だね」
 さう言ふ平次は、たいして驚く色もありません。明神下の早春の朝陽は、まことに快適で、お長屋の風情は貧乏臭くとも、『大變ツ』などといふ氣障きざつぽいものの氣振けぶりもなかつたのです。
「落ちついて居ちやいけませんよ。お膝元の殺しだ」
「お膝元は穩かぢやないね」
「西兩國の殺しは錢形の親分の繩張り内だ。お膝元に違ひないぢやありませんか」
「よし/\出かけよう。サア」
 平次は手早く身支度をして、十手を腰に、女房のお靜の切火を浴びて、八五郎の後に從ひました。
「親分も、御存じでせう。尼寺横町の與三郎といふ好い男を」
「知らないよ」
「安ばくちと押借りと、女たらしを渡世とせいにして居るくづのやうな男ですが、そんな野郎に限つて男つ振りは好い」
「それがどうした」
藥研堀やげんぼりの埋立て地で、殺されてゐるのが好い男の與三郎だつたんで。埋立て地で使つた道具を抛り込んである小屋の、むしろの上に伸びてゐるのを、人足が仕事に來て見付けたんで。兎も角土地の下つ引に後を頼んで、此處まで飛んで來ましたが。――どうせ殺し手が多過ぎて困る野郎で」
「それぢや、下手人の見當でも付いたといふのか」
「そこまではわかりませんがね。金のうらみで殺される野郎ぢやないから、女出入りにきまつて居ますよ」
 そんな話のうちに、二人は現場に着いて居りました。場所柄だけにおびたゞしい彌次馬で、張り番の下つ引は、それを追ひ拂ふのに一生懸命です。
 物置の戸は半分開いて、中には荒つぽい道具が押し込んであり、中ほどの土間に荒筵を敷いて、與三郎の死骸が横たはつて居るのです。
 上に掛けた、もう一枚の筵を剥ぐと、二十六七の、柄の小さい小綺麗な男、髮形も小意氣で、肌につくものの薩張さつぱりして居るのは、身扮みなりはどうであらうと、女出入りの盛大な人間の一特色です。
 傷は背中の左、肩胛骨かひがらぼねの下を深々とゑぐられたもので、仰向けに倒れて居るところを見ると、背中を刺されたまゝ押し倒されたのでせう。顏には大した苦澁の跡もなく、兩手は虚空こくうを掴んで居りますが、平次の行屆いた眼で見ると、不思議なことが二つ三つあるのです。
「氣がつかないか、八。妙なことがあるが」
「へエ、あつしには妙なことだらけで。――近所の人に聽いて見ると、與三郎の野郎はぜにもないくせに女あさりがひどいから、この物置を逢引の場所にして居たさうで、小料理屋や、出合茶屋に入る工面もつかなかつたんですね。――だから、逢引の相手だつて、おんばりつ、下女、夜鷹と、その日の天氣具合で變つたさうですよ。佛樣の惡口を言つちや濟まないが、浮ばれねえ男で――」
 八五郎はペツペとつばを飛ばしながら言ふのです。八五郎のやうな純情なフエミニストに取つては、この世の中で一番輕蔑すべき存在だつたでせう。
「さうぢやない。この男の右手の爪を見ろ、妙なものがあるだらう」
「あ、こいつは金絲きんしぢやありませんか」
 八五郎は死骸の爪の間から千切れて僅かに殘る金色の絲を取りました。爪は割れてゐてそれに挾まつた絲は、斷末魔の苦しさに、下手人の何處かを掻きむしつたことを物語つて居ります。
「まだあるよ、八。――恐ろしいことだが、死骸の舌が噛みきられて居る」
「えツ」
「血を拭いてしまつたので、一寸氣が付かないが、――この通り」
 十手で死骸の口をこじ開けると、間違ひもなく舌を噛みきられて、それを後で口をふさがせて、血を拭ひ取つた跡は疑ふべくもありません。
「舌を噛まれて驚いて引込めた時、抱き付いたまゝ後ろへ廻した手で、左肩胛かひがら骨の下を力任せに刺されたのだ」
「すると、相手は女ですね」
「女あさりの與三郎の舌を噛みきるのは、どんな女か、こいつは直ぐわかるだらう」
「こいつは、朝飯前だ。親分、女出入りを自慢に言ひ觸して歩いた與三郎だ。近頃掛り合つてる相手を搜すのは、わけもありません」
 八五郎はもう、後を平次に任せて飛び出します。
 瀧澤馬琴の八犬傳に、あの長篇小説で第一等の毒婦船虫が、ざれ男の舌を噛みきつて金を奪ふことが書いてあります。これは黄表紙草双紙にも散見する、殘酷怪奇な殺人手段で、江戸時代の犯罪史には例の少なくない方法だつたに違ひありません。その唇を拭き取つて一應犯跡をくらましたのは、下手人が女だといふことを知らせ度くない爲でせうか。兎にも角にも、それは一つの謎です。
 その利口な始末にもかゝはらず、死骸の口は異常に脹れ上がつて、舌に變化のあることを、隱しやうもない筈ですが、――そんな事を考へながら、平次は尚ほも調べを續けました。
 死骸の懷ろには、鬱金うこんの胴卷がありますが、しごいて見ても、中は空つぽ、びた錢一つ入つては居りません。併し胴卷の紐が解いたまゝになつて、懷ろへ突つ込んであるところを見ると、下手人は與三郎の懷ろをさぐつて、珍らしくも持つて居た金を拔いたことが想像されます。


 檢屍が濟んだのは晝過ぎ、その頃になつて、何處をどう歩いたか、ほこりだらけになつて八五郎が戻つて來ました。
「親分、遲くなつて濟みません。早く片付けようと思つて、手一杯に聞き込んで見ましたが」
「良い聽き込みはあつたのか」
「いろ/\話はありますが、何しろ腹ペコで」
「仕樣のねえ野郎だ。サア、喰ひながら話せ」
 平次は現場を下つ引に任せて、八五郎を誘つて米澤町の蕎麥そば屋に入りました。朝からの活躍で、お互ひに腹は減りきつて居ります。
「ね、親分。あれだけ講中の多い色男野郎も少ないが、あれほど手つ取早く愛想を盡かされる野郎も滅多にありませんね」
 八五郎は二杯目の蕎麥を喰ひながら、斯う話し始めました。
「まるで、お前とアベコベぢやないか。そこへ行くと煮賣屋のお勘子に三年も惚れられて居る八五郎などは大したものだ」
からかはないで下さいよ。尤もあの與三郎と來た日にや、ケチで、見得坊で、燒餅で、しつこくて、鼻づまりで、口が臭い。どんな女でも一と月とは續かないが、面がよくて法螺吹ほらふきだから、不思議に後から/\と女が出來る」
「大層な惡口だな。お前も怨みがありさうだぜ。――ところで、近頃掛り合つてる女は誰だ」
「番場のお時、――下つ腹に毛のない年増で、尤も、こればかりは與三郎の方から逃げて、寄り付かなくなつたさうで。與三郎に逢つたら締め殺すと口癖のやうに言つて居たさうですよ」
「お前は、そのお時に逢つて來たのか」
「番場町の家は十日も前から空家あきやですよ。與三郎に捨てられて、何處へ行つたか、町内の者にもわかりません」
「それは困るぢやないか」
「ところが、親分、もう一つ面白い話を聽き込みましたよ」
「何んだ」
「與三郎の野郎は、近頃、栗唐くりから一座の眞珠太夫に夢中だつたんですつて」
「フム、それは變つてるな」
「あの小屋の小一――そんなものはありやしませんが、舞臺の下に陣取つて、朝から晩まで眺めて居たさうで」
「で?」
「ものになる氣遣ひはありませんよ。一方は藝人でこそあれ、みがき拔いた眞珠のやうな娘だ。女漁りに日を暮して居る罰當りの與三郎などに、構つて居られる筈もありません」
 八五郎は簡單に片付けるのです。眞珠太夫の崇拜者の一人として、與三郎風情と一緒には考へ度くなかつたのかも知れません。
「でも、手輕に片付けちやいけないよ、八」
「へえ? すると親分は」
「果しまなこになるから、お前といふ人間は厄介だよ。兎も角も、疑へるのは疑ひ、調べるところは調べて見なきやア」
「――」
「與三郎の死骸の爪は割れて、その間に金絲きんしが挾まつて居た。あんな絲は何處にあると思ふ」
「坊主の袈裟けさに、佛樣の打敷うちしき、――外にはありませんね。あ、さう/\、掛け物の表具、女の子の帶」
「あの金絲は眞物ぢやない。少し色が變つて居るし、恐ろしく安つぽい色をして居るから、まがひ物のにしきか何んかだ。坊さんの有難い法衣ころもや、打敷や、掛物の表具にはあんなベロベロの錦は使はない。先づ、寺詣りの子供の巾着でなきや、山車だしの飾り、見世物や諸藝人――それも安藝人の肩衣か何んかだ」
「あ、眞珠太夫?」
「さうだよ、眞珠太夫も係り合ひがないとは言へないだらう」
「そんな馬鹿なことが――」
「ま、躍起やくきになるな。當人に當つて見るに越したことはない」
「さうでせうか」
 八五郎をなだめ/\平次は橋を渡つて東兩國の、軒を並べた見世物小屋の方へ行きました。町は晝下がり、江戸見物の群衆と、折助、中間、閑さうなやくざ者、道草を喰ふ中僧小僧で、この邊の賑ひは又格別です。


 東兩國の栗唐くりから一座――それは妙な名前ですが、親方の竹松はやくざ者あがりで、身體一杯に汚して居るので倶梨伽羅紋々くりからもん/\から採つて、栗唐一座の名をつけたといふことです。
 一座は親方の竹松の外に、囃子はやしも仕る、藝達者の女房のお六、木戸番の三太郎に、口上と道化方と、手品も少々は心得てゐる、珍々齋といふ四十男、それで全部ですが、眞珠太夫の人氣が大變で、門並みの小屋を壓して此處だけはハチきれさうな入りです。
 その頃の兩國の見世物小屋は、今の人が想像するやうな宏壯なものではなく、五六人の一座で背負つて、日に幾杯となく客を入れ換へ、それで結構立つて行つたのです。鳥娘も、ろくろつ首も、中には放屁の名人までが小屋を掛け、いかゞはしい見世物の數を盡して軒を並べたのですから、まことに天下泰平だつたわけです。
 眞珠太夫の手踊りと唄は、その中にあつて、まことにピカ一的存在であり、當時の兩國フアンは、伽陵頻迦かりようびんがとも、天女の舞ひともたのでせう。銀座を歩けば、コケツテイシユな女の大群に逢ふやうな今日と違つて、平次の生きて居た江戸の初期には、一人の美しい茶汲女のために、笠森稻荷が繁昌したり、淺草の楊枝やうじ店が名物になつたりした時代です。眞珠太夫一人のために、親方の竹松が一と身上拵へたのも無理のないことでした。
「あれですよ、親分。驚いたでせう」
 八五郎は舞臺へあごをしやくつて、自分のことのやうに、平次に自慢をしました。
 一とくさり、當時の流行はやり歌を唄つた眞珠太夫は、そのまゝ、親方の女房のお六の三味線につれて、翩翻へんぽんと踊るのです。
 歌も踊りも、小娘の藝當で、大したものではありませんが、その※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)らふたけきばかりの美しさに平次も膽をつぶしました。江戸の娘、何んの某といふ中にも、これほどのは滅多にあるわけもありません。
 この小娘が人を殺す――それは想像もつかないことですが、この娘の踊り衣裳を見ると、肩のあたりにしたゝか金糸銀糸を刺繍ぬひとりして、妙に平次の疑ひを掻き立てます。尤も江戸中に知られた踊り子が、刺繍した衣裳を着て、男を殺しに行くといふことは、想像も出來ないことですが、其處には何んか、常識で割りきれない、引つ掛りがあるのかもわかりません。
 三味線を彈いてるのは、竹松の女房のお六とかいふ女、白粉燒のした、色の淺黒い年増女ですが、白粉つ氣なし、紅だけ含んだ自棄やけの櫛卷で、身扮みなりの小意氣で贅澤なのが、妙にそぐはない感じです。木戸番の三太郎は、ちよいとした男前ですが、聲をつぶしてしまつて、職業的な大鹽辛聲おほしほからごえ双子縞ふたこじまあはせ、手拭を肩に、行儀の惡い大胡坐あぐらの、これは二十一二の若い盛りです。
 親方の竹松は三太郎の後ろ、錢箱を抱へて、煙管をくはへて居りました。三十五六の綽名あだなにも似ぬ、これは華奢きやしやな男です。吹けば飛びさうな男と言ふ方が適當でせう、蒼白くて、虫食ひ頭で、尤も、倶梨伽羅紋々などは大嘘で、それはかう言つた社會に多いボスに睨みをきかせ、押借りや、ゆすりを避ける爲の、宣傳に過ぎなかつたとわかつて大笑ひになりました。栗唐くりからといふのは、木曾義仲の火牛の策で有名な、クリカラ峠が故郷に近かつたので、栗唐と洒落しやれたのだと、竹松が大汗を掻いて辯解したのは、これは後の話です。
 口上言ひの珍々齋は、これは大入道で髯武者で、繪凧ゑだこの武藏坊辨慶のやうな男でした。そのくせなか/\の達辯で、大男の癖に器用でもあつたので、口上輕口、手品まで、幅の廣い藝の持主でした。その上ちよいとおつな喉で、流行唄などを聽かせて、お客樣をやんやと言せて居ります。
 眞珠太夫が引つ込んで、代つて珍々齋が出ると、正直な見物はゾロゾロと歸りますが、舞臺の下に陣取つた何人かの若いのは、次にまた眞珠太夫の出るのを待つて一寸も動きません。その中にはかつての與三郎なども入つて居たことでせう。


「ちよいと、眞珠太夫に逢ひ度いが」
 八五郎が、狹い樂屋を覗くと、
「ま、どなたでせう。御用なら家の方へ來て頂き度いんですが、原庭の竹松と仰しやつて下されば直ぐわかりますよ」
 蒼黒い女――竹松の女房のお六は、樂屋の入口にふたになつて、八五郎を止めるのです。
「つまらねえことをしちやいけない。錢形の親分だよ。少し訊き度いことがあるとよ」
 チラリと八五郎は腰の十手を見せるのです。
「ま、親分さん方、濟みません。少しも氣が付かなかつたもので」
 お六はあわてて身をかはしました。見る影もない蒼黒い顏に、唇の赤さだけが、毒々しいほど目立ちます。昔は斯うした、口紅だけが濃い、片化粧の女を、一般の人達は警戒したものです。
おどかしちや濟まねえ。何、ほんのちよいとしたことを訊くだけなんだよ」
 平次は詫びるやうな調子で入りました。中には不景氣な鏡臺と衣桁いかうと火鉢、脱ぎ散らした着物の中に、眞珠太夫は立ちすくんだまゝ少し顫へて居ります。
「ま、此處へ坐るが宜い」
 八五郎は眞珠太夫を見ると急に優しくなります。舞臺で見るのと違つて、斯う藝人のポーズをかなぐり捨てたところを、近々と寄つて見ると、痛々しいほどの可憐な娘です。
 白粉ののなさも、兩國あたりの藝人にしては非凡ですが、この娘は本當に白粉が要らなかつたのです。肌が桃色眞珠のやうに輝いて、何んとなく透明でさへありまして、それで體温を持つて居たら、これは全く奇蹟と言ふの外はありません。
「お前は昨夜外へ出なかつたのか。――戌刻いつつ(八時)から子刻こゝのつ(十二時)の間――」
「いえ、何處へも。酉刻むつ(六時)には小屋をしまつて、直ぐ原庭の家へ歸りました。親方やお神さんに訊いて下さい。皆んな一緒でしたから」
「珍々齋と三太郎は」
「あの二人は小屋に泊つて居ります」
「錢形の親分さん。原庭の私の家は、そりや狹い家ですから、誰が外へ出ても直ぐわかります。太夫は暗くなつてから、何處へも出なかつた筈です」
 お六はやつきとなつて口を添へました。
「番場の與三郎が、殺されたんだが、知つてるだらうな」
「え、まア、まア」
 お六の驚きやうは大袈裟おほげさでした。眞珠太夫もさすがにサツと顏色を變へましたが、默つて俯向ひてしまひます。
「その與三郎が、眞珠太夫に夢中で、毎日この小屋へ入つて張つて居たさうぢやないか」
 平次はお六に訊ねました。
「隨分迷惑なお客でした。でも、せつかく御贔屓ひいきにして下さるものを、お斷りするわけにも參りません」
「だが、與三郎の死骸の爪の間に、刺繍ぬひとりの金糸が、ほんの少し挾まつて居たのだよ」
 平次は思ひきつたことをズバリと言ふのです。
「飛んでもない。この娘は、藥研堀やげんぼりなんかへ行つた筈はありません。私が確り見張つて變な野郎なんかに指も差させないやうにして居ります」
「待つてくれ。俺は與三郎が殺されたとは言つたが、まだ何處で殺されたとも言つてない筈だ――藥研堀といふ場所をどうして知つた」
 平次の聲は、間髮を容れずに、お六の饒舌ぜうぜつを封ずるのです。
「それは、あの、多勢の話して居るのを聽いたんです。小屋の中で」
 お六は併し何んのとゞこほりもなく應へました。
「よし/\、それはまアそれとして、眞珠太夫はお前の娘や妹ではあるまい。――これは本人に訊くが、何處の生れで、親は何んと言ふ」
「――」
「それくらゐのことを言へない筈はあるまい」
「山の中でした。信濃の國でした。子供の頃人に買はれて親方の世話になつて居りました。――本當の名は、玉、今でもさう呼んで居ります。私の親は――そりや、良い人達でした。私は、時々夢に見ることがあります、父親の泣いて居る顏を」
 眞珠太夫はうは言のやうに言つて、長い睫毛まつげが涙をつゞるのです。蒼白い高貴な顏、これはいかなる身分の者であつても恥かしくない相です。


「親分、何んな證據があらうと、あの娘は下手人ぢやありませんよ」
 小屋を出るともう、八五郎は斯んなことを言ふのです。
「女が好いと、皆んな善人に見えるから、お前の眼は不思議な眼だよ」
 兩國橋の上へ來ると、さう言ひながら平次は、何を考へたか立ち停りました。
「何か、あつたんですか、親分」
「昨夜、金糸の刺繍ぬひとりをした着物を着て、この橋を渡つたものがないか、橋番所で訊いて見よう。それからお前は、原庭の栗唐くりからの竹松の家へ行つて、昨夜竹松夫妻と眞珠太夫は確かに外へ出なかつたかどうか、くはしく訊いてくれ。下女か留守番は居るだらう」
「それから、金糸の刺繍をした踊衣裳をどりいしやうを搜しませうか」
「そんなものはないよ。眞珠太夫の踊り衣裳も一と通り見たし、三太郎と珍々齋にも訊いたが、そんなものはないさうだ。もう一度考へ直さう」
「それぢや親分」
 八五郎は夕陽に送られるやうに、其處から橋の上を引返しました。
 明神下の家へ歸つたのは、もう夕方、平次の女房のお靜は、
「お歸んなさい。――お前さん、妙な年寄りに逢ひませんか、遙々訪ねて來たとかいふ」
 妙なことを言ふのです。
「逢はなかつたよ。それがどうしたんだ」
「ひどくあわてて居ましたが、用事も名前も、いくら訊いても言つてくれません。遙々はる/″\遠方から、お名前を訊いて訪ねて來たが、錢形の親分に逢ひ度いと――」
「どんな人だ」
「五十――五六かしら。お百姓には違ひないけれど、立派な人でした。左の小鼻の脇に大きい黒子ほくろのある」
「サア、そいつは見當もつかない」
 これは平次も持て餘しました。二度訪ねて來るのを待つ外はありません。
 それから半刻あまり、暗くなつて晩飯がすんで、足腰を伸ばしてゐるところへ、八五郎が戻つて來ました。
「いや、驚いたの驚かねえの」
「いや、御苦勞、御苦勞。不精したやうで惡いが、俺は早く歸つて、今日一日の見聞したことをまとめたかつたんだ。で、原庭はどうだ」
 平次もさすがに八五郎に遠慮がありました。お靜にさう言つて一杯つけさして、先づ腹を拵へてから、そろ/\訊き出したのです。
「あんな馬鹿々々しい夫婦はありませんよ。夕方小屋をしまつて歸ると、飯を喰ふまでは無事だつた。それから自分達の部屋へ入つて夜半よなかぎまで、取つ組合ひをしないばかりの夫婦喧嘩だ」
「誰も止めに行かないのか」
「月に六度くらゐ、度々やるから誰も止め手はない。世の中に夫婦喧嘩の仲裁ほど馬鹿氣たものはないと、下女のお竹といふ四十女は鼻で笑つてますよ」
「眞珠太夫のお玉はそのうち何をして居るんだ」
「宵のうちは下女のお竹と一緒に居たさうですが、そのうち眠くなつて、自分の部屋へ引揚げたやうで。あの娘の部屋といふのは下女の部屋の隣りの四疊半で、戸を締めると奧の竹松夫婦の部屋か、下女のお竹の部屋を通る外に出口はないさうで、矢つ張りあの娘は下手人ぢやありませんね」
「フーム、困つたことに、段々わからなくなる」
 平次は兩腕をこまぬきました。
「舌を噛みきつて、背中を刺す鎌いたちはありませんかね」
「馬鹿だなア。そんなものがあつた日には、餘つ程タチの惡いいたちだよ」
 八五郎のおろかしい洒落にも、平次はにんがりともしませんでした。


 それから又、割りきれない日が三、四日續きました。
「親分、厄介なことになりましたよ」
 八五郎は明神から藥研堀、東兩國から原庭と、一日に幾度となく往來して、細かい情報と證據を掻き集めてくれます。
「厄介? 何が厄介なんだ」
 平次は鬱陶うつたうしさうでした。遲れた櫻もようやくほころび始めて、世の中は春たけなはなるべき筈なのに、雪が春先まで降つたのと、薄寒い日が續いたので、江戸の景氣も一向に引立ちません。その上、藥研堀の與三郎殺しがくすぶつて、下手人の當りもつかなかつたのです。
「三輪の萬七親分が乘り出して、兩國のあたりをウロウロして居ますよ。何んでも、眞珠太夫に目をつけたやうで」
「フーム」
「尤も、それにも理窟はありますよ。栗唐一座が田舍廻りから江戸へ入る前、千住で小屋を掛けて、かなり長い間興行して居たさうですが、その時――と言つても去年の秋で」
「フーム」
 平次は口を挾まずに後をうながしました。
「矢つ張り眞珠太夫の人氣は大變で、與三郎のやうに毎日通つた若い男、これは土地の物持の若主人で、何んとか言ふのが、眞珠太夫と懇意こんいになり、親方の竹松に渡りをつけて、夫婦にでもなるんぢやないかといふ評判の立つたとき、恐ろしいことですね。與三郎と同じやうに、小屋の裏で、舌を噛みきられて死んださうです。土地の人は、狐にだまされて、眞珠太夫のつもりで逢引して、そんな目に逢つたことだらうと、それで片付けてしまつたさうですが、狐は人間の舌を噛みきるでせうか。ね、親分」
「俺が知るものか、狐に近付きはないよ」
「そんな事を聽き込んで、三輪の萬七親分が乘り出したやうで、眞珠太夫が怪しいと言ふんださうで。――ところが、眞珠太夫はあの通りで、人なんか殺しさうもないし、證據といふものは一つもない」
「成程な。――そんな惡い狐は、三輪の親分の手でつかまへても構はないから、早く退治する方が宜いが。――ところで八、お前に一つ頼みがある」
「へエ、へエ」
 八五郎は乘り出しました。平次の調子は張りきつて居たのです。
「殺された與三郎に掛り合ひある者で、男でも女でも構はない、派手はでな紙入を持つて居るものはないか、氣をつけてくれ。金襴きんらんの紙入は男のものぢやない、多分女だらうと思ふが、この節女の化粧道具の入つた紙入には、恐ろしく派手な金襴があるから氣をつけてくれ」
「成る程ね。それから、こいつはつまらねえことかも知れませんが、今朝兩國の栗唐一座の小屋の裏で行き倒れがありましたよ」
「どんな行倒れだ。男か、女か」
「五十過ぎの大きい親爺で、身なりはお百姓ですが、立派な男でしたよ。眼の大きい鼻の高い、小鼻の脇に黒子ほくろのある」
 八五郎は何んの氣もなく説明すると、
「ちよいと、お前さん、その人ですよ、この間親分に逢ひ度いと言つて來たお百姓は。立派な年寄りでした。小鼻の脇に、かなり大きい黒子があつて」
 女房のお靜は、たまり兼ねて隣りの部屋から聲をかけるのです。
「そいつは妙な話だ。――お前も一緒に行つて、その行倒れの死骸を見てくれないか、放つても置けないやうな氣がする」
「ハイ」
 お靜は素直に支度を始めました。死骸の檢分に立ち會ふのは、いやな事には違ひありませんが、御用聞の女房の勤めで、それが嫌と言つても居られません。
 お隣りの小母さんに留守を頼んで、三人は兩國に向ひました。往來はもう春の人通り、隅田川もぬるんで、カモメがゆら/\と飛んで居ります。
 東兩國のいろ/\の見世物小屋の間を縫つて、栗唐一座の小屋の裏へ廻ると、小屋の裏口から少し離れて、大きい老人が死んで居ります。むしろを剥ぐと、五十五六の立派な體格で、顏はセピヤ色にけて居りますが、眼鼻立も見事、小鼻の脇の黒子ほくろが妙に氣になります。
「八、これは、何んで死んだと思ふ」
「サア、こゞえ死ぬほど寒くはないし、餓死がししたにしてはよく肥つて居るし、――矢つ張り急病でせうな」
 八五郎は頼りないことを言ひます。
「ひどく醉つてゐるよ。かす臭いぢやないか。だが、醉つただけぢやない、醉つたところでこの通り死ぬわけはない。八、耳の穴を覗いて見ろ」
「あツ、血」
「よく拭いてはあるが、耳の穴の奧に陽が射し込むと、まだ血が殘つてゐる。ひどい事をしたものだ」
「どうしてこの年寄りを殺さなきやならなかつたんでせう。金なんか持つてゐさうもないが」
「深いわけがあるだらう。――殺してから死骸を引摺つたらしい。この佛樣は十六七貫目ありさうだから、ヤハな人間一人の力ではどうにもならなかつた筈だ。二三間引摺るのが精一杯さ――見ろ、死骸は栗唐一座の小屋の窓の下から引摺つたに違ひない。跡があるだらう。醉つ拂つてあの小屋を覗いて居る處を、後から忍び寄つて、長いきりのやうな物で、耳を刺したのだ。鬼のやうな奴の仕業だ」
「ところがね、親分。この顏は確かに似ちや居ませんか」
「良いことに氣が付いた。お前のかんも捨てたものぢやない。その黒子がなくて、女の髮形をさせたらどうなる」
「あツ、お玉――あの眞珠太夫だ」
 八五郎は大きな聲を出すのです。
「靜かにしろ。お前は原庭へ行つて、何んとかうまい事を言つて眞珠太夫を引つ張り出して來い。竹松夫婦が一緒でなきや嫌だと言つたら、三人一緒につれて來ても宜い。――お靜はもう用事はない、明神下へ歸れ」
「ハイ」
 お靜は素直に挨拶して明神下に引返すと、八五郎は原庭に飛びました。もう晝近い陽射しです。


 その間に平次は、木戸番の三太郎と、口上言ひの珍々齋をつかまへて、精一杯訊き込みました。それによると、竹松夫婦が旅興行を始めたのは、もう十年も前、最初は八人藝やら一人芝居やら、お六の唄で賣りましたが、五六年前眞珠太夫のお玉が一座に入つたのは、信州の旅興行中で、その頃十三だつたお玉が、年と共に次第に美しくなり、十五六になると、眞珠しんじゆ太夫と名乘らせて、一枚看板かんばんになつてしまつたのです。
 それから竹松夫婦の儲けは大したもので、自分達の蔭芝居や八人藝は止してしまひ、お玉一本で稼ぎため、去年ようやく多年の願望が成つて江戸へ入つたといふのです。
 竹松は蔭芝居の名人で、女形の聲色こわいろをよく使ひ、お六は三味線の達者ですが、膽つ玉は竹松より遙かに太く、二人はよく夫婦喧嘩をしながらも、お互に弱い尻を握つてゐるらしく、いがみ合ひながらも、仲よく暮してゐたといふことです。
 そんな話をして居る時、八五郎がお玉の眞珠太夫をつれて來ました。
「ね、親分。途々、眞珠太夫に訊きましたが、あの娘はこの一座から脱け出し度くて仕樣がないけれど、親方の竹松夫婦は放してくれず、夜も晝も見張られてゐるといふことですよ。時々親切な男の人があつて、それを力に身を拔かうとするけれど、眞珠太夫と懇意こんいになつたものは、あとから、あとからと殺されて行く――と、斯う言ふんです。怖い話ぢやありませんか。あつしが眞珠太夫を引つ張り出すんだつて容易のことぢやなかつたわけで、竹松とお六は、直ぐ後からやつて來ますよ」
「それぢやすぐ、あの娘に」
 平次が指圖をすると、八五郎は小屋の入口に立つて居る眞珠太夫を呼んで、死骸のむしろを剥いで見せました。最初は無氣味さうに、遠く離れて居た眞珠太夫も、死骸の人相にフト氣になるものを見付けたか、次第に近づいて行つて、
「あ、父さん。お前まア、どうして、こんな姿に」
 ガバと死骸に身を投げかけて、はふり落ちる涙を拂ひも敢へずに、抱きあげるのです。
「親分、これは、どうした事でせう」
「待て/\、竹松夫婦が來たやうだ」
 平次は八五郎を押しとめて、竹松とお六を迎へました。
「ま、飛んだお手數で、行き倒れがあつたさうで」
 竹松とお六はニコニコと近づきました。
「この佛樣を始末させ度いが、生憎あつしはこれ一枚が身上しんしやうだ。細かくしてくれませんか、お神さん」
 平次はの上に、二分金一枚を載せて出すのです。本當に平次の身上ありつたけでせう。
「え、え、お安い御用で」
 お六はさう言つて、帶の間から紙入を拔くのです。形だけは豪勢な、まがひ金襴の紙入、その頃よく流行つた、豆鎖まめぐさりで止めた、分厚な化粧道具入でもあります。
「八、それツ」
 平次は聲をかけました。
「御用だツ」
「何をツ」
 竹松を八五郎が取つて押へるのは樂でしたが、平次に向つた、お六の武力には驚きました。輕捷けいせふで素早くて、手に了へない上に、何處に隱し持つて居たか、細いきりのやうな匕首あひくちが、相手の急所を狙つて縱横に飛ぶのです。
 平次はたうとう錢をはふりました。女を相手に大人氣ないやうですが、さうでもしなければ、怪我人を拵へたかも知れません。
        ×      ×      ×
 竹松夫婦が處刑になると、八五郎にせがまれて、平次はその繪解をしてやりました。
「恐ろしい夫婦だつたよ。眞珠太夫が逃げ出すのが怖く、男が出來さうになると、あの女房のお六が、眞珠太夫に化けて殺したのさ。あの女はがらが良いから、化粧をして暗いところで見ると、十八の眞珠太夫に見えた。――亭主の竹松は、留守番をして一人二た役で、夫婦喧嘩の蔭芝居をやつて居たのだ。女が男の聲色こわいろを使ふのはむづかしいが、男が女の聲色を使ふのは、世間でも少なくない。まして自分の女房の聲色くらゐは、竹松には何んでもない隱し藝だ」
「あの殺された百姓の爺さんは」
「眞珠太夫の父親だよ。金に困つて十三の時旅の興行師に賣つたが、その娘が戀しくなつて江戸へ出たのだ。最初俺に逢ひさへすれば何んとかなつたのに、竹松に逢つたのが運の盡きさ」
 平次もこればかりは心殘りだつた樣です。
「それから、お六の紙入を見ると、親分はいきなり二人を縛らせましたね」
「與三郎の爪にはさまつた金糸は、あの紙入から取れたのさ。最初、踊り衣裳と思つたのは大違ひ、女帶ではあるまいかと思つたが、餘つ程の身分の者でなきや、あんな金々した帶は締めねえ」
「?」
「殘るのは近頃流行はやる、豪勢な女の紙入だ。化粧道具から七つ道具まで入つて居るやつ、その中にうんと金を入れて、暗がりで與三郎に握らせ、駈落ちの相談をしたのだらう。その紙入を握つたまゝ、與三郎は殺され、お六は自分の紙入の外に、與三郎の胴卷まで中味を拔いてしまつた。恐ろしく達者な女だよ」
「どうして、あの晩兩國を渡つたのでせう。橋番も知らなかつたやうですが」
「竹屋の渡しさ。船を買ひきることだつて出來るぜ」
「成るほど、ところで、眞珠太夫のお玉は?」
「あれは綺麗過ぎて、間違ひが起りさうだから、信州の故郷へ歸さうと思つたが、お靜が無暗に肩を持つて、よく仕込んで、江戸で良いところへ嫁にやり度いと言つて居るから、そのうちに此處へ引取るかも知れないよ。竹松のところから逃げ出したいばかりに、いろ/\細工さいくもしたらしい。根が素直な良い娘だよ」
「へエ、そいつは」
「馬鹿だなア、お前の相手ぢやないよ」
 でも八五郎は樂しさうです。あんな娘が居るだけでも、明神下へ來る張合ひが又一つふえたわけです。





底本:「錢形平次捕物全集第三十四卷 江戸の夜光石」同光社
   1954(昭和29)年10月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1954(昭和29)年4月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「糸」と「絲」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年1月12日作成
2017年3月4日修正
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