「あ、八五郎親分ぢやありませんか」
江の島へ行つた歸り、遲くもないのに、
「誰だい、俺を呼んだのは」
振り返ると、海から昇つた朝陽を浴びて、バタバタと驅けて來た女が一人、一行の前に廻つて、大手を擴げるではありませんか。
「
女は早立ちの旅人が、眼を
「待つてくれ、無闇に引つ張ると、袖口がほころびる。家へ歸ると、叔母さんに叱られる」
「冗談ぢやない。紅白粉で、
女はまくし立てて、八五郎を引張るのです。高輪車町の巴屋といふのは、江戸の土産物も賣り、店では一杯飮ませて、中食も
一昨日江戸を發つとき、巴屋へ押し上がつて、旅の前祝ひの大騷ぎをやらかし、二人の女中、お六とお梅といふのを、散々からかつたことは、八五郎も忘れる筈はなく、相手のお六も、品川から朝立ちで、江戸へ戻つて來た賑やかな旅人の中から、八五郎の長んがい
「人殺しは穩かぢやねえ。誰がどうしたんだ」
「旦那が殺されたんですよ。金杉の竹松親分が乘り込んで來て、ギヨロギヨロ
三日前の晩の、羽目を外した騷ぎを知つてゐるので、お六はすつかり八五郎を甘く見てゐる樣子です。尤も、神田を發つたのは遲かつたにしても、
このお六といふのは、渡り者の大年増で、
入つて見ると、巴屋は表戸をおろしたまゝ、中の騷ぎは大變でした。主人山三郎は、裏庭の
「おや、向柳原の八五郎
暗い中から光つた眼は、金杉の竹松といふ、四十年配の顏の良い御用聞でした。
「金杉の親分ですかえ。江の島の歸り、騷ぎがあると聽いて覗きました。見せて頂くと、神田へ歸つて、錢形の親分に、飛んだ良い土産話になります」
八五郎も近頃は、こんな世辭が言へるやうになつたのです。
「さうか、
金杉の竹松はすつかり良い心持ちになつた樣子で、
主人山三郎の死骸は、裏の一と間に納め、
「幸ひと申しませうか、昨夜は一人も客がなく、――尤も此處は江戸の内と申しても、海道の入口ですから、泊りのお客は滅多にございません。奉公人達も早寢をして、今朝はいつも早起きの
番頭の勘三郎は金杉の竹松に代つて、八五郎に説明してくれました。三十五六のこれはなかなかの好い男で、道樂強さうですが、ハキハキした口調から察すると、なか/\の働き者でもありさうです。
八五郎が、明神下の平次のところへ、この報告を持つて來たのは、その日の夕方でした。
「石地藏と心中は、神武以來でせう。五十男の巴屋山三郎が、何んの物好きで――」
「待つてくれよ、八。山三郎は女房持ちだと言つたな」
平次は問ひを挾みました。
「お瀧といふ五十前後だが、こいつは良い内儀ですよ。山三郎は入
「話はそれつきりか」
「これが序開きで、本筋はこれからですよ、親分」
「巴屋山三郎は、人手にかゝつて殺されたに違ひあるまいが、下手人は擧つたのか」
平次は先を急ぎました。八五郎の話術に附き合つてゐると、夜が明けさうです。
「大きな口をきいてゐるが、金杉の竹松親分ぢや
「その五人の樣子を、
平次はお勝手へ合圖をして、一本晩酌をつけさせると、
高輪の宿屋で、亭主が石地藏と心中をしたなどといふ種は、八五郎に言はれる迄もなく、江戸始まつて以來の珍捕物になりさうです。
「今朝、主人の死骸を見付けたのは、下男の
「内儀のお瀧さんとかが、主人が夜半に脱け出したのを知らなかつたのか」
平次の問ひは要領よく事件の
「内儀のお瀧は、好い女で五十そこ/\で、家付き娘で、身體が弱い。
さう言つた夫婦生活は、平次の常識では考へも及ばず、貧乏人には出來ないことですが、家が廣くて、暇があつて、ヒステリツクで、お綺麗だと、内儀のそんな我儘も時には許されるのでせう。
「昨夜もそれをやつたのか」
「尤も昨夜は、主人の方から言ひ出して、――用心が惡いから――とか何んとか、わけありさうに
「その内儀は、夜半に誰か外へ出た者のあることに氣が付かなかつたのか」
「雨戸が開いたやうな氣がする――と言つてゐましたが、それも夢心地だつたやうで、それから暫くして、ドシンと物の落ちる音がしたやうだが、氣にも留めなかつたさうで」
「ところで、怪しいのが五人もあると言つたが、誰と誰だ」
「第一は番頭の勘三郎、三十五にもなる獨り者で、内儀の遠縁とかまた
「それから」
「死骸を見付けた下男の
「そのお六といふのは」
「高輪の
八五郎は膝を進めるのです。
「あとの、もう一人が臭いやうだな」
八五郎の話の先を潜つて、平次は言ひ當てるのです。
「その通りで、金杉の竹松親分も、こいつが一番怪しいと言ひましたが、一つも證據がないので、縛ることが出來ません」
「誰だい、それは?」
「主人の
「フーム、面白いな」
「面白かありません。あんなのは男の
「臆病にもいろ/\あるだらうが」
「與茂吉と來ては、底拔けの臆病ですよ。町内の若い者が集まつて、夏の晩などは
「成程念入りだな」
「逃げやうのないところで怪談が始まると、冷汗を掻いて眞つ蒼になり、ガタガタ顫へ出すといふから大變でせう」
「フーム」
「二階に寢ると
「それほどの臆病なら、主人を殺す膽つ玉もないだらう。竹松親分は、妙なところへめをつけたものぢやないか」
平次は一應横槍を入れました。
「ところが、馬鹿が利巧さうな口をきゝ、利巧な奴は馬鹿見たいに振舞ふやうに、――それ、大賢愚に近し――とか言ふさうですね。あつし見たいに間拔けな面をしてゐる者は、
「自分を引合ひに出すから世話ない。ヌケヌケとした野郎だ」
「善人がる奴は惡黨で、惡黨がる奴は、お人好しでなきや、薄馬鹿ときまつてゐるでせう」
「大層
「竹松親分も言ひましたよ。三年前品川の問屋場に泥棒が入つて、役人を一人殺して千五百兩の御用金を盜んだのは、其處で働いて居る、一番臆病な、ガタガタ慶吉の仕業だつたとね。ガタガタ慶吉といふのは、ちよいと
「成程、そんな事もあつたやうだな」
「竹松親分に言はせると、主人の死骸の顏に、前掛を被せたのは、下手人は臆病者で、死骸を見るのが怖かつたに違ひない――と言ふんです」
「成程、面白い考へだな」
「主人山三郎の石地藏を抱いて死んで居たといふ死に顏は、全く物凄いものでしたよ。下手人は、人を殺したものの、その死に顏に睨まれるやうな氣がして、有り合せの前掛を被せたに違ひありません」
「その前掛の持主は?」
「下女のお六のだから大笑ひで、夕方井戸端へ忘れて行つたものです。自分の前掛で、そんな事をする馬鹿はないから、お蔭でお六は下手人の疑ひから取り
「さうも言へるな」
平次は默つて考へ込みました。考へたところで、現場を見ない平次には、その考へを發展させる途もありません。
「まア、少しも召し上がらないぢやありませんか。八五郎さん」
お靜はお勝手から覗いて、お
その夜
「八五郎親分はいらつしやるでせうか。
「何んだ、お六ぢやないか。大層改まつてどうしたんだ。――まア入れ、丁度宜いところだ。お前に教へて貰つた唄の文句だがね」
取次に出た八五郎は、少し醉つてはゐましたが、この愛嬌者の唄の上手なお六が、昨夜の續きの、流行唄の節廻しでも教へに來たやうな錯覺に溺れて、他愛々々、猫ぢやらしの振事になつてをりました。
「それどころではありませんよ、親分」
「何んだえ、果し眼になると、お前でも飛んだ好い女だ」
「金杉の竹松親分が、たうとう與茂吉さんを縛つたんです。大の男が泣きながら引かれて行くのを、誰も
覗くと、路地の中、灯りの屆くか屆かないかといふところに据ゑた町駕籠の垂れをあげて、豊かな頬と、黒い髮と、さう言へばさうも見える、丸い
「へツ/\、それほどでもねえが」
拜まれて八五郎は少し照れた樣子です。
「向柳原で散々尋ねると、叔母さんといふ方から、明神下の平次親分のところへ行つてゐると聞いて來ました。聽けば、八五郎親分はお使ひ姫見たいなもので、捕物の御本尊は錢形の親分なんですつてね。――何が幸せになるかわからないものねえ、私も八五郎親分では、最初から
お六の舌はよく動きます。
「俺といふ人間はお使ひ姫か、――まア、それには違ひないけれど」
「八、何をむくれてゐるんだ。路地で話もなるめえ、此方へ通すんだ」
平次はたまり兼ねて聲を掛けました。
「さア/\ズイと通つてくれ。御本尊は逢はうと仰しやる」
二人の女は、平次の狹い家に通りました。お靜はそれを迎へて、薄い座布團を出したり、七輪の下を
「さて、その話の續きを聽かしてくれ。與茂吉とやらが、どうしたんだ」
挨拶拔きに、平次は話を引出しました。お六といふのは、摺れつ枯らしと純情と、
その後ろに、寄り添ふやうに、少さく[#「少さく」はママ]身を
「與茂吉さんを縛るなんて、金杉の竹松親分も、モノがわからないにも程があります。暗くなると、一人で町の湯へも行けないやうな男、正直で、弱氣で、操り芝居を見てゐてさへ、殺しの場は見てゐられないやうな男が、自分の叔父さんを、殺すでせうかね、親分」
お六は調子づくと、少し
「その與茂吉が、御主人を怨むわけでもあつたのか」
「それはもう、――金杉の竹松親分も、それを言ふんです」
「?」
「お孃さんは、
「――」
「でも、あの人は、どんなに腹を立てても人なんか殺せるわけはありません。崖の下から、
「外に、主人を怨んでゐる者はないのか」
「そりや人間ですもの、何處で怨みを買ふか、わかりやしません。ことに奉公人なんてものは、主人が良くして下されば良くして下さるにつけても、何んとか不足がましいことを言ふもので」
この女は、なか/\の哲學を心得てをります。この二十五六の大年増、
話がうまいのは、明けつ放しで、
成程こんな女の
「差當り家の中で、誰と誰が主人を怨んでゐたんだ」
「お孃さんの前では言ひ
「成程ありさうな事だな。下男の
「お孃さんに附け文したのを見付かつたんだから、――あの時は大變な騷ぎでしたよ。二十八にもなる大の男が金釘流を貼り出されて、半日油を絞られたんだから、氣の弱い者だつたら死んでしまひます」
「フーム」
これは成程念が入り過ぎます。
「でも、そんなことで、主人を殺して
「すると、お前は、家の中には下手人は居ないと言ふのだな」
「主人に地藏樣を抱かせたり、
「その刺身庖丁は、
「お勝手は近かつたんですもの、其處から持出したにきまつて居ます」
「灯りはついて居たのか」
「昨夜はお月樣がよかつたでせう」
「でも、お勝手の庖丁を搜すのは、外から入つた曲者ではむづかしいよ」
「でも案内を知つてる者なら、出來ないことはありません」
お六の答辯は、ハキハキとして何んの澁滯もありません。
「あとは、お梅といふ女がゐる筈だが」
「ありや、お話になりません。ちよいと良いきりやうで、お客受けは良いけれど、氣がきかなくてぼんやりで、右向けと言へば、三日も右に向いてゐさうな人ですもの、でもちよいと氣の知れないところはあるが――」
ヌケヌケと朋輩の惡口を言ふのも、お梅を
平次と八五郎は、その夜のうちに、高輪に向ひました。留守は隣りの女房に頼んで、近いところから駕籠を二梃、女二人の乘物を中に挾んで宙を飛びました。
巴屋はお通夜で、まだ客が殘つてをりました。事件の
巴屋では、娘のお絹と、下女のお六が見えなくなつて一應はあわてましたが、内儀のお瀧が事情を心得てゐるらしいので、靜かにその歸りを待つてゐる姿でした。乘物は場所柄だけに、高輪の立場から出したもの、別に案ずるほどのことはなかつたわけです。
店口の賑やかのを嫌つて、平次は裏からそつと入りました。お六は心得て小座敷に通し、二階に引つ込んだばかりの内儀のお瀧を呼んで來てくれました。
「ま、まア、錢形の親分さんを」
お瀧はイソイソと降りて來て、平次の勞を
「飛んだことでしたね。お孃さんに泣かれて神田からやつて來ましたが」
「有難うございます。飛んだ我儘を申しあげて、――ところが、宜い
「それは宜い具合でしたが、あとで金杉の竹松親分に聽くと、お六の言つたことが本當だつたとわかつたさうで」
「お六の言つたこと?」
「與茂吉が縛られて行くとき、――お六が竹松親分を追つかけて、――與茂さんは、昨夜私と逢つて一と晩過したから、主人を殺す
「成程それは確かな證據だ」
「あとで、お梅に訊いて見ると、お梅も昨夜お六さんはひと晩自分の部屋にゐなかつたと言つたさうで」
「――」
「その代り、金杉の親分は、番頭の勘三郎を縛つてしまひました。勘三郎の荷物を調べると、この間から主人が盜まれたと言つてゐた五十兩の小判が、泥のついたまゝ、ボロ
「それは?」
斯うなると、途中から顏を出した平次は、口のきゝやうもありません。
兎も角も、灯りの用意をさせて、現場を見ることにしました。旅籠屋を兼業してゐるだけに、お勝手も廣々として、其處には大勢の人が立ち働いて居りますが、其處から障子を一枚開けると、裏は車町の
地藏樣は巴屋の地内に建立されたものですが、崖上は幾つかのお寺と御家人屋敷で、信心の方は、上から崖道を
この崖の上から、何にかの
地藏樣の臺座の下は、
現場を一と通り調べた平次は、お勝手口のあたりを丁寧に見て廻り、今朝
「今朝、一番先に開けたのは、この雨戸です。すると、
ボソボソとした感じです。
「主人は前掛を被つてゐたさうだが、外に變つたことはなかつたのか」
「前掛を取ると、口の中に生じめりの
「それは?」
「前の日お六どんが洗つて、井戸端の
「それから、刺身庖丁は」
「いつもお勝手に置かてある道具で、私もよく使ひますが、切れ味の良い庖丁です。――その庖丁で
「では、佛樣を」
平次は井戸端をそれくらゐにして、家の中へ入つて、一應通夜の衆を
巴屋山三郎は、五十五六の、
「錢形の親分さん、ちよいと」
平次は呼び止められて、暗い廊下に立ち止りました。
「何んだ、お六ぢやないか」
「安く扱はないで下さいな。私は良いことを知つてるんだから」
「良いこと? 何んだいそれは?」
「まア、大きい聲。――此方へ來て下さいな。誰にも聽かせ度くないことなんだから」
お六は平次の手を引つ張つて、小さい部屋に押込みました。旅籠屋も兼ねてゐる巴屋には、思ひも寄らぬところに、思ひも寄らぬ小部屋があります。
「何んだい、聽かうぢやないか」
「番頭の勘三郎さんのことですよ。あの人は、江戸一番のいけ好かない人だけれど、主人殺しの下手人にされちや可哀さうよ、――隨分惡いことをする人だけれど、
「?」
「五十兩の小判を持つてゐて、それに
「?」
「今朝私が、この眼で見たんですもの。明るくなつてから、皆んな御主人の死骸を家の中に運び入れて大騷動をしてゐると、番頭さんは、崖の上へ登つて、地藏樣の臺座の下の穴へ手を入れて、何やら搜してをりましたが、間もなく
「お前はそれを何處で見てゐたんだ」
「二階の窓から、皆んな見てしまひました。間違ひありませんよ、親分」
「主人を殺して、あとで金を取出したかも知れないぢやないか。それだけのことで、勘三郎は主人殺しの下手人でないとは言ひきれないよ」
「でも、御主人が殺されたのは、昨夜の夜半でせう。主人を殺したのが番頭さんなら、夜が明けて、あたりが明るくなるまで、五十兩の大金をはふつて置く筈はありません」
お六の話は妙に自信に充ちて居ります。
「――」
「金を盜る氣で御主人を殺したものが、あの臺石の下の穴に氣がつかずに居るでせうか」
「待つてくれ、お前は妙に理窟強いところがある」
「でも、何んにも知らないものが、出來心で穴の中から五十兩見付け、それを隱したばかりにお
「それぢや訊くが、この
平次は新しい問ひを持出して、さり氣なくお六の返事を待ちます。――それは緊張した一瞬ですが、お六の答へは案外にも無造作です。
「下男の
「それだツ」
平次は小膝を叩きました。
「何がそれなんです?」
「主人を殺した下手人は、間違ひもなく左利きの人間だよ」
「?」
「主人は何にかの都合で――多分、あの五十兩の小判のことで地藏樣の臺座の下を搜したことだらう。ところが、地藏樣の
「――」
「主人の傷は、右に深く左に淺い。下手人は左利きの證據だ――この家の左利きは甲子松だとすると」
平次は次の活動の氣持になつた樣子です。下手人は臆病與茂吉でなく、番頭の勘三郎でないとすると、左利きの甲子松でなければなりません。
「待つて下さい親分。甲子松は少し馬鹿だけれど、親切な良い男です。あの人が主人なんか殺せる筈はない。――江戸には何百人も何千人もの左利きかあります。現に、この家だけでも、この私も左利きなんですもの」
「何んといふことだ」
さすがの平次も二の句が繼げませんでした。この女には、全く叶はないと言つた心持です。
「でも、隱せることぢやないんですもの、家中の者は皆んな知つてますから」
お六はさう言つて
「もう宜い、もう一度振り出しから
「それが宜いでせう。でも、私もう一つだけ教へて上げ度いことがあります」
「何んだいそれは?」
「あの地藏樣へは、裏のお寺の境内から、誰でも樂に來られるといふこと」
お六はさう言つて思はせ振りに愛嬌の良い顏を、ちよいとかしげるのです、恐ろしく不きりやうな癖に、この女には、何んとも言へぬ魅力があります。
「さうか。俺も一つ、面白い事を知つてるよ」
「?」
「地藏樣の臺座の下に、大きな穴があつて、その中に小判が隱してあつたと――お前は言つたが、地藏樣の臺座の下には、二つの穴があつたのだよ、前と後ろに。前の穴は空つぽだつたが、後ろの穴には瀬戸物の
「さうでせうか」
平次の自信あり氣な言葉を、お六は輕く聽き流しました。
間もなく、番頭の勘三郎も、番屋から歸されました。金杉の竹松親分も、後から/\と出て來る反證に、一人々々縛つた繩を解かされ、すつかり腐つてしまつた――と、これは町役人達の噂です。
勘三郎が戻つて來ると、平次はそれを一と間に呼んで、何やら
夜は次第に更けて行きます。お通夜の人達も大半は歸つて、佛樣の前にはほんの少しばかり殘るだけ、通夜の小僧が、時々眠さうにお經をあげてをります。
「お六、ちよいと來てくれないか」
平次はその中で何彼と立働いてゐる、下女のお六を呼出しました。
「何んでせう親分。皆んなの疑ひを私が解いてやつたのに、まだ何んかわからない事があるんですか」
後ろから面白さうについて來るお六。
「まア、あれを見ろ」
暗い廊下に立つて、平次は
「?」
「まだわからないのかお六。――お前は、昨夜、臆病與茂吉と逢引して居たと言つて、あの男を助けた。そいつは結構な
「――」
「與茂吉は助かつたが、十八になつたばかりの、あの娘を殺しちや、お前は氣がすむまい。――此處で、みんな正直のことを言つてしまつてはどうだ」
平次は暗い廊下に立つたまゝ、お六の圓い肩を叩くのです。
「どう言へば宜いんでせう、錢形の親分」
「ありのまゝで宜い。――お前は
「――」
「俺は、内儀と勘三郎から、皆んな聽いたよ。――賢こい中年女は、何んにも知らないやうな顏をしてゐるが、實は何から何まで知つてゐるものだ。――主人の
「――」
「その金を
「――」
「昨夜、主人とお前は地藏樣の臺座の下から、茶壺の小判を掘出しに行つたが、其處には小判はなかつた。主人とお前は喧嘩になつた。どつちも相手が隱したと思ひ込んだのだ。主人はその喧嘩に
「――」
「夢中でわめくので、お前は洗濯物で口を
「あの人は怒鳴りつゞけた――そして助かりさうもなかつた――殺してくれ、頼むから殺してくれと言つた」
「お前は主人を殺してしまつた。その下手人の疑ひが
「親分、私は、私は」
「お前は自分のしたことが恐ろしかつた。お孃さんにせがまれて明神下へ來たり、勘三郎や
「私は、私は」
お六は
「主殺しは
平次はさう言つて通夜の人數の中に立ち交つてしまひました。
その夜のうちに、あの唄のうまいお六は逃げ出してしまひました。