「親分、
八五郎は長んがい顎を撫でながら、錢形平次のところへノソリとやつて來ました。
いや、ノソリとやつて來て、火のない長火鉢の前に
「俺は腹を立てるよ、八。まだ朝飯が濟んだばかりなんだ、いきなりそんな汚ねえ話なんかしやがつて」
平次は
「てへツ、汚ねえどころか、それが滅法綺麗だからお話の種で」
「何をつまらねえ。容顏美麗だつて、垂れ流す隱し藝があつちや附き合ひたくねえよ。馬鹿々々しい」
平次がかう言ふのも無理のないことでした。貞操道徳が全く
この風潮に應ずるために、一方にはまた妾奉公を世過ぎにする、美女の大群の現はれたのも當然の成行でした。尤も、その美女の群が、まともな人間ばかりである筈はなく、中には非常な美人で、たつた一と眼で
どんな寛大な好色漢も、したゝかに寢小便を浴びせられては我慢のできるわけはなく、これは簡單に愛想を盡かされて、お拂ひになつてしまひます。素より一度やつた支度金は、暇をやつた妾から取戻すわけにも行きません。
かうして次から次へと渡り歩く美人を、貧乏で皮肉でおせつ介な江戸ツ子達は、小便組と呼んで、
ガラツ八の八五郎が、朝つぱらから持つて來た話の種は、この美しき惡魔『小便組』の一人に關係した、世にも平凡で皮肉で、そのくせ捕捉し難き小事件です。
「ね、親分。その小便組の一人が、一向垂れないんで、騷ぎが始まつたとしたら、どんなものです」
八五郎はまだ顎を撫でてをります。
話があんまり
「何んだか、ひどく間拔けな話だなア、――良い若い者が、色氣がなさ過ぎるぜ。朝つぱらから小便の話なんか持込んで來やがつて」
「さう言はずに、まア聽いて下さいよ。話の相手は淺草三間町の材木屋で若松屋敬三郎――」
「評判の良い男ぢやないか」
「男がよくて腹が大きくて、情け深くて古渡りの
「古渡りの俳諧といふ奴があるかい」
「近頃
「無駄が多いな、それからどうした」
錢形平次もツイ膝を
「その若松屋が二年前に女房に死なれて、四十一の
「入山形に二つ星の妾てえ奴があるかい」
「一々お小言ぢや困りますね。兎も角、大した
八五郎は飛び上がりました。身振りが過ぎて、お靜が置いて行つた番茶の湯呑を引つくり返したのです。
「たうとう垂れ流しやがつた。仕樣のねえ野郎だ、――お靜、
「へツ、へツ、これで支度金は丸儲け」
「馬鹿だなア」
掛け合ひ話は、こんな調子で運んで行くのでした。八五郎の話の筋だけを書くと、――その若松屋敬三郎の雇ひ入れた支度金百兩といふ妾のお扇は、素より
そのうち一と月、二た月と日が經ちましたが、お扇の勤め振りは、日を經るにつれて益々よく、主人敬三郎の喜びは、何に
このまゝ無事な日が續けば、まことに申分のない仕合せでしたが、お扇が來てからものの一と月とも經たぬうちから、若松屋の内外にいろ/\の變つたことが起り、それが嵩じてたうとう人一人の命にかゝはる破局までのし上げてしまつたのです。
事件の最初は、主人敬三郎の寢間のあたりへ、毎夜續け樣に石を投げることから始まりました。材木町寄りの往來から、黒板塀越しに
三日目、四日目の晩からは、奉公人達――わけても下男の茂十に言ひ付けて、手ぐすね引いて曲者を待ちましたが、それは宵だつたり
礫が少し止むと、今度は店先へ
併し、その惡戯は、恐ろしく
それは、若松屋の妾お扇は、名題の『小便組』だといふ噂を、
おせんの小便、小便おせん、
垂れろよ垂れろ、どんどん垂れろ、
旦那を流せ、枕ごと流せ。
こんな歌を、若松屋の前で歌はせるのでした。この戰術は全く我慢のならぬものでした。ワーツと垂れろよ垂れろ、どんどん垂れろ、
旦那を流せ、枕ごと流せ。
そんなことが續いた揚句、
「今朝、若松屋の裏の路地で、
八五郎の話はようやく結論に入りました。御朱印の傅次郎といふのは、――御朱印船にも乘つたことがあるといふのを、唯一の自慢の種にしてゐる船頭上がりのやくざ者で、これが小便組の女王お
「傅次郎は、お扇は俺の女房だと言つてゐたさうですが、そいつはあんまり當てになりません。尤もちよいと好い男で、浮氣な娘達には騷がれてゐますが、人間がろくでもないから、筋の通つたのは掛り合ひませんよ」
「まるでお前とはあべこべだ」
「からかつちやいけません。――ところでちよいと行つて見て下さいな。三輪の萬七親分が乘り出して、散々掻き廻した末お扇を縛るんだと言つて、眼の色を變へて搜してゐますが、そのお扇が姿を隱してしまつたんで」
「成程そいつは面白さうだな。三輪の親分に
「へツ、有難てえ。親分が御輿を上げて下さりや」
八五郎は少し有頂天になつて、平次が
「大層氣がつくぢやねえか、――一體誰に頼まれたんだ」
「若松屋の主人敬三郎――」
「
「實はね、親分、――お扇の妹のお
「わかつたよ、もう。それも小便組の一人だらう」
「飛んでもない、十八になつたばかりで、
「馬鹿だなア」
二人は
三間町の若松屋は、材木屋といつても、銘木や
店の前後、街のあちこちに、三輪の萬七の子分の顏は見えましたが、平次と八五郎はそ知らぬ顏で入つて行きました。
「あ、錢形の親分、お待ち申してをりました」
主人の敬三郎は、立ち上がつて眞にいそ/\と出迎へます。四十一の
「飛んだことで」
「驚きましたよ、錢形の親分。
「――」
若松屋の主人敬三郎の顏は、絶望的に
「親分の前ですが、お扇は人などを殺せる女ぢやございません。尤も惡者の手に
「ところで、そのお扇は、前々から家出でもしさうな樣子はあつたのかな」
平次は果てしのない
「この間からの惡戯を、お扇への厭がらせと判つて、――私がこゝにゐるために、皆樣にも御迷惑をかけ、お店の
敬三郎が、かうまでもお扇に打ち込むのも不思議ですが、小便組といふ、女の最も不名譽な
「昨夜からゐないのだな」
「夕方まで、いや宵までは確かにをりました」
「行く先の心當りでもないのか」
「里の
敬三郎はたよりない顏をするのでした。
「そいつは心細いぜ、鳴物入りで迷子の/\お扇さんでもあるめえ」
ガラツ八がまた無駄を挾むのです。
「馬鹿野郎、默つてゐろ」
「へエ」
平次は主人の敬三郎に引合せられて、店中の者に逢つて見ました。主人の弟の源吉といふのは三十七、八の良い男で、これは別に世帶を持つて、晝だけ兄の店に通ふ支配人格。老番頭の彌平は六十近い年寄りで、商賣の外には何んの興味もなささうな男。外に下女のお夏といふ中年女。先妻の
もう一人下男の茂十といふ中老人がをります。五十二、三の忠實な男で、伜夫婦が川越在で百姓をしてゐるので、自分一人だけ若い時分世話になつた若松屋へ、返り新參で奉公をしてもう六年になるといふ奇特な人間です。
「お扇さんは大した人でしたよ。以前は惡い噂もあつたといふことですが、この家へ來てからは早起き遲寢で、旦那樣の世話萬端から、二人の子供達の寢起き、奉公人への心づかひ、あんなによく屆いた人はありません。自分の貰つてゐる給金だつて、百も身に着けはしなかつたでせう。氣前は良いし愛嬌があるし、それで身仕舞がよくて、滅法綺麗と來てゐるんだから、全く非の打ちやうのない人でした。昔のかゝり合ひで、變な野郎につけ廻され、たうとう家出までなすたのは、本當にお氣の毒なことで――」
下男の茂十は心からお扇には
主人の弟の源吉は、
「亡くなつた兄嫁は、身體が弱くて、兄も長い間苦勞しました。それ
かう心から言ふのでした。小便組といふ札つきの妾が、こんなに良い評判を取るのは、一時の體裁や骨折でないことは明かで、恐らくお扇は世間の評判ほど惡い人間でなく、御朱印の傅次郎に操られて、不本意の惡業を重ねてゐるうち、フト若松屋の内部に入り込んで、主人敬三郎の人柄の立派なのに驚き、更に若松屋の店中の空氣の良いのに打たれて、こゝを永住の地と思ひ込み、精一杯の眞面目な愛と光明とに充ちた生活を
平次は茂十に案内させて、庭から材木置場を一
「死骸は誰が見付けたのだ」
塀の下の二尺ほどの
「まだ薄暗いうちでした。往來の人が見付けて大きい聲を出したので、驚いて私が飛んで出ましたが、その時はもう見付けた人の姿は見えませんでした。觀音樣へ朝詣りにでも行く人が、通りすがりに死骸を見付けて、思はず大きい聲を出したが、後のかゝり合ひがうるさいので、そのまま行つてしまつたものでございませう」
茂十の話はなか/\よく行屆きます。
「それから?」
「町役人や、三輪の親分が來てくれまして、死骸は一と先づ番所へ運びました。御朱印の傅次郎といふと物々しく聞えますが、
茂十の話を聽きながら、平次は若松屋の外廻りを、グルリと一と廻りしました。店を中にして、左の方の狹い路地へ廻ると、そこは若松屋の廣い庭の外で、その邊に溝はありませんが、往來に面してゐないので、思ひの外塀は古いらしく、所々に材木屋らしくない破損があり、一ヶ所などは四尺ほどの高さの大きい割れ目を、眞新しい杉板で
その下に
「塀が少し濡れてゐるやうだな」
「子供衆の
茂十の辯解を聞き流しながら、平次は町内の自身番に向ひました。
「おや、錢形の――親分が來たといふ話は聽いたが、下手人はもう擧げてしまつたぜ」
油障子を開けると三輪の萬七が、銀張りの煙管を
「そいつは大手柄だ。誰だい、下手人といふのは?」
平次は
「雷門前の水茶屋に奉公してゐる、お篠といふ綺麗首さ。こいつは若松屋の妾のお扇とは、血をわけた姉妹だよ」
萬七の得意さうな聲に應ずるやうに、お神樂の清吉は、お篠の丸い
姉のお扇に似て、それは拔群の美しさでした。髮はひどく亂れてをり、手足にも頬のあたりにも、引つ掻きやら
「證據は?」
「あの傷だ、顏も手足も――昨夜御朱印の傅次郎と揉み合つた證據ぢやないか。そればかりぢやねえ、その時刻――
「フーム」
「この櫛を見せると、最初は自分の品ぢやねえと剛情を張つてゐたが、それぢや姉のお扇のかといふと、今度は打つて變つて自分の品だつて言やがる」
「なるほど」
「一體お扇とお篠は苦勞して育つてゐるから、姉妹仲が好かつたさうだ。お篠に言はせると、傅次郎の奴が姉にからみ附いて、折角幸せになつた姉を、もとの泥沼に引きずり込まうとするから、――毎晩若松屋のあたりへ來て、たちの惡い惡戯をすると聞いて、雷門前の家を拔け出して三間町までやつて來たといふのだ。それから傅次郎に意見を言つて、掴み合ひになり、引つ掻きや
「刄物は?」
「それがないから不思議さ。尤も大川へでも投り込めば三年搜したつて出る氣遣ひはないぜ」
三輪の萬七はこれですつかり自分だけの論理を整へ、お篠を下手人に決めてゐる樣子です。
「どうした、お篠。八五郎に頼んだ言傳ては聽いたぜ」
平次はお篠の傍に寄つて、その肩に手を置きました。
「親分さん、姉さんが可哀想でなりません。どうぞ――」
お篠の言葉は涙に消えました。姉をどうしろといふのか、平次にはその意味がはつきり掴めませんが、何やら呑み込ませられるものがあります。
「よし/\、心配するな」
平次はお篠の側を離れると、ツイ鼻の先に、投り出すやうにして、二枚
三十前後の小柄な好い男で、
傷は左の脇腹を後ろから刺されたもので、多分心の臟を一と突きにやられたことでせう。小娘の手並でこれくらゐのことができるかどうか、平次は暫らく小首を
「八、死骸の着物に
「そんなものはついちやゐませんよ。飛んだ
八五郎は縛られてゐるお篠の痛々しい姿に
丁度その時でした。
「お願ひ、私を縛つて下さい。傅次郎を殺したのはこの私です。妹なんかぢやあるものですか」
眞に一陣の
「お前はお扇ぢやないか」
それを迎へたのは、入口の近くに陣取つた三輪の萬七でした。
「どこに隱れてゐたんだ。飛んだ骨を折らせるぜ」
それに續いたのは、お神樂の清吉です。
「昔の友達のうちに隱れてゐたんです。私はこのまゝ遠くへ行つて、一生この邊へは姿を見せないつもりでした。でも、妹のお篠が傅次郎殺しの罪を
お扇はすつかり興奮してをりますが、言ふことは思ひの外筋が立ちます。地味な銘仙の袷に、黒つぽい帶などを締めてをりますが、
「お前が傅次郎か殺したといふのだな」
三輪の萬七はうさんな眼を三角にします。
「さうですとも、私の外に誰があの傅次郎の惡黨を殺すものですか」
「證據は?」
「お前さんが持つてゐる、その
「お篠も自分のものだと言つてゐるぞ」
「妹は私を
「あ、姉さん」
お篠は顏を擧げました。
「お默りよ。お前の知つたことぢやない」
「でも」
「ね、親分さん方、聽いて下さい。事の起りからみんなお話しませう」
お扇はさう言つて、ともすれば力が拔けて倒れさうになる身體を、
「――私と妹は日本橋の大きい
「――」
「それを拾つてくれたのは、情深い年寄り夫婦でしたが、六七年經つうち二人共なくなり、私と妹は人手から人手に渡つて、たうとう
「――」
「妹にも同じ
「――」
お扇の話は思ひの外に眞劍でした。平次や八五郎は言ふまでもなく、萬七も清吉も、事情の異常さも忘れてすつかり聽き入ります。
「ところが、三月前、若松屋へ奉公に來て、私は生れて始めて眼を開きました。世の中には、御主人敬三郎樣のやうなこんな立派な男があるといふことを知つたのです。私は矢つ張り唯の女だつたに違ひありません。私は旦那のお情けにすがり、その袖の下に隱れて、これから本當に良い内儀で暮したいと思ひ定めました。私は一生懸命でした。何も彼も旦那に打ち明けた上、今までのことはみんな許して頂いて、本當に生れ變つた氣になつて、どんな育ちの良い嫁にも負けないやうに、立派にやつて行かうと思ひ定めたのです」
「――」
「ところが、傅次郎は私の心變りを知つて、あらゆる嫌がらせをやり、もとの通り自分のところへ歸つて來いとせがむのです。妾奉公がいやなら、自分の女房にするとも言ひました。――でも私は傅次郎の女房になるくらゐなら、大川へ飛び込んで死んでしまひます」
さう言つてお扇はいくらか氣がさすものか、二枚
「それから?」
平次は靜かに
「惡戯や嫌がらせがあんまりひどいので、私は昨夜宵のうちでしたが、そつと家を脱け出しました。傅次郎が庭のあたりの塀の外に來て、何にか
「――」
「二人は激しく言ひ合ひました。が、言ひ合つたところで果てしの付く筈もありません。私は、どんなことがあつても、二度とお前のところへは歸らないと言ふと、傅次郎は――それぢや、とことんまでお前の邪魔をしてやる。先づ手始めに若松屋に火をつけて燒き拂ひ、それでもお前が歸らなきや、主人の敬三郎を殺してやる――と言ひます。それくらゐのことはやり兼ねない傅次郎です。私は
「それから?」
「傅次郎はニヤニヤ笑つて見てゐました。――死ぬなら死ぬがいゝ、
「どこを?」
平次は不意に問ひを挾むのでした。
「胸だつたか、どこだつたかわかりません」
「何んで刺したんだ。刄物は?」
「匕首ですよ」
「そんな物を持つてゐたのか」
「え」
「それからその刄物をどこへやつた」
「大川へ投り込んでしまひました」
「よし/\、さう來るだらうと思つたよ。ところで、場所は、店の左、庭の外の塀際だと言つたな」
「え」
平次はこゝ迄突つ込むと、二人の女にクルリと背を見せて、
「ね、三輪の親分、お聽きの通りだ。この二人にはやくざの傅次郎は殺せないよ。尤もお扇の言つたことが途中までは本當だらう。傅次郎と言ひ爭つて、口惜しまぎれに身でも投げるつもりで飛び出した――といふところまでは間違ひあるまい。傅次郎は塀にもたれて、ニヤリニヤリとその後ろ姿を見送つたことだらう」
「すると誰が殺したといふのだえ、錢形の」
三輪の萬七は
「男だよ、強い男の手だ。傷は背後から胸へ突き貫くほど深いものだ――多分、傅次郎を勝負事の怨みか何んかで附け廻してゐたやくざが、脇差で突いたのでもあらうか」
「――」
「二人の女は許してやるがいゝ。なア三輪の親分」
「いや、俺にはまだ
「さうか、ぢや俺は歸るぜ」
「勝手にしな」
「それぢや三輪の親分」
錢形平次は二人の美女に一
「親分、有難うございました。お蔭で二人は助かります」
後ろから聲を掛けて、そつと近づいて來たのは、若松屋の主人敬三郎でした。
「若松屋の御主人か、丁度いゝところだ。お前さんに傅次郎殺しの下手人を教へてやらう」
「へエ?」
キヨトンとする敬三郎をうながして、平次はもとの若松屋の塀外、傅次郎の死骸のあつた場所へ戻りました。そこは塀の内がすぐ主人の寢部屋で、傅次郎がよく
「傅次郎はこゝで、節穴からのぞいてゐるところを刺された――と三輪の親分は思ひ込んでゐるが、大嘘だよ」
「――」
「傅次郎は背が低いから、
「――」
「お扇さんは、店の左の方――庭の外の塀際で傅次郎に逢つたと言つてゐる、――訊かれもしないのに言つたんだから、嘘ぢやあるめえ。すると傅次郎が殺されたのは向うの方だ」
店を左に見て、向うの狹い路地の中へ、平次は敬三郎を誘ひ入れました。
「こゝだよ御主人、傅次郎は嫌がらせに火でも附けるつもりでこゝへ來て、お篠とつかみ合ひを始め、
「――」
「塀の中――丁度この破れ目から、力まかせに脇差が飛び出して、傅次郎の背中を突いた。不意の
「――」
「下男の茂十は昨日の夕方、落書を洗ひ落したと言つてるが、それは嘘に違ひない。近所の人に聽いて見ればわかることだ。それから板塀の血は隨分念入りに洗つたつもりだらうが、夜の仕事だから、何んとしても木目の間に沁み込んだ血は綺麗にならない。傅次郎を殺した刄物は――井戸の中か、縁の下の土の中か、いや、いや、いつぞや材木屋で、銘木の
「――」
「御主人、――これは一人の仕事にしては少し手重だから、下男の茂十などが手を貸してゐるかも知れない。呼んで訊いて見ようか」
平次の論告は明快で行屆いて、爭ふ餘地もありません。
「親分」
「待つた。うつかり恐れ入つたりすると、懷ろの
「親分」
若松屋敬三郎の突き詰めた顏に、平次は不意に
「それぢや、お扇さんと仲よく暮しなさいよ。あれは珍しい貞女だ。昔のことなんざ綺麗に忘れて本妻に直してやつて下さい。文句を言ふ奴があつたら、この平次が引受けますぜ」
平次は八五郎をうながして神田の家へ歸つて行くのでした。