八五郎の取柄は、誰とでも、すぐ友達になれることでした。長んがい
その代り、時には飛んでもない者と、すつかり
その巾着切の辰三は、江戸の巾着切仲間の一つの名物でもありました。それは巾着切の仕事を、一つの藝と心得て、決して田舍者の懷ろは狙はないといふ一つのフエーアプレーを信じ、兩國の
で、辰三のおとくいは、キビキビした江戸つ兒に限りました。それも、
從つて、巾着切とわかつて居るくせに、辰三は誰にも憎まれることなく、御上の役人からもお目こぼしで、細く長く、その指先の至藝で暮して居りました。多くは富裕な旦那方の煙草入、御内儀の
屋外泥棒も、十兩以上は打首になつた時代です。巾着切を
さて、これで、巾着切の辰公の
その巾着切の辰三が、向柳原の八五郎の宿へ、ある晩、あわたゞしく飛び込んだことからこの話が始まります。
「親分、八五郎親分。大變なことがありますよ」
窓の下から聲をかけると、二階の戸が開いて、長んがい
「何んだ、騷々しい、辰公ぢやないか」
などと、八五郎はすつかり良い心持になります。その受け渡しは、八五郎自身と平次の場合そつくり。
「ちよいと降りて下さいな。本當に大變なんだから」
「其處で話せねえことか。飮み屋から、馬でも
それでも八五郎は、帶引締めて、十手を腰に、薄寒い師走の往來に飛び出しました。仰ぐと、
「そんな間拔けな話ぢやありませんよ。殺しですよ、親分」
「何? 殺しだ」
「日頃の御恩報じ、眞つ先に親分ところに飛んで來ました。手柄にして下さい」
「よし來た、場所は何處だ」
「阿倍川町の六軒長屋の奧。殺されてゐるのは、そりや、好い女ですぜ」
兩人はもう、急ぎ足に、阿倍川町に向つて居たのです。
「唯、好い女ぢやわからねえ。身許は? 藝子か、
「あつしには何んにもわかりませんよ。フトしたことから、女の
辰三は
「フトしたことで遺書を拾ふ奴があるものか。お前のいつもの傳で、拔いた懷中物にあつた遺書ぢやないのか」
「へツ、八五郎親分はさすがに眼が高けえ。ま、そんなことかも知れませんがね」
辰三はムニヤムニヤと言葉尻を濁すのです。
「それ見ろ、
などと、八五郎は好い心持になれるのです。
「その遺書といふのを見せろよ」
「この女持の紙入ですがね」
取出したのは、緑色
「遺書はこれか」
八五郎は無造作に手を突つ込んで、半紙を小さく疊んだ、手紙のやうなものを取出しましたが、月はもう町の家並の下に沈み、店の灯も
「親分に預けて置きますから、後でゆつくり讀んで下さい。兎も角も、その紙入の中に小さい名札があつて、『阿倍川町久ら』とあつたんで、それを頼りに行つて見ると――」
「待つてくれ、その紙入に金は入つてなかつたのか」
「小判が一枚と、二分金と、あとは四文錢が少しばかり」
「何處ですつたんだ」
「相濟みません」
「詫びなんか聽き度くない、すつた場所が知り度いのだよ」
八五郎の聲は、少し
「申し上げますよ。へエ、
「
「あつしも少し呆れてゐるんで。淺草の觀音樣の境内で、お詣りした歸り、ドカンと突き當つた女があるんで」
「お前の方から突き當つたんだらう。
「相濟みません。でも、好い女でしたよ。ちよい/\見かける年増ですが、あんな好い女を見ると、ちよいと手輕なものをすり度くなります。商賣
「形見だつてやがる、嫌な野郎ぢやないか」
「へツ、へツ、馬鹿野郎になつたり、呆れた野郎になつたり、罰當りになつたり、嫌な野郎になつたり、斯う安くされちや浮ばれませんね」
「贅澤を言ふな」
巾着切の辰三に對しては、八五郎も優越感で
やがて二人は、阿倍川町に着きました。とある路地を入つて、右も左も塀と羽目、よくも斯んな隱れ家が見付かつたと思ふやうなところに、眞つ黒な家が一つ、とほせん坊をするやうに突つ立つて居るのでした。
「この家ですよ親分、阿倍川町のお
「眞つ暗ぢやないか、これぢや鼻をつまゝれても、わかりやしない」
「あつしが
「兎も角、灯をつけてくれ」
「へエ」
「火のない國へ來たわけぢやあるめエ」
「へエ」
辰三はヘドモドしながら、何處かへ飛んで行きましたが、やがて提灯を持つて戻つて來ました。
「
「よし來た」
斯うなつて來ると、誰がリードしてゐるのかわかりません。
辰三が覗いて見たといふ、窓は開いたまゝですが、入口の戸は一應締つて居りました。尤も鍵などは掛つて居ず、二人は自分の家のやうに呑氣に入つて行くのです。
家はたつた三間、裏長屋らしく見すぼらしい感じですが、中の調度はなか/\に
女が
「たしなみの良い佛樣ぢやないか」
八五郎はさすがに、これが一番先に氣がつきました。
「それにしても、好い女ですね」
辰三はさうは言つたものの、死骸といふものをあまり見たことがないせゐか、無氣味さうに尻ごみして、念入りに見ては居られない樣子です。
さう言へば、死んだ女の顏は非凡でした。蒼白く屍色を帶びて、やゝ佛作つては居りますが、それは絞殺死體によくある、むくみから來る變貌で、この女の本來の美しさは、激しい苦惱の表情の底から、無氣味なまでに人に迫るのです。
鼻は高い方、
「おい辰公、手を貸しな。この佛樣を起して
八五郎は遠のいてゐる辰三を
「勘辨して下さいよ、親分。あつしはこの上もない臆病なんで、死骸と來ては、猫の死骸を見ても、三日くらゐはうなされます」
「仕樣のねえ野郎だな」
が、八五郎が一人で骨を折るまでもありませんでした。辰三が豫告したやうに、この時どつと、近併の衆と町役人と、そして
八五郎が、明神下の平次の家へ行つたのは、その翌る日の朝の内でした。
「八が來たのか。大層な勢ひぢやないか、まだ
「驚いちやいけません。昨夜殺しがあつたんですよ。その現場へ行つて夜つぴて調べましたがね」
「待つてくれ。まさか、お前が殺したわけぢやあるめえ、
「あつしや、逃げ出しやしませんが、
「下手人の見當だけでもついたのか」
「つきましたよ。ところが、臭いのが三人もあるんで、どれを縛つたものか、親分に見て頂かうと思ひましてね」
「まア、初めから話せ。何處の誰が殺されたんだ」
平次はお勝手の方へ向いて、まだ朝飯前らしい八五郎のために、食事の用意をさせ、さて、自分で番茶などを入れるのです。
その間に八五郎は、昨夜のことを話し始めました。
「巾着切の辰三、親分も知つて居るでせう、あの變な野郎」
「知つてるよ。大した惡黨でもなく、調法だからと言つて、お前は
「大丈夫ですよ。力づくでも智慧づくでも。あつしの方が一と廻り上なんだから、イザとなれば、グウとも言はせはしません。本人も間違つて大それたことをして、萬一お召捕になる時は、八五郎親分の繩にかゝる――と
「まア宜い、それがどうなのだ」
平次に促がされて、八五郎は、昨夜の冒險を、細々と報告しました。阿倍川町のお
「何しろ、大變な女でした。
「馬鹿だなア、殺されながら裾を合せる人間があるものか。それは、死んだあとで曲者が直してやつたのだよ。流しや
「あ、成る程ね」
「感心してやがる。
「いづれ
「その他に、繁々來る男はないのか」
「有りますよ。有り過ぎて困るくらゐで」
「――」
「役者の大村喜十郎、こいつはちよいとした二枚目でさ。尤も、田舍廻りの役者で、江戸の
「それが怪しいのか」
「怪しいどころの騷ぎぢやありません。その死骸の側に蟻地獄野郎の
「その煙管を見たいな」
「念のために持つて來ましたよ。見て下さい、この通り」
八五郎は懷中から、女持見たいな、紫色の懷中煙草入を取出しました。煙管を拔いて見ると、吸口だけは銀を張つた、これも
「八、俺もお前も、尻から煙の出るほど煙草を好きだが、この煙管の煙草の詰めやうを變だとは思はないか」
「へエ」
八五郎にはまだ見當がつかない樣子です。
「こんなに固く詰めた煙草は、吸へるかどうか、試して見るが宜い」
「?」
「大村喜十郎とやら、田舍廻りでも、二枚目の好い男の役者に違ひあるまい。それが、こんなに固く詰めた煙草を、頬つぺたを
「へエ」
「これは、煙草を呑まない素人の詰めた煙草だよ、――大村喜十郎は下手人ぢやあるまいよ。もう一人の男といふのは誰だ」
平次は坐つたまゝで、もう一人の無實を救ふのです。
「もう一人の男は、鐵之助といふ遊び人で、松前鐵之助と違つて、
「それを當つて見たか」
「昨夜のうちに突きとめて、見張らせて置きました。近所の
「人殺しをした足で賭場にもぐつて、勝ち續けるのは、大した膽つ玉ぢやないか」
「そんなものですかね」
「もう一人、怪しいのがあつた筈ぢやないか、誰だいそれは」
「下女のお
「その女はどうした」
「お久良に小遣を貰つて一日のんびりと近所の叔母さんのところで遊んで來たさうで、大騷ぎの最中に、ぼんやり戻つて來ましたよ」
「もう宜い。ところで、お前は辰三に預かつた、女持の紙入を持つて居るだらうな」
「これですよ」
八五郎は又懷中を
疊の上に延べると、下手な字をクネクネと書いた、短かい文句、
わけがあつて、死なねばならぬこのいのち、あと/\のこと、よろしく頼み入り參らせそろ。 久良。
「こいつはお前男の「さうでせうか」
「その上文句も、小唄の文句のやうで、身につまされるところはないぢやないか。お前が
「だつて親分、觀音樣の境内ですつた紙入の中から出たんですぜ。巾着切にすられるのを當て込んで、
「ムキになるなよ。遺書などといふものは、遊び半分に書くものぢやねえ。ところでと、おや、おや」
平次はその豪勢な紙入を調べて居りましたが、急に居住居を直しで、外から射して來る朝の陽射しに、縫目などを透して熱心に調べ始めました。
「どうしたんです、親分」
八五郎はのぞいて見ました。
「珍らしい
「へエ?」
「人に見られ度くない物を持つて居る女などは、斯うした隱れた物入れのある紙入を持つて居たのだらう。おや、こいつは、何んか、
「――」
隱れた紙入のポケツトから取出したのは、これも薄く小さく疊んだ
心覺えのため記し置くものなり、人に勿 言ひそ。
十二月二日、 二百八十兩 (なめくぢ)
同じく、 二十七兩
二月みそか、 三十八兩
四月五日、 三百兩 (蛇)
六月十九日、 十五兩
九月十日、 六十九兩
十月一日、 百四十五兩 (蛙)
これだけのことが、かなりの達筆で書いてあつたのです。久良
十月二十日、 百五十兩 (蛙)十二月二日、 二百八十兩 (なめくぢ)
同じく、 二十七兩
二月みそか、 三十八兩
四月五日、 三百兩 (蛇)
六月十九日、 十五兩
九月十日、 六十九兩
十月一日、 百四十五兩 (蛙)
「これは大變ぢやありませんか、親分」
「大變な匂ひがするよ。それに、半紙に書いた遺書の下手な字と、この
「すると、どういふことになりませう」
「この金は、八口で、大した
「覺えがあるやうですね。去年あたりから江戸中を荒した、
「黒旋風――なるほど、それに相違あるまい。御南の書き役に調べて頂けば、すぐわかる。――あの泥棒は、五六人の人を
「氣に入らねえ曲者ですね。手向つたり、逃げ出さうとする者は、女子供の見境ひもなく斬つて捨てるといふ、恐しい惡黨で、――」
「いづれにしても、容易ならぬことだ。お前一人には任されない、出かけようか」
「何處へ行くんで」
「先づ
「巾着切の辰三は放つて置いても構ひませんか」
「斯うなるともう、巾着切などに取合つちや居られないよ。――と言つても、辰三は何にかの役に立つかも知れない」
「へエ、面白くなりさうですね」
八五郎はすつかり張りきつてしまひました。
平次は近頃になく緊張して居りました。
八五郎とつれ立つて、先づ一番に、其處からあまり遠くない、門前町の阿波屋浪太郎の家を覗くことにしました。
阿波屋の家は小さいが、よく
格子の外から聲を掛けても、なか/\人が出て來ないので、中へ入ると、
「入らつしやいませ、何んか御用で?」
四十前後のむづかしい顏をした男が、とがめるやうに、顏を出すのです。
「
八五郎は向かつ腹を立てて、喰つてかゝります。
「へエ、押賣りや押借りがはやるんで、お名前のわからないうちは、表を開けないことにいたして居りますが、――今日はうつかり表の格子を閉めなかつたので――」
男はにんがりともせずに、
「何を言やがる。押賣りや
八五郎は精一杯
「相濟みません。でも、私共は後ろ暗い稼業をして居るわけぢやございませんので」
「な、何んて言ひ草だ。お前の主人が飼つて居る妾のお
「そんなことださうで。あの女には手を燒いて居りましたから、主人も存外ホツとするかもわかりません。――丁度三四日前から、房州の方へ取立てに出かけまして、あと三日もしないと戻りませんが――」
「ちよいと、家の中を見せてくれ」
八五郎の後ろから、平次が顏を出しました。
「へエ、御覽下さるのは構ひませんが、主人が留守ですから、そのおつもりで」
「――」
平次はこの番頭の苦い顏を尻目に、ズイと通りました。まことに狹い家ですが、よく
「商賣の方はどうだ」
平次はさり氣なく訊きました。
「つぶれが多いので、引締めて居ります。新しい口は大抵お斷りで、へエ」
「至つて無人のやうだな、女手はないのか」
「主人は女嫌ひで、私と小僧だけでございます。尤も主人がお歸りになれば、私はツイ近所の自分の家へ
「小僧さんは」
「あの通り、あの縁側で
それは十三、四の
庭を覗くと、生垣に三尺の木戸があつて、嚴重に大きな錠がおりて居り、其處から家と家の間を縫つて、裏へ出られさうにも見えますが、ガラクタが一杯に
「八、歸らうか」
平次は見るだけのものを見ると、外へ出ました。
「この裏の元鳥越に、巾着切の辰公が居ますよ。
「宜からう」
グルリと町を一と廻り、丁度反對側の路地の奧に、
「辰、居るか」
八五郎が聲を掛けると、
「おや、八五郎親分、昨夜の今日で、すつかり朝寢をしましたよ。待つて下さい」
ゴトゴトとやらかして、暫らくして出て來たのを見ると、一應は顏見知りの平次も、この男の見すぼらしさに、ものの哀れを感ずる程でした。
「錢形の親分だよ」
「へ、存じて居ります。この邊に住んで、錢形の親分を知らないものはありやしません」
なか/\のお世辭ですが、
それに、今起きたばかりといふのに、惡い方の左の眼は眼やにだらけ。
「お前は旅役者の大村喜十郎の家を知つてるだらうな」
「へエ、存じて居ります。ツイ三味線堀で」
「案内してくれ」
「へエ」
「ところで、此處から裏へ出る近道はないのか」
「金貸の阿波屋の主人が、
「そいつは念入りだな、――尤も、その壁をつき拔けさへすれば、阿波屋の裏口あたりへ、バアと出られさうだな」
「冗談なすつちやいけません。家はこの通り痛んで居ますから」
壁を叩く平次の
そこから三味線堀へは一と丁場、役者の大村喜十郎の長屋はすぐわかりました。
「この奧ですが」
辰三の教へてくれた路地を入ると、これはいくらか
「私が大村喜十郎でございますが」
八五郎が訪づれると、
「私は明神下の平次だが、――親方はこの煙草入を知つてるだらうな」
「あ、錢形の親分さん。その煙草入は間違ひもなく、私の持物でございますが」
「そのお前の煙草入が、阿倍川町のお
「お久良が殺されたことは、今朝聽きましたが、その側に、私の、私の」
大村喜十郎はすつかり青くなつてしまひました。
「どうした、親方。言ひわけがあるのか」
「その煙草入は三日前、淺草の仲見世ですられた品でございます。夕方の人混みの中で、相手の人相にも氣がつきませんが」
「ところで、物事を
「へエ」
「そのお久良が殺されたんだぜ。やくざの鐵之助でなきや、お前だらう――と、驚くな、世間ではさう言つて居る」
「と、とんでもない、私にそんなことが――尤も、お久良殺しの下手人なら、私は見當が付いて居ります。――恐ろしい人間でございます」
「それを言つてくれ」
「待つて下さい。私は、それを申し上げるのは命がけで」
大村喜十郎は、入口の格子に手をかけて、用心深く外を眺めましたが、サツと顏色を變へて引つ込み、それつきり
「さア、誰がお久良を殺したのだ。それを言つてくれ」
「――」
「わけもないことぢやないか」
「――」
大村喜十郎は急に默り込んでしまひましたが、そつと婆やさんが平次に茶を出した
――今夜、そつと申上げます。――
と、怪しいこの上は、何んと説いても口を割りさうもないので、平次と八五郎は諦めて、路地の外に出ました。
「やくざの鐵之助は――」
「これも、ツイ其處で」
路地の入口に待つて居た辰三は、心得て犬つころのやうに先に立ちます。
鐵之助は喧嘩早さうな猛烈な男でしたが、昨夜すつかり儲けて良い心持になつて居り、お
「あの女は、やたらにピンシヤンするからですよ。
と言つた調子。
「お前は、阿波屋の主人と
「お
「お前は
「冗談言つちやいけません。あつしかお久良を殺すものですか。もう一と押しでなびきさうになつて居たんですもの」
斯う言つた鐵之助です。
「でも、念の爲に――」
「佐竹の
まことにざつくばらんです。
それから三人は、阿倍川町のお久良の家にやつて來ました。町役人と近所の衆が、どうやら入棺をすませ、お通夜の支度までしてくれましたが、身寄も知合ひもないものか、引取手は言ふ迄もなく、線香をあげに來る者もありません。
「元鳥越の阿波屋さんの世話になつて居ると聽いて、二度も三度も人をやりましたが、主人が留守だとかで、覗いて見るものもありません。金持などといふものは、薄情なものですね」
家主の親爺が、平次に説明するのです。それにしても、その頃の江戸の町人連は、今の人が考へるやうな
「阿波屋さんの來るのを、見かけた人もあるだらうが、口はきかなかつたのか」
「飛んでもない。隱れるやうにお通ひで、顏が合つても、そつと
近所の人達は口を揃へて斯う言ふのです。
下女のお紺は二十二三、少し
その晩平次は、大村喜十郎の、塗盆の文字を思ひ出して、三味線堀の家を訪ねましたが、何處へ行つたか、夜中まで待つても歸らず、
「何んでも、立派な旦那でしたよ。親方の迎ひに來て、つれ出しましたが、まだ宵のうちで、外は薄明るかつたやうです」
平次は、八五郎だけを殘して歸りましたが、翌る朝
「どうした、八。あの役者は戻つたか」
「戻るわけはありませんよ」
「何?」
「今朝三味線堀に死骸が浮かんだんですもの。念入りに横腹をゑぐられて」
「何んだと」
「行つて見て下さい」
八五郎は荷が勝過ぎて泣き出しさうです。
「よしツ、今日は間違ひもなく曲者を擧げてやる」
「曲者? 親分はお
「わかつて居るつもりだ。――お前は元鳥越へ廻つて、巾着切の辰三を誘つて來てくれ。下手人の顏見知りの者がほしい」
「誰です、その下手人は?」
「阿波屋浪太郎だよ」
「あツ、成る程、房州へ行つたといふのは嘘で」
「當り前だ。――ついでに言つて置くが、曲者は三味線堀の現場に來て居るに違ひない。俺が右手をあげて
「へエ?」
「縛らうなどと、手柄をあせつちやいけないよ。お前の手にをへる曲者ぢやない。いきなり水の中へ突き飛ばすに限る」
「やつて見ませう」
八五郎と平次は、別々に三味線堀に向ひました。
平次が行き着いた時は、死骸は引揚げられて、土地の御用聞達が彌次馬を追つ拂つて居ります。蠅のやうな群衆は、役者の水死を珍らしいものでもあるやうに、追へども追へども去りません。
暫くすると、八五郎と巾着切の辰三が來ました。
「親分、見當がつきましたか」
八五郎はキヨトキヨトして居ります。大村喜十郎の死骸よりも、平次が指揮する曲者の顏を一刻一瞬も早く見付け度い樣子です。が、平次はなか/\定めの合圖を送りませんでした。町役人や、土地の御用聞を相手に、全く無駄と見える
「親分」
八五郎は我慢のならない聲を掛けました。どう見たところでその邊には、下手人と思はれる阿波屋浪太郎の姿はありさうもなく、心細いことに、彌次馬は次第に追ひ散らされて、八五郎の傍には、誰も居なくなりさうです。いや、巾着切の辰三は、薄馬鹿見たいな顏をして立つて居りますが、これが、好い男の金持の阿波屋浪太郎でないことは、隣り町に住んでゐる八五郎がよく知つて居ります。
「あツ」
平次の手が頭の上にあがりました。八五郎の傍に曲者が居るといふ合圖です。が、左右前後を見廻しても、曲者らしい者は一人も居ず、辰三がたつた一人、
「八、馬鹿ツ」
平次の叱咤が耳許に聽えます。八五郎の頭には、初めて智慧が
「野郎ツ」
八五郎は
「あ、ブブ、ブ」
どぶんと水に落ちたのは、突いた方の八五郎で、危ふく身をかはした辰三は、平次の方をチラリと見ると、サツと逃げ出すのです。
「待てツ」
珍らしく平次の手から錢が飛びました。その錢は辰三の左の頬を打つと、辰三は思はず、惡い方の眼をクワツと開いて、
「馬鹿
平次と群衆が、その跡を追つたことは言ふまでもありません。三味線堀は幸ひに淺く、彌次馬に手を引かれて、
「親分」
「八、宜い
「親分は」
「俺は他に見度いところがある」
辰三の家を彌次馬と八五郎に任せて、平次は表通りを大廻りに、反對側の門前町の、阿波屋の店へ入りました。
「あ、錢形の親分」
番頭の金三郎の驚くのを、眼で
「
その前に立ち
「何をツ」
それは激しい爭ひでした。が、豫てこの大捕物を豫期した平次は、久し振りの錢を飛ばして、その匕首を封じ、大骨折で組敷いたことは言ふまでもありません。
「あ、こんなところに拔け穴があつたのか」
その時、壽老人の幅の後ろから、遲まきの八五郎が顏を出して、まだ夢から覺めないやうに、眼などをこすつて居るのです。
× × ×
阿倍川町のお
黒旋風の辰三は、大村喜十郎と仲のよくなつたお
阿波屋浪太郎は辰三の變裝で――いや、辰三が浪太郎の變裝と言つた方が適當でせう。繃帶で膝を卷いて
大村喜十郎が殺されたのは『阿波屋浪太郎と、巾着切の辰三と同じ人間』と見破つて、それを平次に教へようとしたのを、辰三が
辰三が、弱氣の巾着切と見せかけたのは、大盜の正體を隱すためで、善人らしく立廻つて柄にもない僞善的なことをするより、小盜人の