「又出ましたよ、親分」
八五郎は飛び込んで來るのです。
一月も末、美しく晴れた朝でした。平次はケチな
プーンと味噌汁の匂ひがして、お勝手では女房のお靜が、香の物をきる音までが、
「何が出たんだ。お化けか、山犬か、それとも――」
「辻斬ですよ、親分。暮からこれで五人目だ。――秋から數へると何人になりますか」
「矢つ張り、辻斬か。憎いな」
平次はこの意味のない
「今朝になつて、新し橋の
「
「それに憎いぢやありませんか。太左衞門が無盡で取つた五十兩を、人が危ないととめるのも構はず、氣丈な
「それぢや
「この樣子ぢや、柳原を通る人がなくなりますよ。名物の
「御愁傷樣見たいだ。差當り御客筋のお前は淋しからう」
「冗談言つちやいけません。あつしはそんなものを口惜しがつてるわけぢやありませんが、新し橋を渡ると向柳原で、あつしのお膝元でせう。あんなところで辻斬を開帳されちや、あつしばかりでなく、親分の名前にも
「おや、ゆすりがましくやつて來やがつたな。柳原の辻斬が、俺にまで
輕口であしらつて居りますが、柳原の辻斬の惡どさには、橋一つ越した明神下に住んでゐる平次も、煮えこぼれるやうな
最初は人を斬るのが面白かつたらしく、武家から始まつて町人に及び、暮近くなると、これは少ない例ですが、女子供まで斬られました。江戸の町人達の中には、女や子供が、暗くなつてから、獨り歩きするといふ習慣はなかつたのですが、小買物や錢湯などには、隨分一人で出かけることもあり、柳原の辻斬はその
尤も、最初のうちは、手當り次第に人を斬るだけでしたが、後には斬つた上に懷中を拔くやうになりました。
「何んとかして下さいよ、親分。あんな
八五郎は此處を先途と
「お前に言はれるまでもなく、暮から隨分骨を折つて辻斬野郎を
「何んとか手はないものでせうかね、親分」
「
「口惜しいぢやありませんか」
八五郎が口惜しがる以上に、平次も齒ぎしりして居たのです。
「尤も、辻斬野郎を縛る手は一つだけはある。これは確かな
「その
八五郎は一生懸命でした。全く柳原に辻斬がある毎に、向柳原の住人八五郎は、人樣に顏を見られるやうな氣がして、天道樣の下をヌケヌケとは歩かれないやうな氣がするのでした。
「わけはない、
「へエ、囮をね」
「誰か、斯う、金がありさうで、弱さうな人間に化けるんだな。――大きな財布で懷ろを
「宜い
「お前だよ、八。打つて付けぢやないか、何處かのんびりとして居るし、柄が大きくて斬りでがありさうで」
「ブルブル、御免
八五郎は肩を縮めて、ブルンブルンと身顫ひしました。
「丁度はまり役だがな、いけないかな」
「そいつはいけませんよ、ガン首だけは掛け換へがないんで」
「そんな
「どんな術で?」
「俺が囮になつて、お前が捕方に廻るのさ。去年の暮の素人芝居の與一兵衞の拵へだ、飛んだ似合ふぜ」
「それはいけませんよ、親分。首を斬られたらどうするつもりです」
「お前が嫌で、俺が嫌ぢや、何處へも頼みやうはないぢやないか」
「やりますよ、親分、あつしがやりや宜いんでせう。なアに、
斯う言つた八五郎です。
「安心しなよ。辻斬がそんなに怖かつたら、首へ
「そんな間拔けなものを、首へはめられますかてんだ。――大丈夫ですよ。唐犬の首輪を用意するくらゐなら、ガン首の掛け換へを安く仕入れて來まさア」
「その氣持だよ」
八五郎が
「親分が見張つて下されば、なアに、辻斬野郎が二三十人來たつて驚くこつちやありません」
親分錢形平次といふ、荒神樣が付いて居ることを、八五郎は漸く思ひ出したのでせう。
「辻斬のよく出るのは何處だ」
平次はいよ/\作戰に取りかゝりました。
「何んと言つても、新し橋から和泉橋の間ですね」
「あの邊に、お前の
「呑み屋と髮結床なら門並知つてますが」
「それから場所柄、夜鷹も皆んな馴染だらう」
「そんなものを相手にやしませんよ。あつしの相方は入山形に二つ星とまでは行かないが、
「わかつたよ、もう。
「へエ、やつて見ませう。神田から日本橋へかけての下つ引を集めると、二十人くらゐにはなります」
「誰にも言ふな、この辻斬退治は、俺とお前と二人だけといふことにして、仲間にも人數を洩らしちやならねえ」
「承知しました」
「それから、新し橋の邊に足場がほしい。床屋や呑み屋は人の目に立つだらうから、しもたやが宜いな。辻斬狩りをやるんだから、辻斬なんか屁とも思はない人間でなきや、騷いだり、あわてたりすると困る」
「お玉ヶ池が近いから、あの邊は妙に浪人者の多いところですよ」
「そのうち、お前の
「三人や五人はありますよ。先づ、腕の良いのでは、大路地の
「あんまり強いのは、自分が飛び出さうとするから困るぜ。――それに辻斬の本人だつたりしたひにや、此方が引つ込みがつかなくなる」
「さうですか、――岩井町の
「聽いたやうな名だが」
「金があつて、ちよいと好い男で、
「大層肩を持つぢやないか――そんなのは辻斬野郎と
「訊いて見なきやわかりませんが」
「外に手頃で、貧乏で、あんまり強くなくて、喜んで家を貸してくれさうなのはないのか」
「あ、ありますよ。すつかり忘れて居たが、豐島町の手習師匠進藤孫三郎先生、若くてわけ知りで、學があつて、足が惡い。これなら申し分はないでせう。その上貧乏で、妹の
「八五郎らしいな。よく、そんなところへ目を付けやがる」
「それに、
八五郎は獨りできめてしまひます。
それから二三日、平次は柳原の地勢と、あらゆる條件とを調べ拔きました。大路地の
三人目の進藤孫三郎は、如何にも柔和な學者でした。平次が八五郎を案内にやつて行くと、豐島町一丁目の深々とした路地を入つた奧、寺子を歸して妹の
「それは/\。親分がわざ/\のお出で、
若い進藤孫三郎は、へり下つた態度で斯う言ふのです。二十七八にもなるでせうか、青白くて骨細で、如何にも
妹の毬代といふ娘は、十七になつたばかり、これは八五郎が言ふやうに、全く素晴らしい娘でした。陰影の多い細面で、頬から顎へかけての丸味が、僅かに十七娘の柔かさを持つて居りますが、多年の貧苦に
「それでは、何彼の掛け引きに、お宅を拜借いたします。第一八五郎の奴が、家から與一兵衞の姿なんかでは出たくないと申します。萬一町内の若い娘達にでも逢つちや、引つ込みがつかないと申すのです」
「無理もありません。此處を
「さう願へると有難いので」
それは正月の
「こいつを着るんですかね、へツ」
八五郎は文句を言ひながら、野暮つたいドンツクを着て、高々と尻を端折り、顏を包んで首から財布を下げました。中に入れたのは破れ鍋を碎いたのを一と抱へほど。
「これだけありや、小判にすると大した
「辻斬は掛け合ひ事ぢや間に合ひませんよ。闇から飛び出して、いきなりサツと――宜い心持ぢやありませんね、十手だけは持たして下さい。いざとなれば」
「安心しなよ。お前が十手を振り廻す前に首の方が先に飛ぶ」
「
支度が出來上がると、八五郎は早速この仕事に取りかゝりました。頭巾を冠つて、綿入を重ねて、少し猫背になつた姿は、平次の拵へが良かつたので、なか/\金のありさうな隱居に見えるのでした。
「此處から兩國の方へ行つて、すぐ引返して來い。そして新し橋を通り拔けて、
「へエ、それぢや行つて參ります」
「親分はどうなさるんで?」
進藤孫三郎は心配さうに平次に訊ねました。
「私が一緒に歩いちや、いかな辻斬野郎でも遠慮をするといけません。私は八五郎の行つた方とはアベコベに、筋違見附の方へ行つて、あの邊で八五郎を待つとしませう」
「私もお手傳ひすると宜いのだが、浪人と言つても、ろくに劍術も知りません。その上、足が惡くて、却つて御迷惑でせうから」
「いや、もう、その
「御免を
平次の出て行く姿――八五郎と反對に、
遠くの方から、火の用心の拍子木、近頃は物騷なせゐか、この邊は
八五郎はその
「誰だい、其處から覗くのは」
この寒空に格子の中では雨戸を少し
その側には、妾のお
求女の側に引つ付いて、横つ坐りになつて、赤い裾をチラチラさせる風情は、劍術よりは色事の方が達者さうで、二十三四のこれは大した年増です。
「向柳原の八五郎でございますよ」
八五郎はヌケヌケと名乘るのです。
「何んだ、
「そんなわけには行きません。今晩は辻斬狩りで」
「何? 辻斬狩り? そいつは怖いぞ。あの辻斬は餘つ程の腕きゝだ」
「それを生け捕つて、御褒美にあり付かうと思ひましてね。――懷ろへ、五十兩といふ大金が入つてますよ。笹野の旦那から、軍用金を拜借したんで」
「アラ、まア素敵ねえ。――少し貸してらつしやいよ」
女は
「
「九頭龍の旦那なら斬られても本望で」
「馬鹿な奴だ」
「ぢや御免下さい。これから柳原を一と廻りしますから」
八五郎は言ひ度いだけのことを言つて筋違見附の方へ
暫らく經つて岩井町の桃谷鬼一郎の家へも、
それから、柳森稻荷の後ろに出て居る、
細川長門樣の屋敷前へ來ると、人通りは全く絶えました。八五郎はこの邊まで來ると、先刻の醉ひが大いに發したらしく、一歩は高く一歩は低く、何やら調子の外れた小唄も出て來ます。
「あツ、危ねえ」
八五郎は飛び退りました。闇の刄が、柳の蔭から、サツと浴びせて來たのです。氣合をかけるとか何んとか、斬るにも突くにもきつかけのあるものですが、斯う不意をくらつては、大醉した八五郎、ひとたまりもあるまいと思ひきや、實に器用に、サツと身を
「名乘れツ、卑怯だぞツ」
八五郎の聲は寒天を
「――」
曲者は
「待てツ」
八五郎は恐ろしく活動的です。
「親分、
後ろから飛んで來たのは、これが
「八、提灯を持つて來い。顏が見度い」
なんと、曲者を押へて居る頭巾にドンツク姿は、八五郎ではなくて、親分の錢形平次ではありませんか。
平次と八五郎は、途中で
平次が曲者を押へて居る間に八五郎は何處かへ飛んで行きました。その間に平次は、懷中の捕繩を出して曲者を縛らうとしましたが、曲者の身體が、如何にも無抵抗なのと、その手足の柔かいのに首を
暮から始まつて、幾人かの人を斬つた曲者――その中には相當の腕のある武家もあり、ヤハな腕前では、あの
曲者の刀は何處へ抛つたか、それは見當もつきませんが、もう得物も何んにも持つて居ないことは、平次の手さぐりでもよくわかります。それにしても、この曲者の手の柔かくしなやかなこと、ギユツと掴んだ平次の
それに、曲者は、平次の膝の下に敷かれて泣いて居る樣子です。數人とも知れぬ人を斬つて、泥棒まで働いた、兇惡
「親分、
一丁も先から提灯を振り照して八五郎が我鳴るのです。
「八、急げツ」
八五郎は平次に聲をかけられると、急に
「あア、危ねえ」
八五郎は尻餅をついて、折角の
提灯は燃えなかつたのは仕合せでしたが、その代り一ぺんに消えてしまつたのです。
「あツ」
平次も油斷でした。――いやわざと油斷をしたのかもわかりません。曲者を押へた手が
「何んといふことだ。八」
平次はもう小言を言ふ張合ひもありません。少しの油斷で、折角手捕りにした、辻斬の曲者を逃してしまつたのです。
「親分が
八五郎は照れ隱しに、財布の中の錫の
「俺が同志討をするものか。最初の財布を抛つたのは俺だが、曲者が倒れる時、自分の身體の下敷にしたんだらう。提灯を持つて來られちや
「大變な曲者ですね」
「尤も、思ひの外弱い曲者だつたよ」
「へエ、あの辻斬野郎がね」
「お前に萬一の
「へエ、そんな事があるんですかね。十人近くも人を斬つた辻斬野郎が、このあつしより弱いなんて。へエ、――さうして見ると、あつしの腕前も滿更ぢやありませんね、親分」
「誰もお前を褒めてはしないよ。曲者は、若い女だつたのさ」
「女?」
「あの辻斬野郎が、若い女だつたのさ。間違ひはないよ。お前見たいに嗅ぎ廻したわけぢやないが」
「へエ、驚いたな。どうも」
「灯が欲しいな。――提灯に
「駄目ですよ。辻斬騷ぎが始まつたと見ると、掛り合ひが怖いから、近所の家は
少し遠くから灯を借りて來ると、平次は暗い往來へ四つん這ひになつて、曲者の殘した品々を集めて居りました。
「何があるんです? 親分」
「小判と見せかけた
「おや、此處に
八五郎は道の端つこ、雜草の中から銀の
「良いものが手に入つた。――定紋だとモノを言ふが、九葉
曲者の落したのはそれつきり。でも、少ない得物ではありません。
「誰でせうね、親分。女の辻斬は?」
「考へて見よう。――曲者は淺草橋から、
平次はさう言ひながら、新し橋の
「それに、少しも遠走りをしないのはどう言ふわけです。辻斬の居職なんてのは聽いたこともない」
「辻斬の居職は良いな。――ところで、あの腕前だ。十人も斬つて居るが、皆んな一と太刀でやられて居る。据物斬の名人だ。女や子供に出來る藝ぢやない。町木戸を
「だからあつしは、手習師匠の進藤孫三郎と、二人の浪人者が怪しいと言ふんで。九頭龍
「だが、
「あの九頭龍求女の妾のお
「男を
「あつしだつて撫斬りされ度くなりますよ。膝を崩して、求女と一緒に大ヘベレケになつて居る圖なんてものは?」
「酒を呑んで居たのか」
「大分醉つて居ましたよ」
「では、その女は辻斬ぢやない。辻斬は醉つて居なかつた」
平次はその辻斬女の頭巾を脱がせようと爭つたとき、酒の匂ひの代りに、
「でもね、親分。醉つた振りをして、實は酒なんか呑んで居なかつたといふ
八五郎は
「――」
「あつしが行くのを前から知つて居て、酒を呑んだやうな顏をして、頬に紅なんか塗つて、芝居をして來たとしたらどんなもので」
「待つてくれよ、八。お前にしては行屆いた考へだが、お前が行くといふことが、前からわかつて居るわけはなし、酒の好きな人間が、當てのない人間の覗くのを待つて、頬に紅まで塗つて、呑まずに醉つた振りをして居るなんてことは、一寸出來ない藝當だせ」
「さうでせうか」
「もう少しモノを當りまへに考へることだな。――もう一人の浪人の桃谷鬼一郎といふ人のところには女は居ないのか」
「三四人居ますよ。ヤツトウのうまい女が居るといふ話はきかないが――」
「三四人も居る中から、辻斬が一人脱け出して俺に斬りかけるのも變だ。手習師匠の進藤孫三郎さんのところは?」
「あの通り、可愛らしくて綺麗な娘が居ますが、あの
「そのまさかが危ない。行つて見ようか」
二人は
「あれは何んだ、八」
平次は路地の中ほどに立止りました。突き當りの進藤孫三郎の家から、聲は殺して居りますが、容易ならぬ凄まじい物音がするのです。
「開けて見ませう」
八五郎は飛び付きましたが、雨戸は釘付けにでもされたやうに、八五郎の馬鹿力でもビクともしません。
「何をマゴマゴして居るんだ。ドンと體當りを喰はせろ」
「合點」
八五郎は、こんなときには、恐ろしく役に立ちます。
「アリヤ、リヤ」
と突き當ると、雨戸は二枚モロに飛んで、恐ろしい情景が、二人の眼の前に展開するのです。六疊の眞ん中には、若い主人の進藤孫三郎が、紅に染んで倒れ、その傍には、隱居の葉賀井
老いたると若きと、皺だらけの白髮と、張りきつた若い娘と、その爭ひは深刻でした。
が、平次と八五郎が飛び込むと、隱居の葉賀井兼齋も、力及ばずと觀念したか、短刀を娘に任せて、ガツクリと疊に手をつくのです。
「これは、親分達、見苦しいところを」
さう言つた聲は激情と爭ひに
「どうなすつた、御隱居。――これは」
平次も
「生恥を
「いえ、お父樣ぢやございません。辻斬は現にこの私。
娘の毬代は、必死となつて、父の言葉を
「止して下さい、御隱居。いや、お孃さんも、つまらない
「――」
「言ひ難ければ、あつしから申しませう。進藤孫三郎さんは、本當の子ではなく、御隱居の養子でしたな? その養子の孫三郎さんは、
「――」
「その腕に慢じて、人を斬つて見度くなつた。
「孫三郎は、大變氣性の
隱居の兼齋は、ほぐれるやうに話し始めたのです。
「業が上達すると、ツイ人を斬つて見度くなる。一と通りの學問をさせた筈だが、孫三郎は氣性が激しい上に、足が惡くて出世の途を絶たれ、世を
「――」
葉賀井兼齋は押入から手文庫を取出すと、それをグワラリと開けて、二三百もあらうと思ふ、小判を疊の上に並べるのです。
「孫三郎の惡業は果てしもありません。が、本人は少しも惡いことをして居るとは思はず、無用の殺生を、遊びのやうに思つて居るのです。この世に生きて居ても、大した役にも立たぬ人間――無用の祿を
「金は何をするつもりでした」
「私もそれを申しました。金の
人の血を流すことを、何んとも思はない殺人鬼、背に迫る八大地獄も知らずに、進藤孫三郎の増長は目に見えるやうです。
「それが、今晩。八五郎親分。が、
平次の膝に組み敷かれたのは、世にも可愛らしい娘の毬代が、許婚の孫三郎を救ふためとわかつて、八五郎は妙に感に堪へて、首を
「――」
その傍でシクシク泣いて居るのは、今はどうにもならない毬代の哀れな姿でした。
「親分、もう戻りませうよ。――あつしはもう、腹が
などと、八五郎もすつかり平次のやり口を呑み込んで、腹の減つたことにして平次に引揚げをせがむのでした。
「待てよ、八。辻斬の始末はどうなるんだ」
「辻斬の曲者は、腕の良い人に斬りかけてあべこべにやられて死んでしまつたことにして、それで市が
「いえ、腕の良い人に斬りかけたわけぢやございません。私もこの通り足腰の不自由な年寄りですが、この上に孫三郎に惡業を積ませ、娘にも苦勞をさせ度くないと思ひ、
兼齋が重ねて言ふのを、
「もう宜い。八五郎が折角、あんなに言ふんだから、あつしはこのまゝ歸るとしませう。――辻斬が押し込んで、孫三郎を殺したとでも屆けなさるが宜い。――盜みためた小判は、こいつは不義の寶だ。斬られたり盜られたりした人の身内に返させませう――御隱居さん、短氣を起しちやなりませんよ。お孃さんが可哀さうだ」
「有難い、親分」
「お孃さんも
平次は八五郎を
「親分、斯う若い娘に拜まれると惡い氣持はしませんね」
「馬鹿野郎、俺を與一兵衞にして、良い心持になりやがつて」
二人は明神下へ寒々と急ぐのでした。
「親分、この辻斬は、わけもなく片付いてしまつたが。――こいつばかりは明けつ放しの、
トリツクのない事件、それは八五郎にしては物足りなかつたに違ひありませんが、
「人間の心といふものは、解いても解ききれない謎だらけぢやないか。無暗に人を斬り度くなる奴も謎なら、惚れた男の惡業まで助けようとするのも女心の謎だ。お前なんざ、その謎が解けねえから、何時までも獨りで居るのさ」
平次は年寄り染みたことを言ふのでした。明神下の家で、夜つぴて平次を待つて居る、女房の心持も、八五郎から見ると謎のやうなものです。