「親分、犬が女を殺すでしょうか」
淡雪の降った朝、八五郎のガラッ八は、ぼんやりした顔で、銭形平次のところへやって来ました。
「
「そんな事なら不思議はないが、女が
「そんな馬鹿なことがあるものか。犬が匕首を振り廻すなら、猫は出刃庖丁を持出すぜ」
「ね、誰だって一応はそう思うでしょう」
「一応も二応もあるものか。一体、どこでそんな騒ぎが持ち上がったんだ」
「行って見ましょうか、親分。犬が匕首を振り廻すような御時世じゃ、うっかり江戸の町は歩けねえ」
「よし、案内しろ。どこだ」
平次はもう身支度をしておりました。変った獲物に誘われる猟犬の本能のようなものを持っているのでしょう。型破りの事件があると、じっとしていられない平次だったのです。
「根岸で」
「
「へ、へッ、まア、そんなもので――」
「馬鹿野郎。俺をぺてんにかけておびき出す気だろう」
「とんでもない、親分。それほどの悪気があるものですか、――でも、こうでも言わなきゃ、親分が
「…………」
「三輪の親分は、番毎こっちの縄張荒しをするのに、親分は浅草から上野一円と聴くと、どう口説いても手を出さないじゃありませんか」
「…………」
「たまには三輪の親分の鼻も明かしてやって下さいよ、親分」
ガラッ八はそんな大それた事を考えていたのでしょう。が、平次は捕物競争などに乗出そうともしません。
「いい加減にしろ馬鹿野郎。三輪の兄哥は三輪の兄哥、俺は俺だ」
「人柄が違い過ぎる――って世間でも言いますよ」
「止さないか、馬鹿野郎」
「へッ、へッ、へッ、何の因果か、その馬鹿野郎ッ――があっしの大好物で、親分にそうやられると、胸がスーッとしますよ。今朝はもう三服盛って貰ったわけで」
ガラッ八の八五郎は、それほど平次に心服しているのでした。
「呆れて物が言えねえ。俺の小言を
「でもね、親分。――犬が女を殺した事だけは本当ですぜ。上根岸の寮で、元
独り言ともなく、聞えよがしに言うガラッ八の調子に、
「何だと八。
平次は思わず開き直りました。車坂の溜屋幸七は、平次とは手習仲間、
「へッ、そのお咲というのは平家名で」
「何だと?」
「薄雲が源氏名なら、元服してお咲は平家名じゃありませんか」
「無駄を言うな。――とにかく、溜屋の寮じゃ知らん顔もなるめえ。ちょいと行ってみようか、八」
「お
「何だと?」
「なアに、三輪の親分の顔が見てえという話で――」
「止さねえか、馬鹿野郎」
「へッ、これで葛根湯が四服目だ」
手の付けようがありません。
神田から上根岸まで行くうちに、春の淡雪は大方解けて、足駄のめり込むような凄まじい
溜屋の寮へ着いたのは、かれこれ
「お、銭形の親分、ちょうどいいところへ――」
主人の幸七は奥から飛んで来ました。三輪の万七にさんざん油を絞られているところへ、寺子屋友達の平次がやって来たのは、地獄で仏の心持だったでしょう。
小柄の三十前後、大店の若主人らしい、渋好みの
「とんだ災難だったね、溜屋」
「三輪の親分は、犬が人を殺すはずはないから、家に居た者に違いない。家に居た者というと、下女のお
「なるほど」
「ところが、
主人幸七が説明するまでもなく、去年の暮、三百両も積んで、お咲の薄雲を引かせ、ここに手頃な寮まで建てて囲った始末は、当時本妻のお定が
「銭形の。――幸七の言うのは尤も至極に聞えるが、近頃お咲に他の男が出来たという噂は、神田までは響いちゃいまいネ」
三輪の万七は、隣の部屋から皮肉なことを言っております。
「そんなはずはありません、お咲に限って――」
幸七は
「勤めをした女だ、そんな事が判るものか。――それを亭主のお前が知らなかったはずもない」
三輪の万七は鼻であしらいます。お咲に男のあったのを、幸七が知っていたか、知らなかったか、そんな微妙な関係が、今となっては重要性を帯びて来ているのでしょう。
「三輪の兄哥、とんだ出しゃ張るようだが、幸七とは餓鬼のうちから懇意な仲だから、悪く思わないでくれ。決して兄哥の仕事を邪魔する積りじゃないから」
平次は素直に打ち明けて、自分の立場を諒解して貰う積りでしょう。
「そいつは知らなかったが、――いいとも、外に下手人がありようはずはないから、気の済むまで見て行ってくれ」
三輪の万七は、もう幸七を縛るに決めている様子です。
「それじゃ――」
平次は幸七に案内させて、奥へ入りました。続いてガラッ八の八五郎。これは
縁側へ顔を出した平次――。
「あ、これはひどい」
さすがに顔を
寝巻の上に引っかけたらしい
「刃物は?」
平次はすぐそれに気がつきました。
「どこを捜してもない、――刃物がありゃ下手人は挙がったも同様さ」
三輪の万七も後ろから顔を出します。
「…………」
平次は黙って死骸を起し、
「下から突き上げた傷だ。――女の胸を下から突き上げるのは、子供か、一寸法師か――」
「犬だろうよ」
三輪の万七はニヤリニヤリと笑います。
このお咲殺しの一番不思議な点は、殺した刃物が紛失しているくせに、外から絶対に下手人の入った様子のないことでした。
「起きたのは
思いのほか達弁にこう語り進みます。二十二三の出戻りだという醜い女。給金をがっちり溜め込むより外には望みがありそうもない人柄です。
「人間の足跡はなかったんだね」
と平次。
「表にも、裏にも、人間の足跡なんかありゃしません」
「雪は宵から降ったはずだ」
それみろと言った調子は三輪の万七です。
「番頭さんが泊ることにしたのは
お金は
「犬がどうかしたというのは、一体何の話なんだ」
平次は最初の疑問に返りました。ガラッ八の報告にも、万七のイヤがらせにも、犬の話が付き
「裏口には、犬の足跡がありましたよ。向うの往来から入って来て、何か食物を漁って帰ったんでしょう」
「その犬が人を殺したというのか」
平次もツイそんな事を言う気になったのです。
「でも、犬の足跡に少し血のようなものが
「フム」
平次は一ぺんに茶かし気分を封じられてしまいました。犬の足跡に血が付いているとなると、これは考え方を立て直さなければなりません。
「それにしちゃ、縁側とお勝手は離れ過ぎていないかな」
と平次。
「軒の下をグルリと廻れば、足跡は残らないよ」
三輪の万七も、犬の足跡には一脈の疑いを持っている様子です。
「雪が消えても、庭があの通り霜解けでひどくなっているから、犬の足跡ぐらい残りそうなものじゃないか」
平次は裏口から出て一応その辺を見廻しました。
「庭じゃありませんよ。犬は砂利や炭俵を敷いた、お勝手口の道へ入って来たんです」
とお金。
「たいそう行儀の良い犬だね」
平次はそう言いながら、側に引っついて居る八五郎に眼くばせしました。犬の足跡のあったあたりを、往来へ出てみろという謎でしょう。
「銭形の、――下手人は犬の背に乗って逃出したとでも思っているのかい」
三輪の万七はまたイヤ味を言います。
「いや、人間を
「…………」
平次は本当にそんな事を考えているのでしょうか。犬が兇器を持って逃げるといった、そんな都合の好いことが本当にあるものでしょうか。
「雨戸の締りは忘れるような事はあるまいね」
平次は重ねてお金に訊ねました。
「そんな事はありません。私が締めた上、御新造さんが一々見廻りますから」
「外からコジ開けた様子のないところを見ると、お咲が自分で開けたんじゃないかな」
「そうかも知れませんよ。雪の降るのを、宵から大変気にしていた様子ですから、小用に起きたついでに空模様でも見たんでしょう」
お金はなんのこだわりもありません。とにかく、雨戸は一枚開いたままだったとすると、お咲が開けて外の下手人を呼込んだか、家の者がお咲を殺して、刃物を隠した上、下手人が外から来たように見せかけるために、雨戸を開けたか、――でなければならないわけです。
「どっちにしても、正面から
三輪の万七の言う結論は、今のところ間違いのないことでしょう。
主人の幸七は夜中から先は何にも知らず、小僧の角太郎は寝間が遠い上に大寝坊、泊り合せた番頭の徳兵衛は、
「御新造様が、二本つけて下すったんで、すっかり好い心持に寝込んでしまいました。今朝の騒ぎを聴いて飛起きるまで、何にも存じません。へエ」
少し光って来た、四十男の前額を撫で上げます。
「二合は御馳走過ぎるね」
平次はそんな事まで気を配りました。
「へエ、御新造様は、すすめ上手で、へエ」
元が元だから――と言いたそうなのを、平次は見て取らずにいません。
不意に泊り込んだ奉公人に、二本の酒を振舞うのは、お
その晩お咲は、何か企む気でもあったのでしょうか、平次は万七と顔を見合せました。その時、
「外は往来だ。江戸中は愚か、京までも長崎までも続きますぜ。親分」
ガラッ八はそんな事を言いながら帰って来たのです。
「長崎から人殺しが来るかよ。馬鹿野郎」
「へエ――」
「近所にどんな家がある」
「裏の方は荒物屋に酒屋に、畳屋、それからしもたやが二三軒、寮が二つ三つ」
「表は?」
「匕首を
「犬が匕首なんか背負って逃げるものか。
「へエ――」
ガラッ八はいきなり縁と沓脱の御影石の間に首を突っ込みました。
「あるだろう」
「あったッ――親分は見透しだね。沓脱の後ろを引っ掻くと、柔らかい土の中へ柄先を一寸も打ち込んでありましたよ。こいつは
ガラッ八は裏へ廻って物置から鍬を持出すと、沓脱の石を
「匕首を土の中に打ち込んだ石を、沓脱の傍へ放って行くなんか、あんまり良い智恵じゃないよ――ここ掘れワンワンをしているようなものさ」
平次は事もなげですが、三輪の万七は半日探してこれが見つからなかったのです。
「もっとも、沓脱の下から刃物が出たんだから、下手人は犬でない事も確かさ」
万七はそう言いながら、主人の幸七の縮み上がった顔を見やります。
ガラッ八が掘り出した刃物は、夜店物の匕首で、その頃はどこにでも一本や二本は転がっていそうな品。血と泥とに
ちょうどその時、
「とんだことでございます。――御新造様がお気の毒なことで――何か御用があったら、おっしゃって下さい。役には立ちませんが――」
お勝手口へ顔を出したのは、二十七八のちょっとした男。幸七の
「重吉さんか、――わざわざ有難う、親方へ宜しく言って下さい」
幸七は最初の見舞客へ、嬉しそうに答えました。
「あれは?」
三輪の万七は、どんな事でも逃すまじき顔色です。
「表の植木屋の
その問答を
「昨夜この辺に何か立廻らなかったろうか」
「へエ――、何か来たかもわかりませんが、何分あの雪で、宵寝をしてしまいましたんで」
重吉は少し迷惑そうです。
「殺されたお咲さんは、近所の評判はどうだったえ――」
「旦那に聞えちゃ悪うございますが、
「なるほどね」
「それに商売人上がりで」
「お前さんは、お咲さんの昔のことを知っているのかい」
「若い男で薄雲を知らない者はありゃしません」
「話は少し
と平次。
「用心のよくないところですから、三軒に一匹の割で犬を飼ってますよ」
「今朝、血だらけの犬を見なかったかい」
「それは知りませんが――」
平次の手繰った糸は、ここでプツリと
三輪の万七が、今にも主人の幸七を縛りたそうにするのを、平次はようやくなだめて帰した後、とにもかくにも、ガラッ八をつれて、車坂の溜屋の本店へ行ってみることにしました。
一応
大番頭の徳兵衛は根岸に泊ったのですから、あとは、女房のお定が疑えば疑える唯一の人間です。しかし、車坂から上根岸まで、雪の中を飛んで行って、足跡をつけずに、寮へ忍び込めるとは想像もつきません。
「女の手並じゃないな、八」
独り言ともなく言う平次。
「軽業師ならどうです、親分。向うの家から綱を渡して、その綱を渡って忍び込めば、雪の上へ足跡が付かないわけで――」
ガラッ八は奇想天外なことを言い出しました。
「その綱を誰が掛けたんだ」
「へエ――」
「後で外したのは誰だ」
「なあ――る」
どうも他愛がありません。
「そんな馬鹿な事を考えるより、ちょっと吉原へ行ってくれ」
「お安い御用で」
「何がお安い御用だ。――下手に十手なんか突っ張らせて行くと、物笑いになるよ」
「吉原へ行って何をやらかしゃいいんで?」
「薄雲の客を洗って来るんだ。去年の秋まで勤めをしていたんだから、すぐ解るよ」
「へエ――」
「深間でも馴染でも、――とにかく、フリの客でないのをみんな訊き出して来るがいい」
「へエ――」
ガラッ八は襟を直しました。行く先が吉原となると、独り者のガラッ八は、商売気を離れて改まった心持になるのでしょう。
銭形平次、これほど見事に背負投げを喰ったことはありません。三輪の万七の望み通り、主人の幸七を縛っておけば何事もなかったわけですが、うっかり邪魔をして、幸七をお通夜の席へ連ねておいたばかりに、取り返しのつかぬ大失策をしてしまったのです。
簡単に言えば、溜屋の主人幸七は、上根岸の寮の庭先で、何者とも知れぬ
幸七は小柄な
急を聴いて、平次も万七も駆け付けました。平次の
「主人の外へ出たのを知ってる者はないか」
再三再四、同じことをくり返して訊くと、
「番頭さんが――」
下女のお金は、恐る恐るこう言うのです。
番頭の徳兵衛はすぐ平次と万七の前に引出されました。
「昨夜主人と庭へ出たそうじゃないか」
万七の顔には仮借がありません。
「出ました。が、それは宵のうちで」
徳兵衛は真っ蒼になりました。
「どんな事をしたんだ」
「人の耳に入れたくない用事でございました」
「それを聴かして貰おうじゃないか」
万七は開き直ります。
「こうなれば、みんな申上げます。――実は主人は溜屋の養子で、――車坂本店の御新造様が、まだ月々の帳面を御覧になりますが、去年の暮から、身請やら、普請やらの出費で、千両近い穴があいております。それを晦日が明日に迫っては、私の勘考でどうにもなりません。お通夜の席から、そっと主人を呼出して、お相談申上げたのはそのためでございます」
「フーム」
そう聴くと、何の疑いもなくなります。
「が、宵に一度庭へ出たくらいなら夜中にも出ないとは限るまい」
万七の問の拙さ。
「とんでもない。親分さん」
「昨夜の通夜は、誰々だい」
「主人と私と、手代の茂助と、小僧の角太郎と、それに御新造の御知合の方が二人、下女のお金はお勝手におりました」
「お咲の知合の方というのは?」
「吉原の方で――もっともこれは宵のうちに帰りました。泊ったのは店の者ばかりで――へエ」
「昼のうち、主人に変ったことはなかったのかい」
これは平次です。
「咲を殺した下手人が判るかも知れない――と、ソワソワしておりましたが」
「…………」
これだけでは何が何やら判りませんが、とにかく、何か用事があって庭へ出た主人が、不意に後ろから襲われて殺されたことだけは確かでしょう。
一人一人当ってみましたが、手代の茂助も、下女のお金も、小僧の角太郎までも、知らぬ存ぜぬの一点張で、完全な
平次は鬱陶しい心持で、車坂の溜屋に向いました。が、ここにも、脱け出す機会を持っている者は二人や三人はありますが、主人幸七を殺すほどの動機を持った者はありません。たった一人女房のお定は、一番疑われる地位にいるわけですが、
三十二三の念入りに醜い女で、少し病的な物の言い方や、丈夫そうな体格などを見ると、夜陰にそっと脱け出して、上根岸まで行って来ないと保証は出来ません。
「だが――」
平次は言いました。
「主人を殺したのは、お咲を殺したのと同じ人間――雪の上に足跡を残さない人間だ。――たぶん下手人を知っているからといって、庭へ主人をおびき出して殺したのだろう。溜屋の
こんな事を言います。
「親分、薄雲の客を書き上げて来ましたよ」
ガラッ八の八五郎が、一晩経ってから、ノソリと帰って来ました。
「馬鹿野郎、それくらいの事をするのに、一と晩かかる奴があるものか」
「へッ、――勘弁して下さい。親分」
「けころへでも引っ掛ったんだろう、呆れた野郎だ。――昨夜のうちにこの調べが手に入れば、溜屋の主人を助けられたかも知れない」
「…………」
ガラッ八はまさに一言もありません。
小言を言いながらも小菊に書いた
でんまちょう さへえ
こうとくじ前 でん助
あさのさまるすい こんどうさえ門
くるまざか たまりやこう七
おなじく もすけ
ほんじょ いしはらさく内
ねぎし じゅう吉
と読めるのです。こうとくじ前 でん助
あさのさまるすい こんどうさえ門
くるまざか たまりやこう七
おなじく もすけ
ほんじょ いしはらさく内
ねぎし じゅう吉
「車坂の溜屋幸七は解るが、もすけというのは誰だ?」
「溜屋の手代ですよ。親分」
「それから、ねぎしのじゅう吉というのは?」
「寮の前の植木屋の倅で」
「これは良いものが手に入った。――それから、幸七の浮気筋を一つ残さず調べてくれ。あれほど遊び好きの男だから、岡場所や、
「へエ――」
「今度は泊って来ちゃならねえよ」
「もう大丈夫で、――
「呆れた野郎だ」
平次は苦笑いをして見送ります。
三輪の万七は、とうとう番頭の徳兵衛を挙げました。その晩主人を庭におびき出した上、かなりの
「主人の幸七が費ったという千両の穴だって、解ったものじゃない。徳兵衛に言わせると、薄雲の身請は引け祝とも五百両はかかっていると言うから、実地に当って聴いてみると、三百両でみんな済んだそうで、主人が死んだとなると、それだけもう細工をする野郎だ」
万七がそう言うのも一理ありました。
「だが、待ってくれ。あの番頭は、あんまり自分に
平次には腑に落ちない事ばかりです。
「野良犬が血の匂いを嗅いで来て、縁側の戸が開いていたんで、死骸の側まで来たんだろう」
「…………」
それも考えられない事はありませんが、
「銭形の
万七は勝誇った中にも一脈の不安があります。
「それが解らないから困っているんだ。薄雲の馴染客の中には、手代の茂助や、植木屋の倅の重吉の名もあることだし」
「それにしても、人二人殺すのは容易じゃねえ。薄雲の客の仕業にしちゃ、大袈裟だぜ」
「とにかく、もう一度当ってみることだ」
平次は手代の茂助を呼出して、もう一度昨夜の事を訊いてみました。が、半通夜で疲れていたので
「それだけは勘弁して下さい。主人に知れると、たとえ以前は勤めの身でも、あんまり好いお心持はなさるまいと、一生懸命秘し隠しに隠した上、御新造にも、おくびにも出さないように頼んでおきました。そんな事で疑われちゃ、間尺に合いません」
泣き出さぬばかりです。
お勝手の方を手伝っている、植木屋の倅重吉を呼び出すと、
「そんな事まで判りましたか、面目次第もありませんが、薄雲とはもう一年も前に手を切ったあっしで、今じゃ御出入先の囲われ者ですから、逢っても顔を見ないようにしていましたよ。――でもあの通り綺麗でしょう。妙に昔の事が思い出されて、
こんな事をツケツケと言うのです。
「昨夜はどこへ行っていたんだ」
「あっしですかえ?」
「…………」
平次はうなずいて見せました。
「申しにくいところで、へエ」
「どこだい」
「新
重吉は無暗に頭を掻いております。
「気の毒だが、それを訊きたいよ」
平次は無反響な顔をして見せました。
「申しますよ。首と釣り替じゃ仕方がありません。――でも、黙っていて下さい。これが知れると、町内の若い者に袋叩きにされかねません」
「…………」
「言いますよ、言いますとも。弱ったね、どうも、その、実は、坂本町のお栄のところで、へッへッ小唄の師匠ですよ」
「宵から入り込んでいたのか」
「とんでもない。
「嫌な笑いようだな」
「相済みません。へエ、人殺しの引合いに出されるんでなきゃ、滅多なことでは言えない事で」
手の付けようがありません。
平次はいい加減にして切り上げると、その場からすぐ坂本町へ飛んで行きました。小唄の師匠のお栄というのは、二十五六の下谷中で騒がれている年増で、平次の峻烈な問にも、最初は容易に応えませんでしたが、半刻あまりの根比べで、とうとう
「人気家業ですから、どうぞ、親分。ここ限りでお聞流しを願いますよ」
「それは心得ているよ。昨夜、誰が一体ここへ泊ったんだ。それを言って貰えばいい」
平次は膝を乗出しました。
「実は――。上根岸の植木屋の重吉さんですよ。半歳前から、人目を忍んでおります」
「時刻は?」
「
平次は唸っております。念のため婆やさんに聴くと、これは少し耳は遠いながら、恐ろしく感の良いのが自慢で、お栄の言葉を、はっきり裏書します。
「植木屋の重吉さんは、三日にあげず忍んで来ますよ。昨夜も来ましたとも。子刻の鐘と一緒でしたよ。私は御酒の支度をすると、すぐ引込むことにしているんです――当てられて
平次は恐れをなして、引さがったことは言うまでもありません。
「やはり手代の茂助かな、それとも?」
女房のお定か、下女のお金か――醜い女の嫉妬が、どんな恐ろしい事を仕出かすか、平次はあまりにいろいろの例を知っております。
「親分」
「あッ、
ガラッ八は往来で待っていたのでした。
「今度は早かったでしょう」
「なんだ」
「あッ、忘れちゃ情けない。――溜屋の主人の
「どれどれ、その
平次は無駄を言いながら、ガラッ八の調べ書を取上げました。
やぐら下 おぎん
ゆしま おこま
くるまざか さのやのむすめ
さかもと おえい
よし丁 若きち
「面白いな、ガラッ八」ゆしま おこま
くるまざか さのやのむすめ
さかもと おえい
よし丁 若きち
「これが夫婦約束をしたのだけですぜ。稼ぐもんでしょう」
とガラッ八。
「おえい――というのは坂本の小唄の師匠だろう」
「え、あの凄い年増で、一しきり、溜屋の主人に熱くなっていたそうですが、近頃は河岸を変えたそうで」
「こりゃ、もう一度考え直さなきゃなるまい」
「下手人は女ですか。親分」
「まだ判らないよ。――もう一度雪が降らなきゃ」
平次は、薄曇りの早春の空を仰ぎました。
その晩は
薄暗いうちに飛起きた平次は、前の晩から泊り込んでいたガラッ八に、何か言い含めると、自分は、三輪の万七を誘って上根岸の寮へ向います。
「何があるんだ、銭形の。俺はお上の御用こそ勤めているが、朝起きとぬるい茶は大嫌いだよ」
そんな事を言う万七を追い立てるように、寮へ着いたのはやがて
主人の死骸は車坂に移しましたが、こっちもお咲の葬式が済んだばかり、茂助とお金と角太郎が、うら淋しく留守を預かっております。
「まア、少し休んで、八の野郎が来るのを待とう。面白いものを持って来るはずだから」
平次は寮に着くと、急に落着き払って、お金のくんでくれる渋い茶などを
それから四半刻(三十分)ばかり。
「親分、用意が出来ましたよ」
裏口から呼ぶのは、ガラッ八の声でした。
「さア、三輪の兄哥」
二人が揃って顔を出すと、この騒ぎですっかり生活をかき乱されたお金が、雪を払い忘れた裏口から往来まで真っ直ぐに二た筋、犬の足跡が――いつかの朝のように、まざまざと印されているではありませんか。
「あッ」
一緒に顔を出したお金は悲鳴をあげました。
「どうした、お金」
「また来ましたよ。御新造さんを殺したのが――」
真っ青な顔を振り向けると、ワナワナと
「御新造が殺された朝の足跡も、この通りだったのか」
と平次。
「え、少しも違いません。今日は少し雪が深いだけで」
「庭へは入らずに、真っ直ぐに裏口から往来へ足跡がついていたんだろう」
「その通りですよ、親分。どうしましょう。私はもう、こんな家には居られません」
お金のウロウロするのを、平次はようやく引止めました。
「もう少し我慢してくれ。八、今度はその犬だ」
「へエ――」
どこからつれて来たか、八五郎の腕には、小さい犬が一匹、クンクン鼻を鳴らして顫えているのです。
「親分、やりますよ」
「さア、やってくれ」
八五郎はそう言いながら、抱いていた小犬を雪の中に
「こんな足跡ではないだろう、お金」
しばらく経って、平次は小犬の足跡の方を指さします。
「違いますよ。あの日の朝のは、こっちの足跡の通りでした」
お金の指したのは、前から道へ真っ直ぐに印されている方の足跡です。
「その足跡は一つ一つ互い違いについているが、犬の足跡は、
平次の説明に、三輪の万七も始めて気がついた様子です。そう言われて見ると、先の足跡は、犬ではありません。
「何だ。あの足跡は?」
と万七。
「竹馬だよ」
「えッ」
あまりの答に、万七も開いた口が塞がりません。
「犬はあんな細い道を二度も真っ直ぐに歩くものか」
平次の言う下から、ガラッ八、どこから持出したか竹馬を一挺、いきなり飛乗るように雪の中へ歩き出します。
「竹馬に乗るのも十何年目だ。――下駄を履いた竹馬なんてのは、乗りにくいネ」
見ると、竹馬の下には、犬の足のように彫った木の栓まで付けてあるのです。
「すると?」
「下手人は外から竹馬で入って、何かの合図でお咲を呼出した。お咲は昔馴染でもあり、さんざん脅かされているので、それを知らん顔をしてはいられなかった。もっともその晩は主人が来ているので、怖々雨戸をあけたところを、男は下から
平次はその場を見ていたように説き進めます。
「すると?」
三輪の万七。
「それだけで止す積りのを、刷毛ついでに金で女を手に入れた溜屋の主人も殺す気になった。もっともこれは幸七に捨てられた女に勧められた事だが――」
「…………」
「お咲殺しの下手人を教えるから――と翌る晩そっと庭におびき出し、強力に任せて後ろから絞めた――余程の力だろう」
「すると?」
三輪の万七も次第に思い当ります。
「あの晩、誰も主人殺しでないという確かな証拠を持っていないのに、たった一人だけ、
「…………」
「雪の上は竹馬で渡れる。――現場に居ないという証拠は、二人口を合せさえすれば、いくらでも拵えられる」
「銭形の、俺にも段々判って来るような気がするが、すると下手人は――」
三輪の万七の言うのを引取って、
「あれだよ」
平次の指す木戸の蔭から、パッと飛出した人間。ガラッ八は猟犬のようにそれを追いました。
「野郎、待ちやがれッ。御用だぞッ」
*
下手人はお咲が薄雲時代の深間だった、植木屋の倅重吉。竹馬で乗込んで薄雲のお咲を殺した後、以前は幸七の
「八、女出入りに気をつけろよ。金があって男が好いと、世間が物騒だぜ」
重吉とお栄の口書きまで取らせて、八丁堀の組屋敷からの帰り、銭形平次はこう言って八を振り返りました。
「へエ――」
その時の八五郎の顔というものはありません。薄雲馴染客調べで、ツイ脱線した八五郎は、当分頭が上がらないことでしょう。