「八、どこの帰りだ。朝っぱらから、たいそう遠走りした様子じゃないか」
銭形の平次はこんな調子でガラッ八の八五郎を迎えました。
「わかりますかえ親分、
八五郎の鼻はキナ臭く
「まだ
「まるで広小路に陣を
「それとも
「冗談じゃありませんよ、親分。二年前に死んだ人間が人を殺したんだ。小石川の
「二年前に死んだ人間が人を殺した?」
「その上まだまだ四五人は殺してやるというんだから大変で――」
「誰がそんな事を言うんだ?」
「二年前に殺された人間ですよ」
「さア解らねえ、まア落着いて話せ」
「落着いて聴いて下さいよ親分、こいつは前代未聞だ」
ガラッ八の持って来た話は、あまりにも
「小石川陸尺町(安藤坂下――昭和十八年頃の水道町)の
「陸尺町の成瀬屋総右衛門――二三年前に御府内を騒がせた大泥棒
平次はよく知っておりました。そのころ義賊と称した泥棒で、その実、百両
その蝙蝠冠兵衛ほどの
小石川切っての大地主で、巨万の富を積んでいる成瀬屋は、蝙蝠冠兵衛に
蝙蝠冠兵衛は間もなく鈴ヶ森で獄門になりました。生前の善根らしきもののお蔭で、助命の歎願などもありましたが、もとよりそんなものは取上げられるはずもなく、一代の巨盗もそれっきり江戸っ子の関心から拭い去られてしまったのです。
「――その成瀬屋総右衛門の家へ、二年前に
「待ってくれ、そいつは捕物じゃなくて怪談だぜ、八」
平次は恐ろしく
「その怪談が大変なんで、一と月も前から成瀬屋の一家を
「よくある
「ところが、とうとうやりましたよ、親分」
「…………」
「成瀬屋の用心棒――腕自慢の力自慢で、そのうえ恐ろしく気の強い番頭の伝六が、見事に芋刺しになりましたよ」
「殺されたというのか」
「寝ている心の臓をたった一と突きだ。グウとも言わずにやられたらしいんで」
「お前見て来たのか」
「恐ろしい手際だ。行ってみませんか親分」
八五郎が舌を振るって驚いているのです。
「よし行ってみよう。幽霊を縛るのも
「ありがたい、親分が動き出しゃ百人力だ。ところでこのままじゃあっしの方が動けませんよ」
「どうしたんだ」
「まだ朝飯にありつかないんで、――あわてて飛出したが、
「馬鹿だなア」
八五郎のために遅い朝飯の用意をする女房のお静の後ろ姿を見ながら平次は苦笑しました。
店の人達の白い眼の中に、土地の御用聞
「銭形の親分が来てくれさえすれば、亡霊も退散するだろう。こいつはどうも、あっしの手におえそうもない」
若い留吉は、よく
「どうしたんだ、金富町の
平次ははなっからこれを生きている人間の仕業と見抜いている様子です。
「だが、こいつは人間業じゃないぜ。戸締りは伝馬町の
「まア、見せて貰おう」
成瀬屋というのは、山の手きっての大地主で、この辺一帯、旗本
主人の総右衛門は五十七八の典型的な大旦那で、
「これはこれは銭形の親分、とんだお騒がせをいたします。――大泥棒を縛って、御上の御手伝いをして、その泥棒に祟られたとあっちゃ、私も人様へ顔が合わされません。なにぶんよろしくお願い申します」
こういった態度で平次と八五郎に接してくれました。
成瀬屋の構えは、
番頭の伝六が殺されていたのは、店の次の間、大銭箱の前で、昼は恐ろしく薄暗いところですが、奥と店とお勝手との要衝で、支配人が頑張るには、いちばん都合の良い場所です。
通路は三方にある外に、この部屋から
「ここでこう寝ているところをやられたんだが、――蒸し暑い晩で、胸まで抜け出して寝ていたにしても、寝巻の上から、
留吉は説明してくれました。六畳はまだ掃除が済まなかったものか、
平次はその部屋を中心に、店へ、奥へ、お勝手へと探索の手を伸ばして行きました。
お勝手は田舎の台所ほどの広さで、締りは恐ろしく厳重ですが、引窓が引き忘れたように開いております。牢屋のような締め切られた家で、ここだけ開いていたのは、「ここから入りました」という証拠のようで、少し変でないこともありません。
外へ廻ってみると、この間の嵐の後で、屋根の漏れを見た時の梯子が、そのままお勝手の横に掛けてあります。これも「ここから入りました」の証拠の一つです。
多勢の奉公人は、みんな離室に寝る中で、殺された伝六と、下女のお
「ゆうべ引窓を閉め忘れたんじゃないか」
平次はやはりこう
「とんでもない、親分さん。私は二度も戸締りを見てから休みましたよ」
三十がらみの働き者らしいお大、躍起となって弁解します。
伝六の死骸は、殺された部屋の次の間に、傷口に
凶器は恐ろしく変っておりました。それは三尺ほどの
「フーム、こいつは恐ろしい道具だ」
平次はその斑々たる手槍の折れを眺めております。
「そいつは二階の
留吉も凶器の特異性には気が付いた様子です。
「二階を見ようじゃないか」
平次は先に立って、店二階へ登りました。ガラクタといっても大家で、
ほかに満足な槍が三筋、弓が二た張、矢が二三十本、これらはすべて、昔の豪族が、家の子郎党の手で自分の家を護った時の
二階を見ているところへ、主人の弟で豊次郎という中年者が入って来ました。腰の低い四十五六の男で、平次が望むままに、いろいろのことを説明もし、戸締りの具合なども見せてくれました。二階の戸締りも厳重以上で、豊次郎に言わせると、掃除のとき開けるだけ、それに恐ろしく
伝六の殺された部屋は、四通八達の要路で、どこからでも入れますが、武芸自慢で、恐ろしく眼ざとい伝六が、二階から槍の折れを持出して来て、胸に突立てられるのを知らずにいるとは思われず、下手人はどうして凶器を持出したか、どうして伝六に近づいたか、それがいちばん興味のある疑問です。
「
「へエ、――
豊次郎は平次のために、行灯の位置まで指してくれます。
母屋に寝るのは、この外に主人総右衛門と女房のお早と
お早は主人とは少し年齢が違いすぎるくらいで、四十そこそこの女。板橋在の百姓の出で、正直者らしい代り、慾は深そうです。これは何を訊いてもいっこう要領を得ません。
倅の島三郎は二十歳、少しは帳場も手伝いますが、これは気も弱そうで、人などを殺せそうもありません。その妹のお芳は十八の恐ろしく色っぽい豊満な娘。兄の島三郎とは反対に、気力も健康も
「やはり外から入ったんだね」
留吉はそう
「いや、金富町の親分の前だが、あの引窓を外から開けて入れる道理はない。あっしは下手人は内の者だと思うが――」
ガラッ八は柄にもない抗議を持出しました。
「家の者なら、もう少し人間の入れそうな場所を
「…………」
留吉の言うのは
「それに曲者は、ゆうべ戸締りをする前――夜のうちにそっと潜り込んでいる
「逃げる時は、あの引窓から出たというのか」
ガラッ八、大きく開いたままの引窓を見上げました。
「そんなことはございません。戸は明るいうちに締めてしまいますし、寝る前には私か伝六が、家中を見廻ります」
主人にそう言われるとそれまでです。ガラッ八や留吉の世帯と違って、金持にはまた金持らしい、神経質な用心のあることを、二人ともよく心得ているのでした。
「引窓は閉っていても、外から入れないことはないよ」
今まで黙ってあちらこちらを調べていた平次は、こんなことを言いながら皆んなの前に顔を出しました。
「縁の下は駄目だぜ、銭形の」
「縁の下じゃない。――引窓から入れると思うんだ。八、そこを閉めてくれ」
「外から開けるんですか、親分」
「手加減なんかしちゃいけないぜ、
引窓の綱を絞って、厳重に結ぶのを見て、平次は外へ出て行きました。
まもなく、お勝手の横に掛けてあった
厳重に
引窓はサッと開いて、平次の笑った顔が、大空を背景に頭の上に現れました。
「あッ」
驚く人々の前に、引窓の綱を伝わった平次は、なんの造作もなく軽々と飛降りていたのです。
「やはりここから?」
「いや、これも一つの
「?」
平次はこの素晴らしい発見を忘れてしまったように、クルリと
平次の仕事は一とわたり家の内外を見ると、次には死んだ巨盗
「そいつは主人が預かっている。
留吉に言われて、主人の部屋に通ると、
「その手紙はここにございますよ」
主人は気軽に立って
「あッ」
立ち
「どうした」
留吉も八五郎も覗きました。
「ない。――確かにここへ入れたはずだが、なくなってしまいましたよ」
分別者らしい総右衛門も、さすがに顔色を変えます。
「そんなはずはあるまい」
「でもこの通り、箱は空っぽになって、灰が一と握り――」
銭形平次はその騒ぎを後ろに聴いて、そっと廊下に出ました。店の方には奉公人や近所の衆が、多勢で騒いでおりますが、ここはひっそりと静まり返って、廊下にも庭にも人影はなく、少しばかりの植込みを隔てて、恐ろしく高い塀が、物々しい忍び返しを見せて突っ立っております。
平次は遠慮もなく次の部屋の障子をサッと開けました。
「あッ」
物に
「お嬢さん、ちょいと見せて下さい」
平次はざっと部屋の中を見廻して、父親の部屋に通ずる境の唐紙などを動かしたりしております。部屋の中には鏡台が一つ、火鉢が一つ、針箱が一つ。あとには何にもありません。
「あの――」
娘は何やら物言いた気ですが、何に脅えたか、また口を
「お嬢さん、なにか知ってることがあったら言って下さい」
平次はそれへ誘いをかけましたが、一度緘された娘の唇は、容易に開きそうもありません。
娘の部屋の隣は納戸で、納戸の先は暗い四畳半。そこに親類の娘というお町が、長い
「御免よ――」
スッと無違慮に入った平次。部屋の中の薬臭いのに、さずがに顔を
「…………」
黙って見上げた病人の眼は、不思議に活き活きと光っております。
二十三というには少し老けて、病苦のやつれが頬を刻んでおりますが、蒼白い顔は名工の
「どうだ、気分は」
「ありがとうございます。この通りで、皆さんに御心配をかけております」
痛々しく伏せた眉、
「ちょいと脈を見せてくれ。――いや右じゃない左だ」
平次は病人の枕元に
「へエ、――親分が脈を
ヌッと顔を出したのはガラッ八でした。
「黙っていろ、医者や
「へ――ッ」
八五郎は引っ込みのつかない様子で突っ立ちました。苦笑いを殺した唇は
「ところで、お前はここの主人と、どういう掛り合いになるんだ」
平次は娘の枕元に坐り込んでしまいました。
「――私は、あの、先代の成瀬屋の
「ホ――ッ」
変な声を出したのはガラッ八です。
「成瀬屋の先代が身代限りをしそうになったのを、遠縁の今の主人が入って立て直し、私は
お町の調子は淡々としてなんの
「皆んなはお前によくしてくれるか」
「それはもう、三年越し患っている私を、こんなにお世話して下さいます。なんの不自由もございません。
お町は枕の上に顔を伏せて、何やら念じている様子です。
「主人はどうだ」
「あんな良い方はございません。慈悲深い、思いやりのある方で、町内でも評判でこざいます」
それは平次も聴いておりました。善根を積むより外に余念のない成瀬屋総右衛門の評判は、神田あたりまでも響いていたのです。
「子供たちは?」
「島三郎さんはお店の方が忙しいようで、――よく働きます。お芳さんは本当に良い方で」
「お
「正直
これは大した褒めようもなかったのでしょう。とにもかくにも、成瀬屋の家族に対する、お町の感謝と好意には疑いもありません。
巨盗の幽霊の手紙は、明らかに紛失しましたが、さいわい総右衛門が文句を
手紙は三本とも、外から店に投げ込まれたもので、いずれも半紙を八つに畳んで結んだもの。中はかなりの達筆で、二年前生捕られて散々なぶりものにされた上、役人に引渡された怨みを
「筆跡は?」
「堅い字でした。今時あんな字を書く者は滅多にありません。女子供やお
総右衛門は言うのです。
「紙は?」
「ただの半紙だ。――どこでも売っている」
留吉が応えます。
「店へ
「朝早くか、夕方――薄暗くなってからでございます。誰か気が付いて拾いましたが、投り込んだ者の姿は見たものもございません」
「御主人の弟――豊次郎さんとか言ったね、あれは本当の弟じゃあるまいね」
「義理の弟でございますよ。私の先妻の弟で」
「子供さんたちは」
「皆んな本当の子でございます。今の家内の生んだのばかりで、――倅はよく店を手伝ってくれますが、娘はただもう
その我儘が可愛くてたまらない様子です。
「誰かに怨まれている覚えはないだろうか、金のこと、縁談のこと、
「なんにもございません。金も少しは融通しておりますし、土地も家も人様に貸しておりますが、無理な取立てはいたしません。縁談もまだ決った口がないので、心配しております」
「あのお町――という娘は?」
「この成瀬屋の先代の娘でございます。成瀬屋が没落したとき、少しの縁故をたどって、さる大名屋敷に奉公に出ておりましたが、五年前私が引取りました。先代への義理でございます。精いっぱいの養生はさせておりますが、何ぶんあの通りの病気で、そのうえ遠慮深い
総右衛門の言葉には少しの暗い影もありません。
平次も八五郎も留吉も、突っ放されたような心持で、庭先に顔をあつめました。ここからは小石川牛込一帯の低地を眺めて、なかなかの景色ですが、そんなものはもとより眼にも入らず、巨盗蝙蝠冠兵衛の亡霊だけが、三人の胸の中に、次第に現実味を帯びて生長して行くのです。
「親分、あの娘が変じゃありませんか」
「誰だ」
「お町とかいう、病人の――」
「…………」
「親分は脈なんかみたでしょう、
「大笑いさ、あの娘の掌に灰が付いていさえすれば、物事は一ぺんに片付くよ。ところがそんなものはないよ、
平次は医者の真似などをした間の悪さに、一人で苦笑いをしております。
「お芳の方は」
「これも綺麗だ――が、綺麗すぎたよ、洗ったばかりなんだ」
「洗ったばかり? あの娘の部屋を捜しましょうか、三本の手紙はどこかに隠してあるに違いない」
「
「ここに泊り込んでですか、親分」
「俺から主人へそう言ってやろう。脅え切っているから、喜んで泊めるだろうよ」
それは平次の予想通りでした。蝙蝠冠兵衛の脅迫はまだ果たされたわけでなく、この上の用心にガラッ八が泊ってくれるのは、成瀬屋にとってはこの上もない心丈夫なことだったのです。
「親分、なんにも変ったことはありませんよ」
ぼんやり八五郎が帰って来たのは、それから五日も経った後でした。
「ところがこっちには変ったことがあるよ」
「何です、親分」
「蝙蝠冠兵衛の倅が捕まったよ」
「へエ――」
「幸吉と言って、こいつは親に似ぬ堅い男だ。浅草で
「それで、やっぱり成瀬屋の引窓から忍び込んだのはその野郎で――」
「それが分らないのさ。留吉兄哥はそう決めているようだ。が、幸吉はあの晩女房と一緒に家にいたというんだ。女房と一緒じゃ信用が出来ないと留吉兄哥は言うが、どうも嘘らしくないところもある。――それに、外から曲者が入ったとすれば、二階の
平次はすっかり考え込んでしまいました。その時――。
「お手紙ですよ」
二人の
「どこで、それを」
「井戸端へ小僧さんが持って来ましたよ。十四五の、それは可愛らしい」
「八」
「よし」
八五郎は飛んで出ましたが、その辺にはもう小僧の姿の見えるはずもなく、野良犬を蹴飛ばして、張板を二三枚倒して、八五郎はぼんやり戻って来ました。
「見えませんよ、親分」
「まアいい、どうせお前に捕まるようなどじじゃあるまい」
「どじの中だから、あっしのようなどじにも捕まるだろうと思いましたよ」
「
平次は手紙を開きました。何の特色もない半紙に、右肩の上がった四角な字で、
倅幸吉には何の罪も無之 、飽 くまでも成瀬屋を怨 むは此 冠兵衛に候。その証拠として近々一家を鏖 に仕る可く随分要心堅固に被遊可 く候 頓首
蝙蝠冠兵衛 亡霊
銭形平次殿こんな人を
「八、こいつは大変だ」
平次は顔色を変えました。
「
「いや、――脅かしならいいが、――幸吉を助けるつもりで、何をやり出すか分らない」
「?」
「幸吉は挙げられている。――成瀬屋に
「へエ――」
ガラッ八も次第に呑み込みます。
「ところが、下手人の素姓が今のところまるっきり分らない。幸吉でないとすると――」
「やっぱり冠兵衛の幽霊?」
「馬鹿な事を。幽霊が人を殺せる道理はない」
「でも、あの槍の折れを胸に打ち込んだのは大変な力ですぜ」
「大変な力だ。人間業ではむずかしい。が、やっぱり二本足のある人間の仕業だ」
「そいつを捜し出すには、どうしたものでしょう」
「成瀬屋の家の者を皆んな洗え。主人夫婦を怨む者はないか、奉公人の身持、倅と娘の縁談、あのお町という娘のいた大名屋敷、先代の成瀬屋の没落した時の様子、殺された番頭伝六の身持、身寄り――」
「それから」
「そんな事でいい。下っ引を存分に駆り出して、一日か二日の間に、手の届くだけ調べ抜いてくれ。どんな事が持上がるかも知れない」
平次は残る
いや、平次は不可能な事をさえも仮定して、伝六を殺し得る相手を考え出そうとしているのです。
「さア、大変ッ、親分」
ガラッ八が飛込んで来たのは、それから三日目の朝でした。
「どうした、八」
今度ばかりは平次も、それを真剣に受けて
「成瀬屋の
「何?」
「今朝の味噌汁でやられましたよ。主人もお神さんも、倅も娘も、ことに親類のお町などは九死に一生の騒ぎだ」
「行ってみよう」
平次とガラッ八は、伝通院前まで飛んだことは言うまでもありません。
成瀬屋は死の
一番重態なのは病弱なお町で、いちばん軽いのは主人の総右衛門、その口から平次はいろいろの事を引き出しました。
中毒したのは奥で食事を
「私は店の用事で朝の食事が遅れました。これから始めようとすると、皆んな苦しみ始めたんで、これはいけないと思って止しましたよ」
そう聞けば何の変哲もありません。
集まった医者は三人。三人とも口を揃えて毒は裏庭に今を盛りと咲いている
下女のお大は当面の責任者ですが、ただおろおろするばかり、裏の方へなにか入って来たので、味噌汁を仕掛けたまま一度見に行ったとは分りましたが、そのあいだお勝手に入って、鍋の中へ毒を仕込んだ者は誰かとなると、そこまでは分りません。
裏庭へ行ってみると、なるほど鳥兜の花が美しく咲き乱れておりますが、この根にそんな猛毒があることは、一般に知られていないことでもあり、たくさんの鳥兜の中にたった一本根を痛められた様子で枯れかかったのはありますが、それとてもいつ、誰がやった事やら、奉公人たちに訊ねても分る道理もない有様です。
その日は騒ぎに暮れて、病人は医者の手に任せたまま、平次はともかくも引揚げました。金富町の留吉が、豊次郎を挙げそうにしましたが、「まだ早い」と目顔で合図をして、
神田の家へ帰って来ると、八方に出した下っ引が、いろいろの情報を集めて二三人待っています。
「親分、あの主人の弟の豊次郎というのは太い奴ですよ。――
――と一人。
「殺された伝六はひどい奴で、成瀬屋の先代に奉公人とも居候ともつかずに入り込み、人の良い先代を
――と次の一人。
「あのお町という娘は感心な娘で、四五年前までさるお大名に奉公していたが読み書きから武芸まで一と通り以上に出来る上、女ながら弓が名誉で、総右衛門が引取ると言ったとき、奥方がたいそう惜しがったということですよ」
こんないろいろの情報の中から、平次は自分に必要な材料をかき集めているのでした。
「親分」
最後に飛込んで来たのは八五郎です。
「なんだ、八」
「お町は今晩中
「病気は大して重くはないと言ったな」
「え、――それが、乱暴じゃありませんか、今朝に限って若い娘のくせに、味噌汁を二杯も替えて喰べたそうで」
「病人が、味噌汁を二杯? よし、行こう」
「どこへ行くんで、親分」
「お町に逢っておきたい。死なれちゃ大変だ」
宵も夜中もありません。平次とガラッ八は、そのまま小石川
成瀬屋に着いた時は、平次が恐れたように、お町はもう頼み少ない姿で、医者もすっかり
「ちょいと、お町に話したいことがある。みんな遠慮して貰いたいが――」
平次はお町の部屋から人払いをした上、隣の部屋に八五郎を頑張らせて、さて、病人の枕元に近づきました。
「お町、――望み通り、お前は助かるまい。こうなっては隠すことはないはずだ。みんな話して、心持を軽くしてはどうだ」
「ありがとうございます――親分さん――実は――」
「よしよしお前は苦しそうだ。俺が代って
平次の言葉が優しく静かにひびくと、お町の熱を持った眼は、大きくまたたくのでした。
「お前は伝六を怨んだ。そして成瀬屋一家の者を怨んだ。お前の父親をむずかしい
「…………」
お町の眼はまたまたたきます。それはジッと苦悩を
「お前は慈悲善根を売物にしている総右衛門に引取られるまま、この家へ入り込んだ。父親の
「…………」
「お前は病気で弱っているように見せかけたが、見かけほどは弱っていなかった。お勝手の横に
「…………」
「夜中になると、かねて見定めておいた
「…………」
お町の眼は力なくまたたきます。
「冠兵衛の偽手紙を、主人の手箱から盗ませ、代りに灰を入れたのは、お前がお芳を
「…………」
「冠兵衛の倅の幸吉が縛られたと聞いて、お前はそれを助ける気になった。そして、成瀬屋の一家の者に思い知らせて自分も死ぬ気になった。鳥兜の根はかねて庭から掘って用意していたはずだ。下女のお大がお勝手をあけると、お前はそれを
銭形平次は驚きました。平次の言葉を静かに聴き入っているうちに、お町の眼の色が次第に力が
窓から射し入る秋の